★15章 地獄谷(1998.5、2001.9.16)

 八ヶ岳は火山の噴火によって出来た山である。しかし、あっちこちで噴火して、互いに埋め合っているので、爆裂口がパックリと大きな口を開けているのは硫黄岳だけである。北八の天狗岳周辺や大岳周辺は真っ黒い溶岩がゴロゴロしていて噴火口がはっきりしない。
 八ヶ岳連峰の北の外れにある蓼科山は綺麗な独立峰で、噴火口ははっきりしているが、大きな溶岩で平らに埋まっている。

 麦草峠の国道299号のすぐ北側に小さな”茶水の池”というとりとめもない池がある。雨池へ行くときには、この池の中に不規則に点在する石を、飛び石代わりに渡って行く(最近木道が出来た)。この池の左側に、この辺りの見取り図が立てられている。何となく見てみると、茶水の池の先に水色に塗られた小さな池が描かれていて、消えそうな字で地獄谷と書かれている。五万分の一の地図を広げてみると、等高線の小さな輪があるだけで、辺りと同じ茶色に塗られていて、側に地獄谷 と書かれている。

 この近くに住み始めて5年以上経つが、この谷の存在に気がつかなかった。
 名前がどぎついので少し気になり、麦草ヒュッテの人に尋ねると池ではなく旧噴火口だという。そんなものがあったのかと早速行ってみることにした。
 北八独特の苔むした岩と木の根を縫うように雨池に向かうなだらかな道を15分ぐらい歩くと、笹が繁茂している明るい粗林に出る。そこに普通なら見過ごしてしまうような左に折れる細い道がある。その道とは反対側に、昔は道標だったのか腐った細い棒が一本立っている。そこを左に曲がって、更に5分ほど行くと、鬱蒼と茂る森の中に、遥か昔の名残を示す噴火口が忽然と現れる。

 直径5,60メートルの擂り鉢状の窪地である。深さは30メートルも有るだろうか、窪地には苔で覆われ、2~3メートル巨岩が重なり、岩の間が深い隙間になっている。北側の面は、日が当たるためか、乾いた岩肌がそのまま出ているが、上に行くに従って、針葉樹で埋まり、そのまま周りの森に溶け込むように広がっている。南面と東西の面は、底の方から、苔むした岩に続いて低木が蒲団のように厚ぼったく生い茂り、上の方の大きな森に続いている。真上はぽっかりと抜け、青い空が丸く広がっている。

 一ヶ所だけ人が降りて行けるルートがある。すり鉢の壁の途中まで何故か直径10センチ程の細い木が沢山生えている。その木にすがりながら降りていくと、真夏でもひんやりとした冷気を感ずる。
 7月の暑い日でも南側の基底部の大岩の陰には、雪が残っている。その厚さは良く分からない。多分下の方まで万年雪になっているのかも知れない。人が居ないためか少し不気味な感じもする。すり鉢の底から上を見上げると、深い谷底に閉じ込められたような錯覚に囚われる。

 箱庭のような規模の噴火口であるが、深い森と静寂さとが相まって、何となく存在感がある。
 珍しい場所なので、その後も山小屋を訪れる人を案内して来る。9月のある日、山や自然が好きな息子夫婦が来たので、連れていった。空気はひんやりしていたが、残念ながら氷はもう残っていなかった。代わりにもっと素晴らしいものがあった。

 中年の女性が二人、我々の後からやって来て地獄谷の中に降りてきた。聞くともなく二人の会話を聞いていると、「××苔があるのよね」と言って南東面の岩の方に行き、大きな岩の間を覗いて「ほらね」と言った。我々も覗いてみた。間違いなく××苔だった。しかも可成り広い面で生育している。周りを探してみると、何カ所にもあった。

 雪はなかったが、地獄谷に新たな価値を発見してちょっぴり満足であった。
 此処は知る人ぞ知る秘密の場所なのである。此処へ来る山道の曲がり角に道標を建ててない理由が分かった。

 古代の庭から再びタイムスリップして明るい雨池への道に戻ると、笹藪の平坦な地形をいつもの日射しが照らし、地獄谷へ行ってきたことを忘れさせる。

★16章 硫黄岳に登る(1996・7) 

  山小屋に来るようになって、親しい友人夫妻と毎年春と夏に山登りをする。一緒に行くのは八ヶ岳だけではないが、我が家に泊まっていくときは近いので自然に八ヶ岳が多くなる。

  今年の夏は硫黄岳に登り、硫黄岳小屋に一泊する予定を立てた。前日から友人夫妻は我々の山小屋に泊まり、翌朝早く出かけることになった。硫黄岳への通常のルートは、八ヶ岳を隔てて我が山小屋の反対側、詰まり西側の箕ノ戸口から歩き始め、赤岳鉱泉を通って行くものである。しかし、今回は歩く距離が少し短いことと我が家から登山口までが近いこともあって、イナゴ湯から入り、本沢温泉を通って行くことにした。因みに本沢温泉は日本で二番目の高所温泉である。八ヶ岳の東側では温度の高い温泉は此処だけであり、最も温泉らしい温泉である。

  車でイナゴ湯の先の本沢入り口まで行き、そこに車を置いて出かける。単調な長いアプローチで、天狗岳が時折見えるだけで景色はさほど良くない。それでも時折聞こえる甲高い「ヒーンカラカラ・・・」と言うコマドリの鳴き声に単調さが破られる。行程表には二時間と記されていたが、二時間半ほどで本沢温泉に着いた。
 この温泉は今度の山行の目的ではないが、一度雰囲気を見てみたいと思っていたので何となく満ち足りた気分であった。本沢の野天風呂が見下ろせる高台で昼食を取り、再び夏沢峠を目指して歩き始めた。この辺りからは目的地硫黄岳の勇姿がハッキリと見え、間近に見える荒々しい爆裂口の凄まじさに圧倒される。

  夏沢峠までは本沢から一時間余りで、最後の急登は少しきついが何とか予定通りに到着した。夏沢峠には二軒の山小屋が二メートルほど離れて向かい合わせにあり、その間が登山道になっている。その直ぐ先に硫黄岳への道標がある。二十分ほど休憩し、そこから一時間行程の硫黄岳へ向かう。

  少し行くと2500メートルの森林限界を超えるのでハイマツと岩石のガラガラ道になる。鉄平石の様な大きな岩が時に動き、「カラカラ」と音を立てる。更に進むと、ルートは爆裂口の切り立った縁に近づいたり離れたりするスリリングな道になる。
 上の方を見ると硫黄岳頂上付近に沢山ある大小のケルンが見え隠れする。所々に風でいじけたハイマツが岩の一部を覆い、その周りや陰に可愛らしい高山植物の花々がそよ風に揺れている。友人は高山植物に詳しく、時折解説してくれる。
この辺りは、我々の山小屋から望遠鏡で見ると登山者が行き来するのがよく見えるところである。

  予定より少し遅れて2742メートルの頂上に着く。全体で四時間行程であるのでそれほど厳しくはない。頂上は>一面広い岩原で、何処が頂上か分からないほどである。右には赤岳鉱泉からのルートを示す道標が見え、左端には爆裂口の縁が大きくうねって左回りに続いている。南の正面より少し左に寄った方向が硫黄岳小屋、横岳、赤岳へ続く道になっている。大小のケルンが広い頂上を間違えないよう尾根伝いに幾つも作られている。
 此処は若い頃縦走で二回ほど通っている筈であるが、殆ど覚えていなかった。

  一服して、頂上を越え、硫黄岳小屋の方へ向かう。20分も歩くと小屋である。そこへ至る瓦礫とも土とも付かぬ道端に、高山植物の女王、駒草があちこちに咲いている。直径20~30センチの白緑の房のような葉が株をなし、その中から10cmほどの茎を出し、その先にくるりと反り返った濃い桃色の花が何本も寄り合って可憐に咲いている。天狗岳、特に西天狗岳にも一部咲いているが、こちらのスケールはずっと大きく、広い範囲に点々と咲き誇っている。奥様方の歓声に釣られて男共も群落毎に立ち止まりその美しさを鑑賞した。

  小屋に着くとその周りは一面高山植物で赤、紫、白、黄色に彩られ、今夜の小屋泊まりの登録を忘れて大はしゃぎであった。到着時刻が早かったので登録を済ますと早速外に出た。この辺り一帯は高山植物が豊富なことで有名で、地図にも記されている。駒草は勿論、ウルップ草、梅鉢草、・・・、友人は例によって、一つ一つ解説してくれる。暗くなるまで興奮しながら歩き廻った。
 翌日も良い天気であった。朝の澄んだ空気の中に360度、山々の勇姿が拝める。南アルプスの北岳、駒ヶ岳、仙丈岳、中央アルプスの木曽駒ヶ岳、御岳山、北アルプスの乗り鞍岳、穂高岳、槍ヶ岳そして富士山など有名な山が一望できる。

  高山植物と山々をすっかり堪能し、同じ道を帰途に就いた。何時か家内を隣の大きなピーク、横岳、赤岳に連れて行くつもりである。
 

★17章 サイクリング (1998.8)

 有る夏、会社の若い連中が山小屋に来てくれた。普段は余り入ったことのない林道でサイクリングをやろうと言う計画である。車二台で来た二組の夫婦と私の五人である。
  若者は立派なサイクリング車と専用スーツで固めた颯爽とした出で立ちであったが、私のは子供達が使っていた古いサイクリング車まがいの自転車を修理したものである。ギアは外装6段変速で、タイヤは凸凹のあるサイクリング車と同じ物を付けているが、その他はブレーキからフレームまで都会用の自転車である。おまけに小さな買い物籠が前に付いている。

  林道であるから余り荒れていなければ車も通れるのでそれで十分であるが、若者とのバランスは如何にも悪い。新しく揃えても次に何時使うか分からないので廃物利用でごまかした。                                         
  この恰好は若者がおジンスタイルと呼ぶ元凶である。彼等が嫌悪感を持たない程度に全体のスタイルを決めてやるのも若者への礼儀かも知れない。

  勿論彼等は嫌な顔一つ見せず(でも何年か後に「あの時は確か子供の自転車の改造でしたよね」と言われた)、五台の自転車を二台のワンボックスカーの内と外に積み、国道299号を自然園まで登った。小屋から10キロメートル程の処で、そこは林道の入り口になっている。別荘地との標高差は300メートルほど有る。そこから、更に一時間ばかり登り、10数キロの林道を下ろうと言う計画である。山の地図が正しければ、林道は、我が家から国道299号を1キロほど登った所に出る筈である。

  自然園からの林道の登りは広く整備されている。しかし傾斜は相当きつく、サイクリング車でも長くは漕いでいられない。途中縄文時代の遺跡が一、二カ所ある。そんな場所は、ちょっと覗いて休憩するのに丁度よい。八ヶ岳周辺には縄文時代の遺跡がかなり沢山あるが、今は指導標が立っているだけである

  山と森に囲まれた林道は変哲もない。でも若い人達は初めての景色の中で満足げであった。夏の山を見回しながら綺麗な空気を一杯に吸っていた。
  一時間も登ると、小さな川が現れ、それを渡ると、八ヶ岳で最も長い林道に突き当たる。この林道は八ヶ岳の北端の大河原峠に始まり、八柱山を巻きながら双子池、雨池を経て別荘地まで延々20数キロも続いている。このT字路は材木の積み出し基地に使っているのか、やや広い平地になっていて、木の皮や木っ端が散らかっていた。木陰に入り、持ってきた握り飯をみんなで輪になって食べる。旨い。後は下りのみなのでゆっくり休む。

   ここまでの道は八柱山への最も近道の林道で、工事の車やハイキングの人が通るので、歩きやすかった。しかし、ここからの下りは長く、林業関係の車がたまに入ってくるだけで、草は身の丈ほどもあり、道も見えないくらいである。その下に車の轍があったり、大小の石ころが隠れていたりする。殆ど漕ぐところはないが、スピードが出るので危険である。
  草に触れて少々痛い。景色を見る暇がないほどだ。時々草が無く小さな砂利ばかりの所があり、ふっと息を付くと同時に回りの景色を見る。遠く奥秩父の山々が霞んでいる。小休止だ。それぞれに日陰を選んで休憩。写真などを撮る。

  林道は山腹をトラバースしているため、時々小さな川を横切る。橋は無く、土管を埋めてその上に土を盛ってある。水は何と言っても最も嬉しい清涼剤である。川まで降りて手ぬぐいを濡らし、顔や首を拭く。そこには珍しい夏草やウドの大木が生い茂っている。しかし思ったより山菜の数は少ない。主に北斜面をトラバスする地形だからかも知れない。

  実は林道を走ってみたかったのは、常日頃、長い林道の奥まではなかなか人が入らず、山菜の宝庫があるかも知れないと期待してのことであった。一寸がっかりしたが、山小屋の近くの林道を一通り見ておきたいという希望は叶えられた。

  単調な景色であったが、程なく国道299号に出た。そこは地図で予想した通り別荘地の最も高い所に有る林道の出口だった。何時も通りすがりに「何処からの林道かな」と気になっていたところである。車止めの鎖が掛けられ、偶にその前に山菜取りの車が止めて有るので、もしかしたらこの林道沿いに山菜が沢山あるのではと期待していたが、どうやら出口から数キロは北斜面であり、その先10キロにも山菜は殆ど無いことが確認できた。

  別荘内を通り抜け、我が山小屋に着いた。残して有った車の一台に三人が乗って自然園入り口に置いた車を取りに行った。二人の奥様方は夕食のバーベキューの用意である。
  適度に疲れた体に、仲間の一人が昨日造った岩魚の燻製や焼き肉をつまみにして冷たいビールを飲む。こんな時のビールは最高である。

★18章 マダニ(1998.10)

 山荘を基地にして高山植物の豊富な山々をよく徘徊する。小諸から北へ走って高峰高原の車坂峠まで行くと、そこと湯ノ丸高原の地蔵峠を結ぶ未舗装の湯ノ丸林道がある。その中間に標高2040メートルの三方ヶ峰と言う山がある。その辺り一帯は池ノ平と呼ばれ、起伏が比較的少なく、春から夏に掛けて一面高山植物が自生し、一大お花畑となる。特に三方ヶ峰には普通2500メートル以下では見られない高山植物の女王”駒草”が群生している。花の種類も多く、池の平だけの植物図鑑が出版されているほどである。池の平一帯をゆっくり散策すると三時間ぐらい掛かり、高山植物の好きな人には一寸したハイキングのメッカである。我々も良く出かける。

 ある夏の日、我が山小屋に遊びに来てくれた会社の仲間をつれて花を見に行った。その日は曇りで、途中から小雨が降り出し、所々の木の下で雨宿りをしながら、それでも何とか一回りできて満足した気分で帰途についた。 途中、車を運転していると脇腹が何となく痛痒い。「虫でも入って喰われたのかな」と服の上から二三度掻いていたように記憶しているが、そのうち忘れてしまった。

  その日はみんなで東京に帰る日であったので、山小屋に戻って荷物を積み、再び車を運転して帰途についた。運転している中にまた痛痒くなった。今度は少し痛みが強いが、車を止めて調べてみるほどではないので、服の上からぼりぼりと掻きながら東京に着いた。

  少し気になるのでシャツを脱いで見ると、7~8ミリぐらいの黒い虫が脇腹に頭を突っ込んで尻尾と足を僅かに出している。「これは何だ」と初めてびっくりしてピンセットで取り出そうとしたが、しっかりと食い込んでいて、無理して取ってもちょんぎれてしまうだけだと分かった。

  夜も遅かったが、急に心配になり、杏林病院の救急に駆け込んだ。あまり待たされずに当直医が診てくれた。「ああ、これはマダニですよ」と、こともなげに言った。「この虫はまだ生きているのですか」と聞くと、「ええ、生きています。これは私の専門分野です。この虫は悪い菌を媒介することがあるので予防注射をしておきましょう」と言って注射をしてくれた。「何日か経って変化がなければ大丈夫です」と言う。

  直ぐ取ってくれるのかと思ったら、「この虫は引っ張っても取れないのです」「切開して取るしかないのです」と言う。「明日昼間皮膚科へ行って下さい」と言われて帰ってきた。

  その先生の話によると、マダニは山の笹藪や野原によく居る虫で、獣の体にとりついて潜り込み、そこで卵を生んで幼虫が孵ると体の中の養分で育ち、適当な大きさになると玉状の固まりになって自然に外に転がり出るのだそうである。どうやらマダニは私の腹を卵の産み場所にしたらしい。

  池の平で雨宿りのために木の下に何回も入ったので、上から落ちてきて襟から入ったらしい。それにしても通常はもっと痛いそうであるが、たまたま神経の鈍い脂肪の多い部分に食い込んだのかも知れない。

  翌日再び杏林病院を訪れ、万が一、上手く行かなくても文句を言わないと言う同意書にサインをさせられて、長さ2センチ、深さ1.5センチの船底型の肉を切り取られた。見ていたら3針縫った。60年以上生きてきたが、初めての手術の経験となった。

  後に別件で関東逓信病院の皮膚科に行った折り、壁を見ると、人に悪さをする虫が数種類一覧表になって貼られていた。その最後にマダニの写真が載っていた。どうもよく有ることらしい。

  しかし私は山好きの友人が沢山居るが、マダニのことは一度も聞いたことがなかった。ある日山屋の友人に詳しく聞いてみると、山岳部の山行では、「時々やられるんだよ」とのことであった。特に笹藪でやられるそうである。しかし、私のようにちゃんと食い込むまで気が付かないことは希で、大抵は入り込む前に気が付いて、取ってしまうので、医者に掛かる者が出たことはなかったそうである。だから我々に取り立てて話してくれなかったのであった。 マダニが多く居る山は、決まっていて、そこへ行くと必ず誰かがやられたそうである。

  ある日再び池の平らへ出かけた折、知り合った高山植物の監視員をやっているボランティアに聞いたら、「よく有るんですよ。特に笹藪に多くいるのです。だから我々は笹藪や草むらを歩いた直後には必ず見るか払うかするのです」と言っていた。

  それ以後藪漕ぎの後には必ず見たり払ったりするようにしている。山小屋生活を初めて、またもや新しい体験をしてしまった。

  しかし、その後、我が山小屋の周りにもマダニが沢山居ることが分かった。 我が家の庭にはそれほど無いが、隣の馬場さんの山小屋には沢山笹が生えている。馬場さん夫婦がよく犬をつれてくるが、ある日東京に帰ってから、犬の身体にマダニが何匹も着いているのに気が付いたそうである。更に、猫の瞼の上にも着いていたと言う。犬の方は時々放し飼いにしているが、猫は放したことはない

  未だ医者につれていっていないと言うので、私の経験を伝えて、早くつれて行くように薦めた。

  それにしても、こんなに身近にマダニが沢山居るとは十年近く住んでいたのについぞ知らなかった。当に知らぬが仏である。 

★19章 ゲジゲジの大発生(1999.9、2000.10.22)


山には色々な虫が居る。いつの間にか足先が膨れて痛かったり痒かったりする事がある。でも、一番嫌な虫はカメムシとゲジゲジである。標高が高いので蚊は殆ど居ない。これらの中で定期的に大発生し、家の中にも無差別に大量に現れるカメムシとゲジゲジは都会の人にとって大きな脅威である。更に最近はスズメバチが増えているようで、新しい脅威になりつつある。

ゲジゲジゲジゲジは5~7センチのムカデのような甲冑類で、通常7年ごとに大発生すると言われ、一度発生すると翌年も少し現れ、次の年には一匹も居なくなると言う徹底した発生の仕方である。季節で言うと、10月前後のある短い期間に大発生して一、二ヶ月もしない中に、全くいなくなってしまう。
 八千穂には6年前に大発生した。その時は、八千穂だけでなく長野県、山梨県全域に大発生した。その量は一平方メートル当たり10匹から100匹のオーダーで家の中にも大量に入り込んでくる。何処から発生するのか分からないが、ものすごい量である。普通の家の造りは隙間だらけであることがよく分かる。

  六年前の1993年には、家の前を縦横無尽に這い回り、車で潰すと中から出る油で車がスリップするほどであった。小淵沢と小諸を結ぶ小海線は線路を渡る大量のゲジゲジを踏みつぶし、列車がスリップしで動けなくなったと言われている。
 もし七年周期なら来年2000年がその年に当たる。我々としては二度目の経験になる筈である。効くかどうか分からないが、今年は蟻、蜂、ゲジゲジ用の薬剤を今から大量に撒いて予防する予定である。実際には広い地域で発生するため、自分の小屋の周りだけの対策ではどれほどの効き目があるか分からないが、できる限りの対策をするつもりである。
 多分土の中に有る卵が孵化するのであろう。どのくらいの深さなのかも分からない。今から嫌な予感がする。

  夏に、ホームセンターに行ってみると、ゲジゲジに効くと言う粉末の薬があった。どの程度効くか分からないが、とりあえず買ってきて、半信半疑ながら家中のコンクリートの土台の周りに散布した。

  1999年の9月頃になって、ある日、土台の周りの土の出ている所を、何気なく見ると、干からびて丸まったゲジゲジの死骸がかなりあった。六年目であるが、既に一部発生したのである。薬の効き目か、生きて這い回る姿はなかった。薬のお陰で嫌な思いはせずに済んだが、甲冑に包まれた、あの丈夫そうな虫に効く薬とは、一体なんだろうと、逆に薄気味悪さを覚えた。

  六年目に当たる昨年は少し発生したが、その前に撒いた薬で効いたことから、大発生は済んだと思っていたら、2000年10月20日(金曜日)の夜のことである。小屋に入って何気なく座敷を見ると、干からびたゲジゲジが一匹転がっていたので小型掃除機で吸い取った。
 翌日、茸を見てこようと小屋の廻りを歩いてみて驚いた。小屋のコンクリートの土台とその周辺の地面に、大量のゲジゲジが発生していた。去年の夏に撒いた薬が効いていたのか、半分以上死んで干からびてはいたが、まだまだあちこちに這い回っている。
 どうやら、昨年はほんの少し発生して、今年が本番であるらしい。濃い茶色や薄い肌色のゲジゲジが蠢くのは何とも気持ちが悪い。一平方メートル当たり何十匹もいる。建物から数メートル離れると、急に少なくなるが、それでも林の中の落ち葉の中にもいる。やはり七年周期で大発生する事が判明した。

  昨年コーキングを詰めて、かめ虫とゲジゲジが家の中に入ってこないように対策をした。床下と家への隙間を徹底的に埋めたため、今回は家の中には殆ど入ってこなかったので助かった。

  早速里へ下りて粉と液体の薬を二本買い求めて再び家の周囲に撒いた。時間が経つに従って、どんどん増えていく。翌朝には、二倍になっていた。家の廻りには丸くなって死んだゲジゲジが掃いて捨てるほどいた。まだ生きているゲジゲジも、うようよと這い回っている。薬は数時間後に効くという。すっかりいなくなるのは東京に帰った後だろう。

かめ虫
 もう一つの嫌な虫はカメムシである。昨年隣の山荘に久しぶりでやってきた篠崎さんの奥さんが、家に入るなり大声を上げて飛び出してきた。大量のカメムシにびっくりして我が家に駆け込んできたのである。こればかりは山に慣れた我々でも何ともしてあげられなかった。
 我が家の外壁にも大量のカメムシがへばりついている。何年か前、それらに一匹づつ殺虫剤を撒いたらアルミのサイディングが薬で赤い斑模様になってしまった。いくら拭いても取れなかった。せっかくの白いアルミのサイディングが台無しになった。殺虫剤のメーカーに問い合わせても埒があかなかった。自分で色々試したらシンナーで綺麗になることが分かった。外壁全てをふき取るのに何日も掛かった。

  カメムシは触ったり脅かしたりすると例の強烈な匂いを発する。動く物には何にでも飛びつく猫も近寄らない。この虫もゲジゲジと同じくぺったんこな虫で、家の隙間から大量に入り込んでくる。こちらは飛ぶので更に始末が悪い。動きはそれほど俊敏ではないので数が少なければ捕まえて潰すことができるが、大発生の時は家の中に1000匹は出てくる。採っても採っても減らない。夜寝ていると飛んできて顔にも止まる。ゲジゲジと違って大発生の後、急には減らず毎年発生する。
 瞬間に潰せば、臭いを出す暇がないので何とかなるが、数が多いので採りきれない。

  昨年はあらゆる隙間をコーキング剤で埋めた。例えば、天井に着いている照明の電源引き出し線は、天井に大きな穴が空いており、グローブが被せて有るので一見分からない。そこから入ってきた虫は、グローブにある隙間から部屋に侵入する。従って天井の電源引き出し部の穴をコーキング剤で埋めた。
 しかし天井板にもデザインや化粧のために両端部に沢山の隙間がある。それらは殆ど手に負えない。
 風呂場などのように水漏れ対策を施した場所でも、大量に入ってくる。隙間と分かる部分をコーキングで埋めても、余り効き目がない。サッシの敷居が僅かに空いているため、ここから忍び込むらしいが、その内側の木製の引き戸には、殆ど隙間がないように見えるが、何分かすると必ず数匹は出てくる。じっと見続けるわけには行かないので侵入口はなかなか分からない。
  最近、地下の南側の階段に使っているブロックを剥がしてみたら、裏にべったりカメムシが着いていた。どうやら地下の土や砂利の中で繁殖するらしい。スミチオン殺虫剤を十分撒いたが、それほど効果がなかった。今年はそれらしいところを狙い打ちするつもりで居る。
 何でもそうであるが、嫌なものは元から断たねば駄目である。来年は出始めたら、出入りする瞬間の場所を見付けて対策をするつもりである。

★20章 流星群(1999.7)

 子供の頃、私の生まれた武蔵野には、抜けるような空があった。夏には何回も激しい雷雨があった。その後には東の空に大きな虹の橋が架かった。夜は庭木の間から天の川が白く流れていた。七夕の頃、父親に教えて貰って織り姫を捜したりした。畑の里芋の葉に溜まった朝露で墨をすり、筆で短冊に思い思いの文字や詩を書いた。庭の竹を一本切って貰って短冊を枝葉にぶる下げた。当時はそんな心の余裕があった。

  八千穂の山小屋から一キロメートルほど離れた所に、高原野菜を作っている広々とした畑がある。北に浅間山、東に長野と群馬を分ける荒船山とその山脈、南西に八ヶ岳、そして西にはこんもりとした森がある。そこは星を見るには絶好の場所で、遠く浅間の手前に佐久平の明かりが見える。畑の中の緩やかな道を少し下ると、土手の陰になり、里の明かりは見えなくなる。その場所は殆ど全天が見える絶好の天体観測場である。

  夏も冬も見に行く。全天に鏤められた星、星、星。素人にも分かる有名な星座の背景には、これほどまでに有るのかと思われるほど無数の名も無い星が煌めいている。一段と濃い塵の帯は天の川である。一つ一つの星と言うより白い雲のような、まさにミルキーウェイが南の地平線から天頂を通って北の地平線まで続いている。
 冬の星座はとりわけ美しい。着られるだけ衣服を着、更に防寒具に身を包み、暖房を点けたままの車を側に置き、マイナス10度の畑で空を仰ぐ。赤いレンズを被せた懐中電灯で星座表を見ては、空の星と見比べる。明るい光で星座表を見ると、瞳孔が閉じて空を見たとき一瞬何も見えなくなるので、懐中電灯には赤いレンズやセロファンを被せる。

  時々都会から来た若者が、天体望遠鏡とカメラを据え付け、畦道にシートを敷いて仰向けに寝そべり、狙いの星が現れるのを待っている。

  1996年3月25日からの百武彗星や、1997年3月下旬から4月中頃まで見えたヘールホップ彗星の時は、私たちを含めて別荘の住人も随分現れて俄か天体観測者になった。特にヘールホップ彗星の時は、村々の電灯が消され、素人の私も、家内と二人で、8倍の双眼鏡と60倍の望遠鏡と三脚を抱えて何週間にも渡り、件の畑に見に行った。北西の地平線の少し上にボーと尾を引いた大きな彗星が右上から地面に向かう形で見えた。絵本では見たことがあるが、尾を引く彗星をこの目で見たのは始めてであった。日頃話をすることもない離れた別荘の住人とも、この時ばかりは親しくなり、望遠鏡を代わる代わる覗いては一緒に歓声をあげた。

  このように突然の大きな天体ショーもあるが、年に数回、決まった時期に特定の星座の方向に流星群が見られる。1月3、4日、星座の名は忘れたが、最初の流星群が現れる。続いて、5月5日の水瓶座流星群、8月1~20日頃のペルセウス流星群、10月20、21日のオリオン座流星群、11月17、18日の獅子座流星群、12月13、14日の双子座流星群等が有名で、年によって数が異なり、今年は多い年だと言われると、我々だけでなく、別荘の観察者も数人に増える。五分間に一個程度の流れ星であるが、時に天空の四分の一を走り抜けるほど長い流れ星を見ることがある。私の年間メモにはそれ等の時期が記して有り、偶々天気がよい週末に来て流星が見られる時にぶつかると必ず畑に出てみる。方向がほぼ決まっているので二人で見ていると見逃すことはない。こんな歳になっても、家内は願い事を用意して待っているが、一瞬であるので、つい見るのに夢中になって言い終えたことがない。

  ここから南へ二十数キロの所にある野辺山には、有名な東大の天体観測所がある。また北へ数キロ行った北八ヶ岳の中腹に、最近直径60mもあるパラボラアンテナを備えた電波望遠鏡が設置された。また、それと比較するようなものではないが、八ヶ岳の尾根筋にある高見石小屋の主は通称天文博士と呼ばれ、登山者仲間に天体の織りなす競演を説明して喜ばれている。
我々の別荘地の中にも、高台にコンクリートでしっかり土台を固め、天井がスライドして開く本格的な望遠鏡を備えた観測塔を持つ小屋がある。天文好きの同好の士が何人か集まって建てたのだそうである。

  神秘の宇宙には、昔からロマンに満ちた物語があり、我々素人から見れば同じ星座が廻っているだけに見えるが、常に無限の変化をしている。今でも多くの愛好家が寝食を忘れて新星の発見に情熱を燃やしている。最近の科学の発達で、天体観測も殆どコンピュータ制御による自動観測になってきたようである。それでも新星の発見にタッチの差が出るのは、我々素人には計り知れないことであるが、使っているソフトの性能に若干差があるのかも知れない。いや正式に申し出るタイミングで差が出るのか、よく分からない。

  バブル華やかなりし頃、ゴルフ場の電話予約をするとき、毎分何回電話を掛けられるかで、予約が出来るかどうかが決まったことを思い出す。回転式ダイヤルでは勝負にならず、まだ出たばかりの押しボタンダイヤルの電話機を使い、短縮ダイヤルに予約番号を登録し、ワンタッチのボタンを毎分何回押すかで予約の勝負を決めたことが思い出される。

  天体の饗宴の話が、彗星の発見時刻のタッチの差、ゴルフ場の予約競争などと、次元の低い電話予約の話で終わるのは何とも世知辛い話であるが、娑婆が有っての天体の饗宴の有り難みである。

★21章 天狗岳(1999.3)

 天狗岳は名前に負けない立派な山である。標高も比較的高く、互いに500メートルほど離れた東西の二つのピークを持っている。西天狗岳が少し高く、2646メートルである。展望は、八ヶ岳の最高峰、赤岳の影になる山が見えないだけで、南、中央、北アルプスが一望できる。ここへのアプローチルートは沢山あるが、渋温泉からのルートが一般的である。頂上まで片道約4時間掛かるので、八千穂に住んでいる我々にも日帰りするには一寸大変な距離である。

  1996年7月20日、朝六時半に車で小屋を出発し、7時半に渋ノ湯に着いた。渋ノ湯から中山峠までの道は、大きな岩がゴロゴロしていて慣れないと歩き難く、思わぬ時間を食う。バランスよく岩の上を渡り歩けば、別にどうという事はないが、慣れない家内は岩を上下に辿るので、時間が掛かるし疲れる。そのため予定より大幅に遅れた。それでも頂上は天気がよいこともあって、眺望は素晴らしく、ゆっくりと一大パノラマを満喫した。東天狗から西天狗へは1時間で往復が出来る。西天狗には、余り広くはないが、駒草の群落があり、疲れをいやしてくれる。

  東天狗からの帰路は、同じ道を辿るのもつまらないので、黒百合平まで別な路を降りることにした。しかし、行ってみると、大きな溶岩の固まりが敷き詰められた道で、家内の最も苦手な路であった。岩から岩へ飛び移るのが怖い家内は、相変わらず岩を一つ一つ辿るので、路程表の二倍の時間が掛かってしまった。本来ここで一泊する方が良かったが、山小屋が余り好きでない家内は、そのまま降りるという。天気も良いし時間的にも体力的にも不可能ではないので、元来た渋ノ湯への溶岩道路を下り始めた。

  途中、消耗してくたくたになった七十歳近い老人とその息子に出会った。「唐沢鉱泉までは後どの位ですか」と聞かれた。彼等は渋ノ湯よりやや遠い唐沢鉱泉に行くという。何処から来たと言ったか覚えていないが、老人の一日の行程としてはかなり無理な距離であった。山の経験が少なく、息子の計画が甘かったのだ。「後一時間以上はあります」と答えると、息子は、父親がそんなに草臥れ果てているのに、ほっとした顔をしていた。今日の行程がよほど長かったのだろう。父親は岩に座って無表情であった。でも顔色はそれほど悪くなかったので、何とか着けるだろうと判断した。もう日没が近かった。

  家内は、自分はあれほどまで疲れてはいないと自覚したのか、それから少し元気になった。薄暗くなって車を置いた渋ノ湯に着いた。かれこれ正味8時間半歩いたことになる。因みに地図上の行程は6時間10分である。私もかなり疲れたが、別に車の運転に支障があるほどではなかった。

  その後家内は、足が痛くて一週間ぐらい家の階段を這って上がるほどだと言っていたが、いつの間にか普通に戻っていた。私も二三日は疲れが残っているような気がした。

  それから一年後の1997年10月4日、再び天狗に行こうと言うことになった。これまでに天狗と硫黄岳に登ったが、両者を結ぶ稜線と根石岳が残っていた。だから両者を結ぶルートを埋めることが目的であった。八ヶ岳の東側のイナゴ湯を通り、本沢から入って天狗を目指した。生憎本沢を出発する頃から雨が降り出し、傘をさしての登山になった。天狗と根石岳を結ぶ稜線に出る頃には弱いながら本降りになっていた。雨合羽を取り出し稜線直下の木陰で一休みし、昼飯を食べながら様子を見ようと言うことになった。
 いつものように湯を沸かし、蕎麦を造り、腹を満たした。ゆっくりとお茶を飲み、次の行動を考えた。

  雨は強くはないが、稜線は風が強い。しかし歩けないほどではないので、出発することにした。東天狗岳までの距離はそれほど無い筈であるが、地図を見ると、この部分の旅程の表示が曖昧で、ハッキリ分からなかった。30分以内ほどと推定し、歩き始めたが、実際には雨と風のため、一時間近く掛かった。頂上は岩の堆積であるが、前回と反対方向からの登頂となるため、全く違った山に来たような感じであった。

  頂上では、犬を連れた登山者を含めて、二三のパーティーが雨の中で食事をしていた。我々は西天狗を諦め、早々に元来た道を下山した。本当は帰りに根石岳を廻って夏沢峠から降りるつもりでいたが、雨のためもと来た道をそのまま引っ返した。

  今回も日帰りであったが、前回の天狗岳の時に比べると、ほぼ同じ行程であるのに疲れはずっと少なかった。一つはゴロゴロの溶岩道でなかったこと、西天狗を省いたこと、既に行ったことのある山に登ると言うことで精神的なストレスが少なかったためではないかと思っている。

  よく言われるように、一日六、七時間歩ければ何処にでも行けるが、我々は四、五時間を目安にしているため、かなり行ける範囲が狭まい。また山小屋泊まりが苦手な家内に歩調を合わせると更に狭まる。しかし趣味であるから余り無理はしないで楽しむことにしている。

★22章 木イチゴ (1999.3)

 毎年8月頃になると、別荘地の南側の土手の草むらに真っ赤な木苺が点々と覗く。木とも草とも言えぬほど小振りで、茎も棘も柔らかく、他の草の下に埋もれている事が多い。明るい緑色の、やや縮れた葉に、赤い実がよく似合う。
 いつもは何となく見過ごしていたが、八月になると、山野草の花も終わり、草むらが寂しくなっているので、赤い実が目立つ。見回すと隣家の土手の草むらに所々、透明な粒粒を一重に丸く並べた小さな実が見える。普通の苺を小さくしたような木苺も偶にある。一粒取って口に入れると、かなり酸っぱい。でも、微かに甘みを持っている。
 そう言えば、春先に梅の花に似た白い花があちこちに咲いていたのを思い出す。

  小屋に戻って図鑑を開いてみると、木苺には毒性のある物は無いとの記事があった。一番美味しいのは黄色い木苺であることも分かった。黄色い木苺は子供の頃さんざん食べて美味しかった記憶があるので納得する。

  手籠を下げて、家内と別荘地を中心に木苺取りに出かけた。大きい物でも径が1.5センチほどの実で、既に時期が過ぎているのか、触ると粒がぽろぽろ落ちて後には茶色い凸形の萼が残る。乾いて黒ずんだ物も多い。
 目立つ割にはそれほど無く、二時間も歩いたが、両手一杯程度しか取れなかった。黄色い木苺は一つもなかった。

  それでも家内は小屋に帰ると、早速煮てジャムを作った。酸っぱいので相当砂糖を入れた。鍋の底に薄くジャムが出来た。
 食べてみると色も綺麗だし味も良いが、大きな種が歯に触り、このままではとても食べられないので、網で裏ごしを掛けた。鮮やかな真紅色のとろりとしたジャムが白い器に溜まった。でも大匙二杯程度の量になってしまった。 
 翌朝、パンに付けて二人で味わった。夏の山の収穫をほんのちょっぴり味わっただけであったが、何かとても新鮮な気分であった。

  早速季節の行事の手帳に、通年は八月初め頃に採取すべきことを記したが、種の大きさから、本当は食用には向かない木苺のようである。

  以前この土地で沢山栽培されているプルーンでジャムを作った事があったが、買ってきた材料であったので木苺ほどの感慨はなかった。
 来年辺りには昨年植えた「すぐり」が沢山実を付けるはずである。今年の初夏に透き通った真っ赤な実を少しばかり着けたので食べてみたら、甘酸っぱくて良いジャムになりそうである。今年の中に、もう二三本植えておこうと思っている。

★23章 動物の水先案内 (1999.3) 

 県道を歩いていると、野鳥が降りて遊んでいる風景をよく見る。地面に居る虫や、風で落ちた木の実などを拾っているのだろうか。別に驚く風もなく、二三メートルに近づくと、尻尾を上下にせわしなく振りながら、向こうを向いて、とことこと離れていき、しばらくすると、立ち止まってこちらを振り返る。そして、「もっと近づいてくるのかな」と言う顔をする。更に近づいて行くと、再び、とことこと走っていき、また立ち止まる。今度は、少し間をおいてじっと見ていると、「何だ付いて来ないのか」という顔をして、餌を拾い始める。数十メートルに亘って、こんな事を繰り返す。まるで水先案内をやっているようである。それでも最後には藪の中に飛び込んで、近くの木の枝に止まり、知らん顔して彼方を見ている。
 こんな行動をするのは、セキレイに多い。ヒガラやアカハラも同じような行動をする。

 また、登山の途中で、周りが木で覆われた山道の真ん中に小さな水たまりがあって、シジュウカラが水浴びをしていた。二、三メートルほど先である。家内を後手に制し、そっと歩みを止めて眺めていると、しばらく水浴びをした後、ひょいと水を跳ね飛ばし、道に沿って”ちょん、ちょん”と跳ね歩いていく。見失わないように付いていくと、やはり時々後ろを振り返っては先に進む。家内と顔を見合わせ、目で笑う。
三十メートルも行くと、右の藪に入って見えなくなった。

 鳥は非常に目が良く、我々が鳥を見つけるより早く、我々を知っているはずである。意図的に脅かさない限り、山の鳥は人を怖がらない。彼らから見れば人の動きなどは、鈍重なもので、むしろ、猛禽類などの方が怖いのかも知れない。

 ある日、まだ入ったことがない街道の脇道に車を乗り入れてみた。そこは舗装もなく、昔入れた砂利が殆ど土に隠れた田舎道である。林を通して射し込む木漏れ日が、砂利や落ち葉に当たり、斑模様を作っている。ふと、前方に小鳥が遊んでいるのを発見し、慌てて車を止めた。でも、小鳥の方は別に驚くでもなく、今まで通り餌をついばんでいる。じっと見ていると、何時までもそこいらを歩き回って何かを拾って食べている。しびれを切らして、少し車を進めると、向こうを向いて、”とことこ”と走り出す。あまり近づきすぎてもいけないと車を止めると、その先で再び餌を探し始める。また車を少し進める。鳥は走って先へ行く。まるで、「平気だよ。一緒に遊ぼうよ」と、言っているみたいに、落ち着いて餌を拾っている。こんな事を繰り返す中に、曲がりくねった道を50メートルも来てしまった。
 鳥は案外好奇心が強く、遊び心があるのかも知れない。

 先日、夜遅く山小屋に向った。小屋の近くに差し掛かった時のことである。国道から分かれて小屋に通ずる曲がりくねった道は、森に囲まれ、両脇が草で覆われている。ヘッドライトで照らされる部分だけがはっきりと映し出されていて、周りは漆黒の闇である。
 ふと、前方に、ライトに照らし出されて、なにやら見たことのない小動物が居る。慌ててブレーキを掛けて止まると、その動物は、可愛らしい仕草でこちらを振り向く。
 子猫ぐらいで、胴が長く、足が短く、細長い尻尾が真っ直ぐに後に伸びている。色はよく分からないが、ライトの中で焦げ茶色に見える。テンやイタチの類らしい。
 じっと見ていると、やおら向こうを向いて、すたすたと歩き出した。ゆっくり車を動かして付いて行くと、くねった曲がり道毎に立ち止まり、振り向く。こちらが近づくと、再び、ちょろちょろと先に立って歩いていく。ほんの三、四メートル先である。こんな事を繰り返している中に右の土手の陰にこそこそと入り込んで見えなくなった。
かれこれ40メートルも、水先案内をしてくれた。何とも可愛らしく不思議な行動である。

 

★24章 山小屋日記 (2000.7.16)

 このところ、百歳近い叔母の面倒を見たり、90歳を過ぎた母親の面倒を見たり、息子の結婚式などで、山小屋とご無沙汰していたが、三週間ぶりに、家内とやってきた。

火熾し
 朝から床下の囲炉裏で湯を沸かしたり、ガーリックトーストを焼いたり、焼きそばを作ったりして、二日間ともアウトドアクッキングとなった。
 良く本に出てくるワイルドな料理は出来ないが、素人なりに、あり合わせの食材で手料理を作って食べる。こんもり茂った林に囲まれて、一日が、何となく過ぎて行く。合間に、本を読んだり、やりかけの土木工事を続けたりする。
 人が見ると、「なーんだ」と言うような過ごし方をしている。 雹(ひょう) 久しぶりに来たら、ウドの葉が全面虫が食ったように筋と茎だけになっていた。
緑の葉は跡形もない。よく見ると、ウドの茎の表面に約一センチ間隔で白い斑点模様が出来ている。玄関前の駐車場と林の小道が一面、生の落葉松の葉で薄緑色に覆われている。桜、水楢、白樺、紅葉などの葉もかなり破れて落ちていた。まだ沢山萎れて枝先にぶら下がっている。ベランダの手摺りにも点々と塗料がはげた所があり、引っ掻き傷もついている。

坂井さんらの企画
 昨日は、焚き火の炉を一部作り替えたり、東側の庭に降りる腐った階段を作り替えたりした。今朝は、疲れたので作業を休み、10時頃池田さんの山荘に遊びに出掛けた。丁度そこに、堀越さんと坂井さんが来ていた。坂井さんは、「八千穂村の塵処理場の計画を村役場に説明して貰いましょう」と言う件で、以前一度ご夫婦で我が家に見えたことがある人である。30年も前から別荘に来ている人で、別荘地と八千穂のことについては何でも知っている。

池田さんの怪我
 
皆が熱心に話していたので、しばらく気が付かなかったが、びっくりしたことに、池田さんは、先週、余所で工事の手伝いをしていたとき、丸鋸で左膝に大怪我をし、救急車で佐久病院に運ばれ、16針も縫ったとのこと。幸い骨には異常がなかったが、彼は足を曲げられないので囲炉裏小屋の階段に座って雑談していた。見ると左膝に大きな包帯を巻いて固めていた。彼は山男で、気丈なため、入院は嫌だと帰ってきていた。今でもずきずき痛むという。山や田舎では、チェーンソウや丸鋸で怪我をする人が後を絶たない。山小屋生活をしている人の書き物には、よくチェーンソウによる怪我の話がでてくる。身近な人の怪我で、「これは人ごとでない」と、気が引き締まった。

ニュウが見えるか
 話は変わるが、池田さんの囲炉裏小屋から見える山の話になり、正面に見える二瘤の山が東天狗の岩峰か、ニュウの岩峰かで意見が分かれた。坂井さんと堀越さんは東天狗の右肩の岩峰だと言うが、池田さんと私はニュウだと主張してどちらも譲らない。
 池田さんは土地の人に聞いたから確かだという。坂井さんは山脈の連なりから東天狗であり、ニュウはもっと右で、ここからは見えないと言う。

 私は、山のプロではないが、自分の小屋から見える山については、以前に相当詳しく調べていた。小屋を起点として地図上に、有名な山に向かって線を引き、その線上の仰角から最初に見える尾根の位置を調べてあった。この地図を厚紙に貼って、60倍の望遠鏡の下に敷き、我が家の位置を中心にして、望遠鏡を回転させながら、各山を確認してあった。
 特にニュウの岩峰は、実際に見てきた岩峰と同じで、休日には蟻のような人影がよく現れる。もし東天狗の岩峰なら、登山ルートから外れているので、人影は無いはずである。また、先ほどの仰角の数値から、ニュウの頂上は見えるが、東天狗の岩峰は稲子岳の陰に隠れて見えないはずである。

 皆さんの主張があまりにも確信に満ちていたので、その積もりでもう一度確認してみようと思い、池田さんの小屋からの帰りに、一人で、天狗とニュウの両方がよく見える畑に出て確認してみたが、私の考えに間違いはなかった。更に、しつこく、天狗の岩峰とニュウの岩峰が同時に見え、その連なりまで分かる里の道まで足を伸ばして、再度確認した。
 その結果、ニュウは天狗の尾根より一つ手前に見える尾根(実際には尾根続きだが、回り込んでいるため、別の尾根に見える)であり、天狗の尾根の岩峰より少し手前に存在することを確かめた。また、別荘地まで登ってくると、天狗の岩峰は、尾根の後側に入り込み見えなくなることを確認した。

  納得しながら小屋に戻ろうとすると、偶然、国道を件の坂井さんがポスターを貼りに行くために歩いていた。側に寄って、その話をすると、彼は自分の小屋に寄り、二万五千分の一の地図と二つの双眼鏡を持って私の車に乗った。天狗とニュウの両方がよく見える所まで再び下って確認した。彼は改めて納得したようであった。
 彼は、もうこの別荘地に30年も来ていて、山の景色は知悉している人だが、「先入観で、ずっとそう思い込んでいました」と、話していた。

 彼は、帰りがけに、例の畑の所から谷川岳が見えることを教えてくれた。冬の天気の良い日に是非見てみたいものである。

雉の親子
 
坂井さんが、自分の小屋に地図と双眼鏡を取りに行く間、国道299号の横に車を止めて何気なく前方を見ていると、右の森から雉の雌が数羽の子供を連れてゆっくり国道を渡っているのが見えた。反対側は畑である。後から更に子供が一羽、遅れて足早に渡って行った。親鳥をそのまま小さくしたような子供は、親の前後を小さな歩幅でちょろちょろと歩いて渡って行った。森や草をバックに田舎の舗装道路を渡る雉の親子は微笑ましく、一幅の絵になる。  

皆既月食
 
その日の夕刻、私は庭の散歩道の補修が長引き、家内はパソコンに夢中になって、帰りが少し遅くなった。今日は皆既月食が見られる日である。何時に欠け始めるのか聞き忘れたが、天気が良ければ、途中で見られるかも知れないと半分期待して帰途についた。
 いつものように清里のビアレストラン、ロックに寄り夕食を取った。そろそろ避暑の季節であるため、ロックはかなり混んでいた。八月の始めには、八時頃から庭園で野外バレーがあるそうである。その前に夕食を取る人が多いため、相当の混雑が予想されるとのことであった。どうやら、これからしばらくは、ロックに近づけないかも知れない。旨い地ビールはしばらくお預けである。

 八時頃家内の運転で、ロックを出て帰途についた。中央高速は久しぶりに混んでいた。所々で渋滞に遭い、のろのろ運転になった。そのお陰で、大月を過ぎる頃、月の左下が少し欠けるのに気が付いた。「や、始まった!」と、久しぶりに見る月食に、家内と興奮しながら車の中から観察を始めた。我々が経験してきた、これまでの天体ショウに比べると、かなりゆっくりとした変化である。半分になるのに一時間近く掛かった。欠け方は何となくぼんやりしていて、くっきりした三日月にはなっていない。欠けて見えない筈の部分も、うっすらと透けたように見える。全部隠れたときも、薄い丸い月がぼんやりと見えていた。

 何年か後、NHKの子供電話相談室の放送を聞いていたら、皆既月食でもぼんやりと月の輪郭が見えるのは、地球の縁で回折散乱した僅かな太陽光が月に当たり反射するからだそうである。

 その直後、右からカーブを曲がって上がってきた車が、勢い良く通り過ぎていった。一番後から渡って行った雉の子が、驚いて畑の中で飛び上がった。
 この辺りでは、よく雉を見掛ける。つい一ヶ月ほど前にも、つがいで畑を歩いているのを見たばかりであった。

 彼は、堀越さんと池田さんとで、ハイキングの会やアウトドアクッキングの会をやっている。八月五日に白駒池から高見石にハイキングに行き、その夜、堀越さんの山荘でバーベキュウをやるそうである。次回は池田山荘と言う案も出ている。ポスターを作り、何処に貼ろうかと相談していた。
 この会は三年目を迎えて、少しずつ趣向を変えてやっていくのだと、張り切っていた。別荘の人の横の繋がりを増したり、八千穂、松原湖などで行われる行事を伝え、みんなで楽しく遊ぼうというのである。
 八月五日に山小屋に行ったら、是非参加したいと思っている。

 最近では、火熾しに割り箸大の焚き付けを沢山作っておいて、炭火を熾すので、大分手際がよくなった。新聞紙の一頁分を軽く丸めて火を付け、1/3ぐらい燃えたところで、一握りの焚き付けを束のまま乗せる。それに火が移ったところを見計らって、マングローブの炭の屑を一握り乗せる。火吹き竹で数個の炭の小片に火が移るまで吹く。後は、大きな炭を傍に立てかけて、吹く。十分熾きたところで、備長炭を添えれば、長持ちする火が得られる。
 備長炭は、十分熾した後、灰をかぶせておくと、半日以上持つので、三度三度熾す必要がない。

 「こりゃ何だ」と不思議に思っていたら、下の佐藤さんから「二週間ほど前の7月4日に、大量の雹が降ったのよ」と知らされた。台風3号の少し前のことである。後で土地の中年の人に聞いたら、この地方では初めて経験する猛烈な雹だったそうである。近所の農作物は全滅だったに違いない。
 特にウドの茎の斑点は、その強烈さを物語っていた。当日山に居た別荘地の池田さんは、「ヘルメットを被らなければ外に出られなかったんですよ」と言っていた。また、地面に何センチもの白い氷が積もったそうである。
 昔、生家の武蔵野にも1センチ大の雹が降ったことがある。瓦屋根に「キン、コン」と音を出して跳ね返り、地面に氷のビー玉が散らかった事を思い出した。

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