★11章 新感覚の囲炉裏 (1999.5)  

 以前から囲炉裏が欲しいと思っていたので、バーベキューの炉を少し改造して、近代的な、ベンチのある囲炉裏に仕立て直してみることにした。
 改造と言っても、上から自在鍵を提げ、ブロックの炉の表面に囲炉裏を模した木のテーブルを被せ、炉全体を柔らかみのある材料で囲むだけである。

 家内が湯沢へ旅行したときに骨董屋で、使い古した裸の鉄棒で出来た自在鍵と内側が錆びた大きな鉄瓶を仕入れてきた。自在鍵は何の飾りもない最低限の機能があるだけであるが、村の鍛冶屋の手になるものであった。鉄瓶は表面に浅く絵が鋳造され、なかなかいい形であるがやや大きすぎる感じもする。

 その後、浅草の合羽橋の道具屋街に出かけて行き、数人分の調理ができる鉄鍋、昔懐かしい鋳物の火消し壺、五徳、鉄瓶から湯をくみ出す竹の柄杓等を買い求めて来た。
 合羽橋の一角に民芸骨董の店があり、棕櫚縄を巻き付けて飾った艶のある竹の筒と木彫りの鯉の滑り止めが付いた立派な自在鍵が売られていた。値段は数万円で、凝ったものは10数万円であった。

 山小屋で、二月の或る土曜日、スキーもそこそこにして、自在鍵を包む竹の飾り筒を作ることにした。
 直径7、8センチほどの古い”もうそう竹”と黒い棕櫚縄一束を八千穂村のホームセンターで買ってきた。竹は何用に売っているのか知らないが、肉厚で、節の外側が綺麗に処理されていた。
 この竹を二つに縦割りし、節の処理をして中に自在鍵の鉄棒を仕込み、再び合わせ、棕櫚縄で幅広く巻けばよい。

 先ず、もうそう竹の必要な長さを決め、それより一節長めに鋸で切る。鉈を入れた時に出来る傷跡を後から切り落とすためである。また竹を真半分に割るために、くねりが最も少ない方向に鉈を入れる。
 割れた半分同士をずれないように併せ、紐で堅く結ぶ。そして予定通り先端の一節を鋸で切り落とした。

 次に鉄の自在鍵を割れた竹の内側に載せ、動き側の鉄棒の輪がスムーズに動くように両端を残して節を綺麗に削り取った。動き側の鉄棒が必要以上に下がらないよう、また竹がずり下がらないよう、両端の節には、鉄棒が通るだけの穴を開けた。自在鍵を仕込んだ竹筒は、外から棕櫚縄で縛るが、飾りを兼ねて三ヶ所ほど幅広く巻いた。実際には竹を割らず節を抜き、後で上端に引っかかりを付ける方が割れ目が入らず綺麗に出来る。

 天井にはフックを取り付け、8番線を介して自在鍵を吊した。
 早速鉄瓶を掛けてみた。鉄瓶の持ち揚げ代、竹の筒と鉄瓶との距離のバランス、鉄瓶を上に揚げたとき、鉄板焼きで邪魔にならない高さになるよう8番線の長さを調節した。

 バーベキューをやるときの鉄板や網を置く台を囲炉裏の中に作った。直径1センチ、長さ180センチのステンレスパイプ二本をコの字形に曲げて、囲炉裏の内側の縁に沿って差し込んだ。囲炉裏の中は、表面が灰で、下の方は土になっている。だから、差し込む深さで、鉄板や網の止まる高さの調節が出来る。それぞれの足の途中に鉄のクリップを付けて、その出っ張りが、ブロックの角に引っかかるようにした。クリップの位置を変えれば、自由に高さが変えられる。

 更に火起こしのバイブル、新案火吹き竹を作った。長さ90センチ、直径1センチの細目のステンレスパイプの先を潰し(先に釘を一本入れて叩きつぶすと、綺麗な穴が出来る)、反対から吹くと火吹き竹になる。使ってみると火吹き竹は、もう少し太く直径1.5センチ径、もう少し短い7、80センチ位の方がよい。
 囲炉裏の横の見えないところに火吹き竹を置くフックを付けた。

 最後は、バーベキュー炉を柔らかい囲炉裏の雰囲気に変えるキーポイントであるテーブルの製作である。
 厚さ1.5センチ、幅24センチのラワン板を四隅で45度に接合し、周囲に同じくラワン材で3センチのスカートを付け、囲炉裏の上に載せた。
 45度の板の接合には、裏から1センチの深さに波釘を三個づつ打って止めた。これだけでは接合の強度は出ないが、炉の上が平なので大丈夫である。

 全体を艶消しの透明ニスで仕上げると、自在鍵と鉄瓶が一層栄えるようになった。またガラス器なども安心して置けるようになった。
 角が45度に合わさった天板は、思ったよりずっと美しく、趣がある。

 ブロックを寝かせて作ったこれまでのテーブルは19センチ幅であったので5センチ広がって、とても使い易くなった。
 山小屋の囲炉裏としては我ながらいい感じに出来た。これで何時、人が集まって来ても大丈夫である。

 その後何回か使ってみた。囲炉裏に座って眺める庭の景色は、高い位置に有る部屋から見降ろす景色とは異なり、地面から空まで景色が繋がって見えるため、非常に落ち着いた感じになる。

 私と家内は4月に入ってから暖かい日には、夜でもここで食事をする。囲炉裏の火を熾し、お茶を湧かしながら、林に囲まれて食事をすると、ベランダで食べるよりずっと山小屋の雰囲気が出て安堵感がある。夜は少し冷えるが、膝に毛布を掛ければしばらくは大丈夫である。
 南向きの傾斜地と言うのは天気さえ良ければ、想像以上に暖かいもので、三月に入れば、結構楽しめる日が多い。同様に11月でも使える日が多いものである。

 しかし、ここに一寸した問題が起こった。この炉を一年を通じて使うと、湿気による木の伸縮のため、特に6月では、テーブルの中心が3センチも持ち上がって傘型になってしまうのである。
 ラワン材の湿気による縦と横方向の伸び率が違うために起こる現象である。特に外気の中に置いてあるので、季節による湿度の差をまともに受けてしまう。

 そこで、45度の合わせ目の下側全面に四角い板を裏から当てて多数の木ねじで留め、強制的に伸びを抑える方法を取った。これにより、反りは全く無くなったが、合わせ目が1ミリ程空いてしまった。又、季節毎に合わせ目の隙間の間隔が僅かに変わる。
 ベニヤ板なら縦横の伸縮率が同じなので狂わないが、表面が余り綺麗でないので使いたくない。太くて厚い材料を囲炉裏に使うときは、伸縮による変形を避けるため、四枚の板を巴に組んで使うのが常識である。

 しかし四隅を45度に組む木の美しさは格別であるので、若干隙間は空くが裏板を当てて強制的に伸びを止めたテーブルを使い続けている。

★12章 5月連休日記  (1999.5)

 五月の連休は、別荘地が最も賑わうときである。一年ぶりで会う人も多い。今年は4月30日を休めば、7連休になるので、来る人も多いと思う。
  30日の夜、雄猫のロッキーを連れて家内と山小屋へ向かった。今年は二人だけで春山に行こうと思っている。

5月1日 (近隣とのバーベキュー)
 今日は快晴で、窓から見える八ヶ岳は雪を被って眩しいくらいにくっきり浮き出ている。我々は昨夜遅く到着したので寝不足気味で、山に出かける気になれなかった。私は仕掛かり中だった床下の戸棚の扉を製作し、家内はパソコンで、メールだ、インターネットだ、デジカメだと夢中になっていた。

  午後になって、二人共切りがついたので、買い物に出掛けた。今朝散歩の時、下のSさんに今年初めて会ったので、「今晩一緒に食事をしましょうよ」と誘っておいた。彼女は、「後から娘が来るけど一緒に行って良いかしら」と言うので、「勿論大歓迎ですよ」と答えた。家に戻ると、家内は「珍しく来ているお隣の篠崎さんの奥さんも呼んだら」と言う。「それはいいね」と声をかけることにした。床下に囲炉裏も出来たし、久しぶりに別荘の人達と囲炉裏でバーベキューをすることにした。肴はこの間、弟と食べて味をしめた岩魚と決めた。

  岩魚は、下の大石川の養魚場へ行って、生きた奴を15匹ほど仕入れた。その他、肉や野菜を仕入れて小屋に帰り、私は火を熾し、家内は下拵えを始めた。

  先ず、自在鍵にぶる下げた鉄瓶でお湯を沸かし、お茶を飲む。八千穂の水は本当に旨い。次いで、網を出して岩魚を焼き始めた。家内が佐藤さんを呼びに行った。隣の篠崎さんも呼んだ。佐藤さん母娘と篠崎さんの奥さんと我々5人でバーベキューが始まった。
  Sさん母娘が持ってきてくれたツクシの煮物、蕗の味噌和えが何とも乙な味で、バーベキューを引き立ててくれた。

  篠崎さんは、「岩魚が余り美味しいので、娘夫婦も呼んでいいかしら」と小声で囁いた。「いやいや、気が利かなくて申し訳有りませんでした。実は、我々は初めから呼びたかったのですが、これまでに一度も言葉を交わしたことがなかったので、つい言いそびれていたんですよ。どうぞどうぞ、是非呼んであげて下さい」と言うことで、Sさんの娘さんに、二人の若者が加わって、急に華やいだ雰囲気になった。彼はロッククライミングを趣味とする好青年で、私も飲み仲間ができて嬉しかった。明後日には川上村の有名なキャンプ場”廻り目平”にあるロッククライミングサイトに行くそうである。

  佐藤さんの娘さんは、慈恵医大の講師をしていて、つい最近結婚したばかりである。いつも母娘で来るさっぱりした仲の良い親子である。

  今晩は満月である。岩魚を焼き始めると、東の空から月が上がってきた。色々な話に花が咲き、網を鉄板に切り替えてバーベキューに移り、定番の焼きそばを作る頃には月が真上に来ていた。私も久しぶりに旨い酒を飲んだ。また是非やりましょうと言ってそれぞれの小屋に戻っていった。

5月2日 (馬場さんちのアメリカンショートヘア、春の野鳥)
  若干二日酔いで、山登りには行かなかった。家内は相変わらず、パソコンに夢中で、私は地下で戸棚の扉を仕上げていた。

  昼頃突然隣の馬場さん夫妻が娘さんを連れてやってきた。よく見るとアメリカンショートヘアを連れている。私のところに同じ猫が居て歩き回っているのを見て、顔合わせに来たのである。私のところの猫より全体にやや白味が強く、実に人懐こい可愛いらしい猫である。我が家のロッキーも人懐こいが、それにも増して人懐こく、猫に対しても”猫見知り”しない。ロッキーに近づいて行くが、ロッキーは気圧され気味でびびっていた。
  猫を挟んで小一時間会話が弾み、親交を暖めた。馬場さんの娘さんも高校三年で受験を控え、つかの間の休暇のようであった。

  その後、庭を一回りすると、沢山のスミレがあちこちで花を付けている。種類も数種類有る。

 後一週間もすると黄色いキジムシロと一緒に満開になるはずである。   いつもの栗の木の下やカラ松の下に一人静かが群生し、濃い緑の四枚葉と、やはり濃い紫がかった茎に真っ白な筆の先のような花を付けて満開である。下の道路に近い何時も一人静かの生える場所には、今年は一本も生えず、たった一つ筆リンドウが薄紫の花を付けていた。余り小さいので踏まないように棒を立てようと掘ってみると、一人静かは地中で下を向いて隠れていた。一番暖かい土手なのに一番後から出てくるのは一寸不思議な感じがする。日当たりは良いが、風の通り道で、実は寒いのかも知れない。

  落葉松の葉もすっかり青みを増し、葉はもう1センチ以上にもなっている。モミジや楓も少しづつ赤い新芽を広げ始めた。自然に生えた白樺もいつの間にか十数本に増え、2メートル近くになっている。先端から無数の若草色の葉を2センチ程出している。落葉松と並んで春を彩る初々しい葉っぱである。 

  今日は、頭のてっぺんと腹の部分が白く、その他の部分は真っ黒な珍しい野鳥を始めてみた。図鑑で確かめると”山椒食い”であった。家内と望遠鏡を奪い合って眺めた。また久しぶりに最も小さなキツツキの”小ゲラ”が来た。木の枝を端から順に餌を探しては、別の木に移って行く。また玄関先の落葉松の低い枝の周りに、滅多に来ない”黄セキレイ”が二羽、鮮やかな黄色を見せながら忙しく飛び交っていた。
  今晩も木に囲まれて食事をしようと火を熾し始めると、ロシアからの渡り鳥で、今年初めての”あかはら”が二羽「キョロン、キョロン」と鳴きながら林の小道を歩いて横切っていった。”あかはら”は夕方からよく鳴く鳥である。

  夜は曇って、冷えてきたが、毛布を膝に掛け、家内と二人で、あり合わせのおかずとおにぎりを焼きながら、遅くまで囲炉裏端で木々に囲まれて座っていた。 天井と北側以外、何の囲いもない地下の囲炉裏は周りの林と解け合って、自然の中にいるなあと実感出来る場所である。側で鉄瓶がしゅんしゅんと鳴っている。時々柄杓で湯を汲んでお茶を入れる。静かな至福の時である。

5月3日 (春の縞枯山)
 今日こそはと、春山に出かけた。八時頃車で小屋を出て、麦草峠に八時半過ぎに着く。今日は、茶臼山、縞枯山を経て雨池へ降り、そこからほぼ平らな道を麦草峠に戻る約五時間のコースを楽しむ予定である。

  茶臼山への途中、かなり手前から雪が残っている。数十センチ以上は有ろうか、春特有の腐った雪で、道の中心を外すと足を膝まで取られる。余り傾斜は無いが、歩きやすいように家内はアイゼンを着ける。所々に泥が露出したところもあるが殆どの道は数十センチから一メートルの雪で覆われている。途中尾根筋から離れて茶臼山の展望台へ向かう。展望台からの景色は、雲がやや多く、いつもなら北アルプスや中央アルプスが見えるのだが、今日は今一つであった。再び縞枯山へ向かい、頂上の手前の南斜面でバーナーとコッフェルで湯を沸かし、蕎麦を造って食べた。

  そこに反対方向から若い上品な娘さんが、一人、半袖のシャツでやってきて我々の隣りに腰を下ろした。「一人ですか」と聞くと、「ええそうです」と言う。「どちらからですか」と聞くと、「麦草峠から雨池へ行き、同じルートを帰ってきたところです」と言う。我々と同じコースを既に帰るところだと言う。たいていの人は雨池からほぼ平らな道を麦草峠に戻るが、彼女は雨池から再び険しい尾根筋にとって返し麦草峠に帰るという。
  蓼科辺りの別荘のお嬢さんかも知れないが、なかなか健脚である。

  縞枯山の頂上はこめ栂などに覆われていて見通しが悪い。また頂上の標識は1メートル程出ているだけで可成りの残雪である。頂上からの下りは急な雪道が雨池峠まで延々と続く。ここはアイゼンが嬉しい。雨池峠は日が当たる暖かい場所なので雪はすっかり溶けて泥だらけになっていた。しばらくアイゼンを外し、雨池への急な下りから再び着ける。下の林道はずくずくの腐れ雪で歩きにくい。林道を20分も歩くと雨池の入り口になる。そこから五分ほどで、「ぴちゃぴちゃ」と音を立てて小さな波が寄せる雨池に着いた。池の周りは雪で覆われているが、既に春で氷はない。この池だけは畔に山小屋がない事もあって、私の最も好きな池の一つである。いつもながら静かで、今日は人影もまったくない。
  畔に佇んで、しばし北八特有の黒い森を背景にした静寂を楽しむ。家内持参のディジカメで二三枚写真を撮った。しばらくして池を離れ、林道を経て緩やかな林の中の雪道を一時間余り歩き、麦草峠に戻る。三時であった。猫のロッキーがお腹を空かして待っている筈なので、急いで帰途に就いた。

5月4日 (土の処理)
 5月4日は朝から霧雨であったが、昨日の夕方、業者が急遽運び込んでくれた二トンの土を二つのバケツで床下に運び込んだ。床下を平坦にするための土入れである。昼は丁度来た佐藤さんの奥さんを誘って一緒に囲炉裏を囲んで簡単な焼き結びの食事をした。午後からは霧雨が小雨に変わったが、土を運び続けた。一日で殆どの土を運び込んだ。相当のアルバイトであった。

  ラジオは昨日から、帰省帰りの道路情報を伝えていた。何処も何十キロの渋滞である。明日も同じように混むだろうと言う。我々も猫を連れているので、余り混んでは困ると、5月5日の朝早く帰ることにした。

5月5日 (帰省)
 5月5日は、五時に起き、六時に出発した。東京には九時に着いた。全く渋滞はなかった。道路情報は完全に外れて一日中渋滞はなかった。

   五日間の連休は終わった。今年は体は忙しかったが、快い充実した休であった。

★13章 別荘地の人々 (1998.12)

 別荘地には、色々な人が居て、人柄に応じた多彩な使い方をしている。

Sさんのこと
 我々の小屋の直ぐ下のS夫人は、法政大学の博士課程を出られたおばさんで、時々娘さんを同伴してくるインテリである。何時も私と同じようにゴム長を履いている。この別荘地を歩き回るにはゴム長が最も適している。

  小海線の八千穂駅からリュックを背負ってよく歩いて登ってくる。中身は主に食料で、それが底をつくと帰っていく。バスが有る季節にはバスで来るが、あまり当てにしていない。8キロ近い距離があり、高低差は400メートルもあるので3時間近く掛かる筈である。私より年上だが、「私は考古学をやっていたから山には慣れているのよ。特に下りが強いので下りの佐藤さんと言われてたの」と平気な顔をしている。
  途中の畑で野菜を分けて貰ったり、季節毎に変わる田圃や山の風景を味わったりしながら登ってくるのが好きなようである。

 来ると比較的長く滞在している。一日中ワープロで書き物をしているらしい。

 彼女の別荘は隣にもう一軒ある。もう25年以上前から居る人で、「あの建物は大工がいい加減に建てたので、壊れそうで危険だからもう一軒建てたのよ」と言う。確かに古く華奢な建て方だが、住めないほどには見えない。
  時々我が家に来て、だべって行ったり、我々がお茶を戴きに行ったりする。さっぱりした良い人である。私が土木工事ばかりしているので、何時も「よくやるわねー」とあきれ顔で言う。

昨日も夕方になって娘さんを連れて亀有の煎餅を持ってやってきてくれた。丁度試飲のためにワインを二本開けたところだったので、飲み比べながら世間話をしていった。あまり飲めないようであるが、楽しそうであった。
  「明日は我々は山登りに行くんです」と言ったら、「帰りはいつ頃ですか」と聞かれた。「夕方になると思いますよ」と答えると、「昨年拾い集めた山栗でお菓子を作って持って行くわよ」と言うので、「有り難うございます。楽しみにしています」と言ったが、来なかった。
でも、よく考えてみると、「帰りはいつ頃ですか」と言うのは、何時東京に帰るのかという意味だったらしい。我々はその日に東京に帰ったので作るのが間に合わなかったのかも知れない。悪いことをした。

堀越さんと彼に纏わる人々
  彼は若い頃は本格的な山屋で、エネルギッシュに色々なことをやる。最近最もエネルギーを注いでいるのは陶芸で、色々なジャンルを手がけている。中でも特徴的で素晴らしいのは、赤く錆びた鉄で出来たような陶器で、色々な形をした壺が山荘に並んでいる。窯は自宅の方にあるそうであるが、作品が多すぎるので広い山荘の展示室に並べている。

  彼は社交家で行動的な人である。茸や山菜にも詳しく、この間も紫シメジの大きな塊を「小屋の直ぐ側で採ったんですよ」と、そっくり分けてくれた。
  彼は私と同じように、一人でも山荘にやってくる。いや、むしろ一人の時の方が多い。山で好きなことをやるのが嬉しいのである。私もしょっちゅう彼の小屋に出入りしている。彼の周りには何時でも新しい情報が溢れているので、実に楽しい。

 五月の連休の二日目であった。昨日も今日も小雨で家に居たら、堀越さんから電話があった。「今、大工の棟梁の富田さんの穴蔵で、イワナを焼いているところだから来ませんか」との誘いがあった。早速雨の中を車で出かけた。

 富田さんの穴蔵は、一方が土手を削って作った壁で、一部ブロックで土止めをしているが、木の根や泥がむき出しの”またぎ”の小屋のようで、かなり大きい。泥壁の側に大きな囲炉裏があり、その枠は立派な柾目のケヤキで出来ている。その中に炭がくべられ、網の上にイワナが沢山焼かれている。横には村の旧家の黒沢酒造が酒造りに使っていたと言う革製の汚い吹子があり、足で強く踏むと炭が赤く勢い付く。下は土間である。そこには、富田さんは勿論、常連で登山家夫妻の池田さん、堀越さん夫婦、堀越さんのお兄さん家族、お孫さん達等8、9人が居て、既にイワナで点でんに酒盛りをしていた。堀越さんは朝の7時からずっと飲んでいて、既に十分出来上がり、富田さんの穴蔵であるが、自分の小屋で有るかのように楽しそうに迎え入れてくれた。

  気の置けない人たちの寄り合いで、皆自分の家のように自由に振る舞っている。去年知り合ってバーベキューの炉を作ってあげた指宿さんも此処の常連だそうであるが今日は見えていなかった。また山一つ隔てた鷽ノ口の別荘の水沢さんも常連だそうである。水沢さんは元新聞記者で、鷽ノ口の別荘を舞台に一冊の楽しい本、”山小屋物語”を書いている。私も何回も読んで昔からの知り合いのように感じている人であり、一度会って話してみたいと思っている。此処に来ればきっと何時か会えるかも知れない。

 私は川魚はあまり好きな方ではないが、此処のイワナの旨かったことと言ったら無かった。生きたまま焼くイワナで、炭ですっかり脂が抜けて生臭くなく、さっぱりとしている。手掴みで食らいついて食べたが、こんなに美味しい川魚は初めてであった。いつもは古い魚を食べていたのかも知れない。それにしても炭で焼く魚は旨い。自分でも山小屋で、ザ・シチリンなる金属製の七輪を買ってよくサンマを焼く。今日のイワナは七輪で焼くサンマより美味しかった。

 途中で富田さんは用があると言って一人帰っていった。後は二軒隣の池田さんが火の始末をするらしい。一時しゃべった後、池田さんの家の工事計画の話が出て、池田さんの家に行こうと言うことになった。池田さんは三年前に富田さんの建てた家を中古で買い、その家の改装を再び富田さんに頼んでいた。やはり囲炉裏小屋を作り、その先に露天風呂を作るのだという。その計画と周りの雰囲気を説明してくれた。皆よく来る人たちで、それぞれの趣味と計画を持っている。

 堀越さんは、先々週、雪で倒れた木に着いている花が余りいい匂いがするので、家内と一緒に生け花用に採っているときに知り合った人である。言葉が非常に丁寧であるが気さくな人であった。立ち話をしているうちにコーヒーでも飲んで行きませんかと言われ、近くの彼の小屋におじゃました。別荘地で最も標高の高い景色の良いところにあって、これも八年前に富田さんの作を中古で買ったとのこと。路との段差を利用した比較的大きな三階建ての家で、夏用の家であると言う。木材は一部古電柱を用いてあるが、如何にも別荘らしくて、とても良い建物である。彼は山へも行くし、スキーもやるので富田さんに冬用の建物をもう一軒作って貰うことになっているそうである。

ポール・パンソナさんのこと
  ある日女房と別荘地を散策していると、外国人が植木の手入れをしていた。どちらからともなく話しかけて、工事の話が弾んだ。目の前の大きな山荘を奥さんと二人だけで作ったと聞いてビックリした。とても素人の作とは思われない立派な山荘である。私も何時か自分の小屋の床下に部屋を作ろうと思っていたので非常に興味が湧いた。

  見て行かないかとの誘いに、二つ返事で中を見せて貰った。中には日本人の奥さんが居た。この方も、気さくでとてもいい人である。
  造りは三階建で、二階から入る。いかにも山荘らしく自然の木をふんだんに使い、部屋毎に異なる雰囲気を持たせた凝った造りであった。風呂場やキッチンなどの水周りも全て自分たちで造ったとのこと。水周りはこんなところに工夫をしたとか、キッチンのデザインはこんな考え方でやったなど、なかなかの出来であった。
  案内して貰う部屋毎に変化があり、次はどんな雰囲気だろうかとわくわくする。一階は息子さんのバンド音楽が出来るよう、やや広い部屋になっていて、あちこちに楽器が置かれていた。彼は青年モデルとして売り出し中で、男性スタイル雑誌やテレビなどによく出てくる。

  庭に出るとバーベキュー広場がある。古い枕木を並べて平地を造り、真ん中に炉が切ってある。軽トラックを借りて、ある場所から枕木を運んできたそうであるが、何せ一本60キロもある。10数本積んで車を一台壊してしまったそうである。
  我々はその後、時々寄るが、行く度に何かしら変化がある。ベランダの形が変わったり、部屋が増設されたり、駐車場が出来ていたりする。実に気軽に改装する。思いつくと直ぐやってしまうらしい。奥さんと二人掛かりだから速い。

 パンソナさん曰く、「こんな面白いことを、金を払って人に頼む手はない」、と言うのが彼の哲学である。

 彼の家の近所に、同じくフランス人仲間のラザロンさんが、この辺りでは珍しい豪邸を建てることになった。彼は工事の間パンソナさんの家によく来ていた。フランス人なので、集まるとお茶替わりにワインをよく開ける。パンソナさんは人が良く、お昼の食事も自分で作り、私を含めたお客さんにご馳走してくれる。何でもやる人である。

 最近はインドに凝っていて、時々インドに行っているそうである。目的はインドの民芸品や工芸品を買い付けて日本で売るのだそうである。これまでの本業である日本のベルリッツ語学学校の教授を止めて商売替えをするらしい。彼は本当にエネルギッシュである。

 ある日八ヶ岳南部の別荘地、甲斐大泉に行ったとき、俳優の柳生さんが経営している八ヶ岳倶楽部の店に寄った。そこに偶々インドの民芸品が置いてあった。聞いてみたら、やっぱりパンソナさんがインドで仕入れたものであった。

 我々の別荘地にはフランス人が4人住んで居る。何れも奥さんは日本人である。もう一人はチュビさんと言い、パンソナさんとラザロンさんの家の下の方に住んでいる。来る回数は余り多くない。更に一人居るが、未だ紹介されていない。

指宿さんのこと
  パンソナさんの少し先に指宿さんの別荘がある。ある日通りがかったら、指宿さんと奥さんが大きな木を切り倒して運んでいた。作業が何より好きな私は例によって眺めていると、何となく話が始まり、「どうぞお入り下さい」と言うことになった。
  家の造りがまたユニークである。一見細い三角形のケーキを立てたような別荘で、高さが20メートルもある。内部は思ったよりずっと広く、これも富田大工さんの作であった。一番高い部分にご主人の書斎がある。後で付けたのだそうだが、鍾乳洞の中に掛けた観光用の梯子のような階段を上がって行く。手摺りがしっかりしているので別に怖くはないが、自然木を使った趣味溢れる建物である。

 しばらくおじゃましてお茶と指宿さんお薦めのニンニクライスをお昼にご馳走になった。趣味の刀剣の話を聞いた後、やおら別の部屋を紹介してくれることになった。一階の隅の床をスライドすると地下階段が現れ、緩やかな階段を下りて行くと、そこは傾斜地であるため南面だけが窓になった和洋折衷の地下応接室である。わざと暗く作ってあり、壁はこの土地で採れる鉄平石造りで白熱灯で間接照明している。魔法使いの家を思わせるような暗い部屋で、壁には写真と見まごうばかりに書かれた自筆の鉛筆画が何枚か掛けてある。此処はお客さんと酒を酌み交わす部屋なのだそうだ。とても趣味溢れる楽しい別荘である。

 たまたま外周りの話になった。裏山に案内してくれ、自然の石や山野草の話をしながらバーベキュウの炉の話になった。「どうもあまり出来が良くないので作り直そうと思っているんですよ」と言うので、「その中私が造ってあげましょう」と言うと、気安く「そうですか」と言う。私はすっかりその気になっていた。冬には来ないので次に来るのは来年だという。「構いませんよ。私が勝手に来て造っておきますよ」と言っておいとました。

 この様な作業が根っから好きな私は、仕事が出来たと、浮き浮きして帰った。早速図面を引き、イメージを作って次の週から作業に取りかかった。
  地面をならし、土台の下に霜除けの砂利を敷き、丁寧に耐火ブロックを積んだ。立って使う炉がよいと言われるので、四段ほど積んだ。周りを八番線で巻いて締める。この締めがコツである。角にずれないように小さな溝を掘り、各段毎に八番線を巻く。軽く締めた後、四方の直線部の八番線をプライヤーで挟んで捻る。 針金にZ型のパタンが出来る。これで完全に締まる。一番上のブロックは横に倒して並べ、同様な方法で締める。そこが皿などを置く少し広いスペースになる。セメントも何も使わない。これが私の工法である。
  丸鋸でブロックを二つに切って空気の取り入れ口を二段北側に付ける。上にプラスティック板で蓋を造って雨除けとし、風で飛ばないようフックを付けて完成である。

 翌年の春になって指宿さんは喜んで何度かお礼に来てくれたらしいが、たまたまその時期に行かなかったので大変失礼してしまった。故郷の名物を戴いたり、食事のご招待を戴いたり大変なことになってしまった。自分の趣味でやって喜ばれたと知るだけで十分である。後は何も要らないが、相手にして見れば何とか喜びを表したい気持ちも分かる。いずれにしても嬉しいことであった。

 後で堀越さんと知り合って、指宿さんが富田さんの穴蔵の常連であることを知った。また穴蔵の側の池田さんから、「指宿さんの炉を造ったのは貴方でしたか」、と言われてビックリした。そういえば指宿さんの家は富田さんの作だし、指宿さんが富田さんのお子さんの仲人をした話を聞いていた。どこかで皆繋がっている。狭い社会である。この別荘地の大半は富田さんと、そのお弟子さんの高見沢さんが建てていることを初めて知った。村の別荘地とはこんなものかも知れない。

池田さんのこと
  別荘地の人の話の中に度々出てくる池田さんの話を抜かすわけには行かない。
彼は大学時代に山岳部で活躍した人で、夫婦共に山のプロである。
  彼の小屋には山仲間の小高さんがよく遊びに来る。池田さんも小高さんも物造りが好きなので、二人でやるので結構大掛かりなものまで作ってしまう。
  パンソナさんとは少し趣が異なり、どちらかというとアウトドアに関する遊びの舞台装置は自分で作り、本格的な建物は富田大工さんに作ってもらうようである。

 彼の所も行く度に何か新しい物が出来ている。一昨年は富田さんに囲炉裏のある部屋を作ってもらった。次の年にはその側に野天風呂を小高さんと二人で造ってしまった。それも実に良くできている。着替えの場所もあるし、裸で涼むベランダも付いている。更に驚く無かれ、奥にサウナまである。更に野天風呂の雰囲気を出すために、八ヶ岳が見えるように庭の景観整備も行っている。

 また風呂の前方の落葉松の木の上には、トムソーヤー顔負けの樹上小屋が出来ている。池田さんと小高さんが作ったのである。その小屋は二階建てで、一間余四方の大きさがあり、中で昼寝をしたり本を読んだり出来るようになっている。

 その後、休む間もなく富田大工さんに頼んで、裏に大きな納屋を作った。更に隣の一区画が空いていたので借り受け、1メートル以上有る大石を二十個ほど積んで立派な石垣を築き、池田さんのお母さんが住む家を建ててしまった。そうこうしている中に今度は山仲間の小高さんの山荘を庭に建て始めている。思ったら実行する彼のエネルギーには吃驚するしかない。今度は一体何が出来るのだろうか。

女性軍の店
  ある日池田さんの所にぶらりと立ち寄った。池田さん夫妻と囲炉裏を囲んで話をしていると、池田さんの奥さんが、「今度女性だけでお店を始めたの」と言う。「えっ、何処に?何の店?」と、すかざず私。「パンソナさんの奥さんと地元黒沢酒造の親戚で野鳥に詳しい黒沢さんと、地元の建設業兼農家の須田さんの奥さんの四人で始めたの」。「場所は?」、「ほら管理棟の横に昔売店があったでしょう。あれを借りて改修したの。中は結構広く、営業用の調理器なども揃っていて食堂もやれる設備があったのよ。勿論食堂はやらないけど、冷蔵庫が使えて便利なの。改修には旦那衆が協力して作ってくれたの」と言う。

 「何の商売をやるの」と私。「一度来てみてよ」と池田さんの奥さん。池田さんのご主人が横から「男には一切口を出させないで、自分達だけでやると言ってるんですよ。開店は春から秋までの土曜、日曜だけなんです。ま、お遊びみたいなものですよ」と、口を挟む。「賃料が安いので別に儲からなくても良いんですよ。彼女たちの集会所ってな所ですかね」と軽口をたたく。
  パンソナさんも池田さんも須田さんも永住だから、黒沢さんだけが別荘族である。「じゃ、私は行ってくるわ」と池田さんの奥さんはそそくさと店に向かって出ていった。

 私は彼女たちを全て知っているので、その午後、早速行ってみた。管理棟と彼女らの店は国道299号に面していて、駐車場も有り十台以上置ける。駐車場を挟んで対面にログ調の公衆トイレもある。八ヶ岳高原に遊びに来た客が一休みしていける場所である。その隣りに須田農園で取れた野菜の無人販売小屋があるところである。

 女性の店らしく、コーヒーが飲めるだけでなく、ドライフラワー、須田さんの野菜、木の根で作った置物、パンソナさんがインドで仕入れた日用品や小物類等の土産品が女性の趣味で綺麗に並べられている。名前は忘れたが、自然木から切りだした板で看板が作られ、店の名前が書かれている。また道路際に看板の幟が一本立てられている。これも亭主達の作である。

 缶ジュースをご馳走になりながら中を見せて貰った。亭主達がとっかえひっかえ来ては内装を手伝っている。みんなで店作りを楽しんでいる。経営は彼女たちであるが、客よりもみんなが楽しむ場所になりそうである。

★14章 小鳥の餌付け  (1998.7)

 

 冬も山の良さの一つである。しっかり冬支度のしてある山小屋は、ぬくぬくとして実に心地よい。東京の拙宅と比べるとずっと暖かで住み心地がよい。しかも外は寂寂とした樹木の森。「自然に包まれているなあ」と実感する時でもある。 時々吹く強風に葉の落ちた唐松の巨木が大きく揺れる。風の強さに応じて梢が将棋倒しのように並んで撓む。

   十一月頃から窓辺に取り着けた餌台に、ひまわりの種をやり始める。すかさず、が近づいてくるが、側まで来ては引き返す。人懐こい「コガラ」が来てついばみ始めると、やっと安心したようにくわえて行く。

 餌台は食堂の腰高の窓辺にあるので、彼等は我々の目と鼻の先にやってくる。

  は人懐こく、二重窓の中ではあるが、我々が作業をしていてもあまり気にしない。ひまわりの種を一つくわえては近くの小枝に行き、足でしっかり押さえ、嘴で割って食べる。時には餌台に止まって、その場で大きな音を立てて、種を嘴で割って食べる。足で種を掴み、頭を上下に激しく動かし小さな嘴で大きな種を割る。一方の面を割ると、種を足と嘴でクルッとひっくり返し、反対の面を割る。その操作は素速く鮮やかである。

  最近では窓を開け放していても彼等はやってくる。手を伸ばせばすぐ届くところに小鳥がやってくるのは何とも嬉しい。特に「コガラ」は余り怖がらずにゆっくり種をくわえて飛んで行く。家内がインターネットのホームページを作るのだと、ディジタルカメラを向けても怖がらず、冬の羽毛に包まれた可愛い写真を撮らせてくれる。
 直接覗かずに、カメラで覗くと、どんなに近づいても彼等は怖がらない。それでも一眼レフのシャッターの音には驚いて飛び立つ。しかし、また直ぐ来る。 は嘴が長く、大きなひまわりの種を必ず二つづつくわえていく。 冬支度の頃は、カラ類は、餌を蓄えるために、くわえていってはすぐ帰ってくる。ある日、「ヤマガラ」の後を望遠鏡で追いかけてみると、土手の木の根っこや落葉松の木の比較的低い部分の割れ目に隠しているらしいのがわかった。もっていく度に同じところではないが、近いところに隠している。どのように隠しているのか、後で行って探してみるが、一度も発見出来たことがない。よほどうまく隠しているらしい。

   だが、ある日、土止めに使ってある落葉松の丸太が虫に食われて小さな穴だらけになっているので、細いノズルの付いた殺虫剤で薬を吹き込んでいると、落葉松の皮の表面に小さなシミのような、色が違う部分があった。虫の一部が見えているのかも知れないと棒でほじくると、風雨にさらされて変色したひまわりの種であった。種が丸ごと見えていれば、また木の表面から少しでも出ていれば何とか分かるのだが、ほんの一部が樹皮の筋目の間から覗いているだけである。「こんな風に隠していたのか」とすっかり感心した。やっと発見出来たという喜びに、ほのぼのとした気分になった。

   そう言えば南斜面の土止めの丸太のあちこちから季節外れのヒマワリの芽が出ている。よく考えてみると隠した種が雨に当たってふやけて芽を出したのである。
 小鳥の中でも、嘴が短く太い  、  などのアトリ科の鳥は、餌台に入り込み嘴の中でもぐもぐやりながら種を割って食べる。これらの鳥が居るときには、少し大きいので、カラ類は遠慮して周りの枝で待っているが、元気なコガラが隙を突いて種を持っていくと、他の小鳥も次々に飛来して取っていく。カワラヒワは「キロキロ」と鈴のような綺麗な声で鳴く。大人しい鳥なので、周りが騒がしくなると席を譲る。

   餌台に蜜柑や柿の実を刺しておくと、”ヒヨドリ”がやってくる。彼等は大形の鳥なので、食べる量も多く、何となくばたばたした雰囲気になり、他の鳥は全く寄ってこない。時々彼等の食べ残しを”メジロ”が食べに来る。

   周囲には「キッ、キッ」と独特の声を出して、  が沢山やってくるが、彼等は主に虫を食べるため、立木や土止めの丸太の虫を掘り出して食べているだけで餌台には来ない。キツツキの中でも”アカゲラ”は多いが、”コゲラ”や は非常に少ない。

   時々近くでキツツキのドラミングが聞かれる。それはキツツキが枯れ木に嘴で穴を空ける音である。機関銃のように速い速度でつつく。音は丁度鼓を叩いたときに出る音に似ていて、綺麗な澄んだ音である。とぼけた顔をして頭を激しく振っているのを見ると、何とも微笑ましい気分になる。

   近所の別荘の壁に直径7~8cmの穴が沢山開けられている。キツツキの好む壁面があるらしく、特定の建物が狙われる。穴をトタンで埋めてもすぐに別なところに開ける。一軒置いた隣の家は十数個の穴が開けられている。
 その家を建てた里の大工さんが時々埋めに来るが、とても面倒をみきれないようで増える一方である。

   キツツキに狙われる小屋の壁を見て歩くと、共通点がある。人が来る頻度が非常に少く、風化で表面の木目がざらざらし始めるほど古く、暗い色の塗料が塗って有り、板が比較的薄く、内側に空洞があることである。
 虫を狙うなら、あんなに大きな穴を開ける必要はないし、巣を作るなら、周りを穴だらけにする必要もない筈である。単なる習性のように思うが、本当のところは分からない。

   ごく最近、我が山小屋の南と西の軒下に直径10センチほどの大きな穴が一つずつ空けられているのに気が付いた。何時空けたのかははっきりしない。そこは白い穴あきボードで、材質はボール紙とモルタルを圧縮して固めたものである。敵は間違いなくキツツキである。何の目的で空けたかは分からない。勿論そこには餌になるものはない。下からブル下がるようにして空けたに違いない。
 これまで予測した共通の習性とは一致しない。とうとう自分の所もやられてしまった。
 翌年、ペンキを塗るときにその穴をふさいで貰ったが、一ヶ月もしない中に、直ぐ隣りに又一つ空けられてしまった。裏が空洞で、板が薄いことが、余所の被害の状況と共通である。どうも板の色や古さには依らないようである。

   我が家の尾根続きの別荘地に、老人と孫娘との二人暮らしの家がある。実家は下の里にあるが、ここ一、二年定住であるため、鳥との付き合いが特に深く、孫娘が餌を持って外に出ていくと周りの鳥たちが一斉に庭の真ん中にある餌台めがけて集まってくる。我々がその娘さんと少し離れて話をしていてもいっこうに気にする風でもなく、鳥たちは次々とやってきては餌をついばんでゆく。
 縁側には鳥籠の古いのが置き去りにされている。かつてその中に餌を入れたことがあるのか、開け放された鳥籠に小鳥が出入りしている。

   門に近い隣り合った二本の木にそれぞれ巣箱が掛けてある。向きは互いに見えないようにしてあるが、たった2メートルしか離れていないのに、どちらにも小鳥が営巣するそうである。巣箱を掛ける木はいくらでもあるのに、たまたま娘さんが近くの二本を選んだだけである。一般に巣箱は15メートルぐらい離すのが常識であるように言われているが、定常的に餌にありつける場所ではこのルールも成り立たないようである。
 この家では人と小鳥たちが共存しているのである。  

★15章 地獄谷(1998.5、2001.9.16)

 八ヶ岳は火山の噴火によって出来た山である。しかし、あっちこちで噴火して、互いに埋め合っているので、爆裂口がパックリと大きな口を開けているのは硫黄岳だけである。北八の天狗岳周辺や大岳周辺は真っ黒い溶岩がゴロゴロしていて噴火口がはっきりしない。
 八ヶ岳連峰の北の外れにある蓼科山は綺麗な独立峰で、噴火口ははっきりしているが、大きな溶岩で平らに埋まっている。

 麦草峠の国道299号のすぐ北側に小さな”茶水の池”というとりとめもない池がある。雨池へ行くときには、この池の中に不規則に点在する石を、飛び石代わりに渡って行く(最近木道が出来た)。この池の左側に、この辺りの見取り図が立てられている。何となく見てみると、茶水の池の先に水色に塗られた小さな池が描かれていて、消えそうな字で地獄谷と書かれている。五万分の一の地図を広げてみると、等高線の小さな輪があるだけで、辺りと同じ茶色に塗られていて、側に地獄谷 と書かれている。

 この近くに住み始めて5年以上経つが、この谷の存在に気がつかなかった。
 名前がどぎついので少し気になり、麦草ヒュッテの人に尋ねると池ではなく旧噴火口だという。そんなものがあったのかと早速行ってみることにした。
 北八独特の苔むした岩と木の根を縫うように雨池に向かうなだらかな道を15分ぐらい歩くと、笹が繁茂している明るい粗林に出る。そこに普通なら見過ごしてしまうような左に折れる細い道がある。その道とは反対側に、昔は道標だったのか腐った細い棒が一本立っている。そこを左に曲がって、更に5分ほど行くと、鬱蒼と茂る森の中に、遥か昔の名残を示す噴火口が忽然と現れる。

 直径5,60メートルの擂り鉢状の窪地である。深さは30メートルも有るだろうか、窪地には苔で覆われ、2~3メートル巨岩が重なり、岩の間が深い隙間になっている。北側の面は、日が当たるためか、乾いた岩肌がそのまま出ているが、上に行くに従って、針葉樹で埋まり、そのまま周りの森に溶け込むように広がっている。南面と東西の面は、底の方から、苔むした岩に続いて低木が蒲団のように厚ぼったく生い茂り、上の方の大きな森に続いている。真上はぽっかりと抜け、青い空が丸く広がっている。

 一ヶ所だけ人が降りて行けるルートがある。すり鉢の壁の途中まで何故か直径10センチ程の細い木が沢山生えている。その木にすがりながら降りていくと、真夏でもひんやりとした冷気を感ずる。
 7月の暑い日でも南側の基底部の大岩の陰には、雪が残っている。その厚さは良く分からない。多分下の方まで万年雪になっているのかも知れない。人が居ないためか少し不気味な感じもする。すり鉢の底から上を見上げると、深い谷底に閉じ込められたような錯覚に囚われる。

 箱庭のような規模の噴火口であるが、深い森と静寂さとが相まって、何となく存在感がある。
 珍しい場所なので、その後も山小屋を訪れる人を案内して来る。9月のある日、山や自然が好きな息子夫婦が来たので、連れていった。空気はひんやりしていたが、残念ながら氷はもう残っていなかった。代わりにもっと素晴らしいものがあった。

 中年の女性が二人、我々の後からやって来て地獄谷の中に降りてきた。聞くともなく二人の会話を聞いていると、「××苔があるのよね」と言って南東面の岩の方に行き、大きな岩の間を覗いて「ほらね」と言った。我々も覗いてみた。間違いなく××苔だった。しかも可成り広い面で生育している。周りを探してみると、何カ所にもあった。

 雪はなかったが、地獄谷に新たな価値を発見してちょっぴり満足であった。
 此処は知る人ぞ知る秘密の場所なのである。此処へ来る山道の曲がり角に道標を建ててない理由が分かった。

 古代の庭から再びタイムスリップして明るい雨池への道に戻ると、笹藪の平坦な地形をいつもの日射しが照らし、地獄谷へ行ってきたことを忘れさせる。

★16章 硫黄岳に登る(1996・7) 

  山小屋に来るようになって、親しい友人夫妻と毎年春と夏に山登りをする。一緒に行くのは八ヶ岳だけではないが、我が家に泊まっていくときは近いので自然に八ヶ岳が多くなる。

  今年の夏は硫黄岳に登り、硫黄岳小屋に一泊する予定を立てた。前日から友人夫妻は我々の山小屋に泊まり、翌朝早く出かけることになった。硫黄岳への通常のルートは、八ヶ岳を隔てて我が山小屋の反対側、詰まり西側の箕ノ戸口から歩き始め、赤岳鉱泉を通って行くものである。しかし、今回は歩く距離が少し短いことと我が家から登山口までが近いこともあって、イナゴ湯から入り、本沢温泉を通って行くことにした。因みに本沢温泉は日本で二番目の高所温泉である。八ヶ岳の東側では温度の高い温泉は此処だけであり、最も温泉らしい温泉である。

  車でイナゴ湯の先の本沢入り口まで行き、そこに車を置いて出かける。単調な長いアプローチで、天狗岳が時折見えるだけで景色はさほど良くない。それでも時折聞こえる甲高い「ヒーンカラカラ・・・」と言うコマドリの鳴き声に単調さが破られる。行程表には二時間と記されていたが、二時間半ほどで本沢温泉に着いた。
 この温泉は今度の山行の目的ではないが、一度雰囲気を見てみたいと思っていたので何となく満ち足りた気分であった。本沢の野天風呂が見下ろせる高台で昼食を取り、再び夏沢峠を目指して歩き始めた。この辺りからは目的地硫黄岳の勇姿がハッキリと見え、間近に見える荒々しい爆裂口の凄まじさに圧倒される。

  夏沢峠までは本沢から一時間余りで、最後の急登は少しきついが何とか予定通りに到着した。夏沢峠には二軒の山小屋が二メートルほど離れて向かい合わせにあり、その間が登山道になっている。その直ぐ先に硫黄岳への道標がある。二十分ほど休憩し、そこから一時間行程の硫黄岳へ向かう。

  少し行くと2500メートルの森林限界を超えるのでハイマツと岩石のガラガラ道になる。鉄平石の様な大きな岩が時に動き、「カラカラ」と音を立てる。更に進むと、ルートは爆裂口の切り立った縁に近づいたり離れたりするスリリングな道になる。
 上の方を見ると硫黄岳頂上付近に沢山ある大小のケルンが見え隠れする。所々に風でいじけたハイマツが岩の一部を覆い、その周りや陰に可愛らしい高山植物の花々がそよ風に揺れている。友人は高山植物に詳しく、時折解説してくれる。
この辺りは、我々の山小屋から望遠鏡で見ると登山者が行き来するのがよく見えるところである。

  予定より少し遅れて2742メートルの頂上に着く。全体で四時間行程であるのでそれほど厳しくはない。頂上は>一面広い岩原で、何処が頂上か分からないほどである。右には赤岳鉱泉からのルートを示す道標が見え、左端には爆裂口の縁が大きくうねって左回りに続いている。南の正面より少し左に寄った方向が硫黄岳小屋、横岳、赤岳へ続く道になっている。大小のケルンが広い頂上を間違えないよう尾根伝いに幾つも作られている。
 此処は若い頃縦走で二回ほど通っている筈であるが、殆ど覚えていなかった。

  一服して、頂上を越え、硫黄岳小屋の方へ向かう。20分も歩くと小屋である。そこへ至る瓦礫とも土とも付かぬ道端に、高山植物の女王、駒草があちこちに咲いている。直径20~30センチの白緑の房のような葉が株をなし、その中から10cmほどの茎を出し、その先にくるりと反り返った濃い桃色の花が何本も寄り合って可憐に咲いている。天狗岳、特に西天狗岳にも一部咲いているが、こちらのスケールはずっと大きく、広い範囲に点々と咲き誇っている。奥様方の歓声に釣られて男共も群落毎に立ち止まりその美しさを鑑賞した。

  小屋に着くとその周りは一面高山植物で赤、紫、白、黄色に彩られ、今夜の小屋泊まりの登録を忘れて大はしゃぎであった。到着時刻が早かったので登録を済ますと早速外に出た。この辺り一帯は高山植物が豊富なことで有名で、地図にも記されている。駒草は勿論、ウルップ草、梅鉢草、・・・、友人は例によって、一つ一つ解説してくれる。暗くなるまで興奮しながら歩き廻った。
 翌日も良い天気であった。朝の澄んだ空気の中に360度、山々の勇姿が拝める。南アルプスの北岳、駒ヶ岳、仙丈岳、中央アルプスの木曽駒ヶ岳、御岳山、北アルプスの乗り鞍岳、穂高岳、槍ヶ岳そして富士山など有名な山が一望できる。

  高山植物と山々をすっかり堪能し、同じ道を帰途に就いた。何時か家内を隣の大きなピーク、横岳、赤岳に連れて行くつもりである。
 

★17章 サイクリング (1998.8)

 有る夏、会社の若い連中が山小屋に来てくれた。普段は余り入ったことのない林道でサイクリングをやろうと言う計画である。車二台で来た二組の夫婦と私の五人である。
  若者は立派なサイクリング車と専用スーツで固めた颯爽とした出で立ちであったが、私のは子供達が使っていた古いサイクリング車まがいの自転車を修理したものである。ギアは外装6段変速で、タイヤは凸凹のあるサイクリング車と同じ物を付けているが、その他はブレーキからフレームまで都会用の自転車である。おまけに小さな買い物籠が前に付いている。

  林道であるから余り荒れていなければ車も通れるのでそれで十分であるが、若者とのバランスは如何にも悪い。新しく揃えても次に何時使うか分からないので廃物利用でごまかした。                                         
  この恰好は若者がおジンスタイルと呼ぶ元凶である。彼等が嫌悪感を持たない程度に全体のスタイルを決めてやるのも若者への礼儀かも知れない。

  勿論彼等は嫌な顔一つ見せず(でも何年か後に「あの時は確か子供の自転車の改造でしたよね」と言われた)、五台の自転車を二台のワンボックスカーの内と外に積み、国道299号を自然園まで登った。小屋から10キロメートル程の処で、そこは林道の入り口になっている。別荘地との標高差は300メートルほど有る。そこから、更に一時間ばかり登り、10数キロの林道を下ろうと言う計画である。山の地図が正しければ、林道は、我が家から国道299号を1キロほど登った所に出る筈である。

  自然園からの林道の登りは広く整備されている。しかし傾斜は相当きつく、サイクリング車でも長くは漕いでいられない。途中縄文時代の遺跡が一、二カ所ある。そんな場所は、ちょっと覗いて休憩するのに丁度よい。八ヶ岳周辺には縄文時代の遺跡がかなり沢山あるが、今は指導標が立っているだけである

  山と森に囲まれた林道は変哲もない。でも若い人達は初めての景色の中で満足げであった。夏の山を見回しながら綺麗な空気を一杯に吸っていた。
  一時間も登ると、小さな川が現れ、それを渡ると、八ヶ岳で最も長い林道に突き当たる。この林道は八ヶ岳の北端の大河原峠に始まり、八柱山を巻きながら双子池、雨池を経て別荘地まで延々20数キロも続いている。このT字路は材木の積み出し基地に使っているのか、やや広い平地になっていて、木の皮や木っ端が散らかっていた。木陰に入り、持ってきた握り飯をみんなで輪になって食べる。旨い。後は下りのみなのでゆっくり休む。

   ここまでの道は八柱山への最も近道の林道で、工事の車やハイキングの人が通るので、歩きやすかった。しかし、ここからの下りは長く、林業関係の車がたまに入ってくるだけで、草は身の丈ほどもあり、道も見えないくらいである。その下に車の轍があったり、大小の石ころが隠れていたりする。殆ど漕ぐところはないが、スピードが出るので危険である。
  草に触れて少々痛い。景色を見る暇がないほどだ。時々草が無く小さな砂利ばかりの所があり、ふっと息を付くと同時に回りの景色を見る。遠く奥秩父の山々が霞んでいる。小休止だ。それぞれに日陰を選んで休憩。写真などを撮る。

  林道は山腹をトラバースしているため、時々小さな川を横切る。橋は無く、土管を埋めてその上に土を盛ってある。水は何と言っても最も嬉しい清涼剤である。川まで降りて手ぬぐいを濡らし、顔や首を拭く。そこには珍しい夏草やウドの大木が生い茂っている。しかし思ったより山菜の数は少ない。主に北斜面をトラバスする地形だからかも知れない。

  実は林道を走ってみたかったのは、常日頃、長い林道の奥まではなかなか人が入らず、山菜の宝庫があるかも知れないと期待してのことであった。一寸がっかりしたが、山小屋の近くの林道を一通り見ておきたいという希望は叶えられた。

  単調な景色であったが、程なく国道299号に出た。そこは地図で予想した通り別荘地の最も高い所に有る林道の出口だった。何時も通りすがりに「何処からの林道かな」と気になっていたところである。車止めの鎖が掛けられ、偶にその前に山菜取りの車が止めて有るので、もしかしたらこの林道沿いに山菜が沢山あるのではと期待していたが、どうやら出口から数キロは北斜面であり、その先10キロにも山菜は殆ど無いことが確認できた。

  別荘内を通り抜け、我が山小屋に着いた。残して有った車の一台に三人が乗って自然園入り口に置いた車を取りに行った。二人の奥様方は夕食のバーベキューの用意である。
  適度に疲れた体に、仲間の一人が昨日造った岩魚の燻製や焼き肉をつまみにして冷たいビールを飲む。こんな時のビールは最高である。

★18章 マダニ(1998.10)

 山荘を基地にして高山植物の豊富な山々をよく徘徊する。小諸から北へ走って高峰高原の車坂峠まで行くと、そこと湯ノ丸高原の地蔵峠を結ぶ未舗装の湯ノ丸林道がある。その中間に標高2040メートルの三方ヶ峰と言う山がある。その辺り一帯は池ノ平と呼ばれ、起伏が比較的少なく、春から夏に掛けて一面高山植物が自生し、一大お花畑となる。特に三方ヶ峰には普通2500メートル以下では見られない高山植物の女王”駒草”が群生している。花の種類も多く、池の平だけの植物図鑑が出版されているほどである。池の平一帯をゆっくり散策すると三時間ぐらい掛かり、高山植物の好きな人には一寸したハイキングのメッカである。我々も良く出かける。

 ある夏の日、我が山小屋に遊びに来てくれた会社の仲間をつれて花を見に行った。その日は曇りで、途中から小雨が降り出し、所々の木の下で雨宿りをしながら、それでも何とか一回りできて満足した気分で帰途についた。 途中、車を運転していると脇腹が何となく痛痒い。「虫でも入って喰われたのかな」と服の上から二三度掻いていたように記憶しているが、そのうち忘れてしまった。

  その日はみんなで東京に帰る日であったので、山小屋に戻って荷物を積み、再び車を運転して帰途についた。運転している中にまた痛痒くなった。今度は少し痛みが強いが、車を止めて調べてみるほどではないので、服の上からぼりぼりと掻きながら東京に着いた。

  少し気になるのでシャツを脱いで見ると、7~8ミリぐらいの黒い虫が脇腹に頭を突っ込んで尻尾と足を僅かに出している。「これは何だ」と初めてびっくりしてピンセットで取り出そうとしたが、しっかりと食い込んでいて、無理して取ってもちょんぎれてしまうだけだと分かった。

  夜も遅かったが、急に心配になり、杏林病院の救急に駆け込んだ。あまり待たされずに当直医が診てくれた。「ああ、これはマダニですよ」と、こともなげに言った。「この虫はまだ生きているのですか」と聞くと、「ええ、生きています。これは私の専門分野です。この虫は悪い菌を媒介することがあるので予防注射をしておきましょう」と言って注射をしてくれた。「何日か経って変化がなければ大丈夫です」と言う。

  直ぐ取ってくれるのかと思ったら、「この虫は引っ張っても取れないのです」「切開して取るしかないのです」と言う。「明日昼間皮膚科へ行って下さい」と言われて帰ってきた。

  その先生の話によると、マダニは山の笹藪や野原によく居る虫で、獣の体にとりついて潜り込み、そこで卵を生んで幼虫が孵ると体の中の養分で育ち、適当な大きさになると玉状の固まりになって自然に外に転がり出るのだそうである。どうやらマダニは私の腹を卵の産み場所にしたらしい。

  池の平で雨宿りのために木の下に何回も入ったので、上から落ちてきて襟から入ったらしい。それにしても通常はもっと痛いそうであるが、たまたま神経の鈍い脂肪の多い部分に食い込んだのかも知れない。

  翌日再び杏林病院を訪れ、万が一、上手く行かなくても文句を言わないと言う同意書にサインをさせられて、長さ2センチ、深さ1.5センチの船底型の肉を切り取られた。見ていたら3針縫った。60年以上生きてきたが、初めての手術の経験となった。

  後に別件で関東逓信病院の皮膚科に行った折り、壁を見ると、人に悪さをする虫が数種類一覧表になって貼られていた。その最後にマダニの写真が載っていた。どうもよく有ることらしい。

  しかし私は山好きの友人が沢山居るが、マダニのことは一度も聞いたことがなかった。ある日山屋の友人に詳しく聞いてみると、山岳部の山行では、「時々やられるんだよ」とのことであった。特に笹藪でやられるそうである。しかし、私のようにちゃんと食い込むまで気が付かないことは希で、大抵は入り込む前に気が付いて、取ってしまうので、医者に掛かる者が出たことはなかったそうである。だから我々に取り立てて話してくれなかったのであった。 マダニが多く居る山は、決まっていて、そこへ行くと必ず誰かがやられたそうである。

  ある日再び池の平らへ出かけた折、知り合った高山植物の監視員をやっているボランティアに聞いたら、「よく有るんですよ。特に笹藪に多くいるのです。だから我々は笹藪や草むらを歩いた直後には必ず見るか払うかするのです」と言っていた。

  それ以後藪漕ぎの後には必ず見たり払ったりするようにしている。山小屋生活を初めて、またもや新しい体験をしてしまった。

  しかし、その後、我が山小屋の周りにもマダニが沢山居ることが分かった。 我が家の庭にはそれほど無いが、隣の馬場さんの山小屋には沢山笹が生えている。馬場さん夫婦がよく犬をつれてくるが、ある日東京に帰ってから、犬の身体にマダニが何匹も着いているのに気が付いたそうである。更に、猫の瞼の上にも着いていたと言う。犬の方は時々放し飼いにしているが、猫は放したことはない

  未だ医者につれていっていないと言うので、私の経験を伝えて、早くつれて行くように薦めた。

  それにしても、こんなに身近にマダニが沢山居るとは十年近く住んでいたのについぞ知らなかった。当に知らぬが仏である。 

★19章 ゲジゲジの大発生(1999.9、2000.10.22)


山には色々な虫が居る。いつの間にか足先が膨れて痛かったり痒かったりする事がある。でも、一番嫌な虫はカメムシとゲジゲジである。標高が高いので蚊は殆ど居ない。これらの中で定期的に大発生し、家の中にも無差別に大量に現れるカメムシとゲジゲジは都会の人にとって大きな脅威である。更に最近はスズメバチが増えているようで、新しい脅威になりつつある。

ゲジゲジゲジゲジは5~7センチのムカデのような甲冑類で、通常7年ごとに大発生すると言われ、一度発生すると翌年も少し現れ、次の年には一匹も居なくなると言う徹底した発生の仕方である。季節で言うと、10月前後のある短い期間に大発生して一、二ヶ月もしない中に、全くいなくなってしまう。
 八千穂には6年前に大発生した。その時は、八千穂だけでなく長野県、山梨県全域に大発生した。その量は一平方メートル当たり10匹から100匹のオーダーで家の中にも大量に入り込んでくる。何処から発生するのか分からないが、ものすごい量である。普通の家の造りは隙間だらけであることがよく分かる。

  六年前の1993年には、家の前を縦横無尽に這い回り、車で潰すと中から出る油で車がスリップするほどであった。小淵沢と小諸を結ぶ小海線は線路を渡る大量のゲジゲジを踏みつぶし、列車がスリップしで動けなくなったと言われている。
 もし七年周期なら来年2000年がその年に当たる。我々としては二度目の経験になる筈である。効くかどうか分からないが、今年は蟻、蜂、ゲジゲジ用の薬剤を今から大量に撒いて予防する予定である。実際には広い地域で発生するため、自分の小屋の周りだけの対策ではどれほどの効き目があるか分からないが、できる限りの対策をするつもりである。
 多分土の中に有る卵が孵化するのであろう。どのくらいの深さなのかも分からない。今から嫌な予感がする。

  夏に、ホームセンターに行ってみると、ゲジゲジに効くと言う粉末の薬があった。どの程度効くか分からないが、とりあえず買ってきて、半信半疑ながら家中のコンクリートの土台の周りに散布した。

  1999年の9月頃になって、ある日、土台の周りの土の出ている所を、何気なく見ると、干からびて丸まったゲジゲジの死骸がかなりあった。六年目であるが、既に一部発生したのである。薬の効き目か、生きて這い回る姿はなかった。薬のお陰で嫌な思いはせずに済んだが、甲冑に包まれた、あの丈夫そうな虫に効く薬とは、一体なんだろうと、逆に薄気味悪さを覚えた。

  六年目に当たる昨年は少し発生したが、その前に撒いた薬で効いたことから、大発生は済んだと思っていたら、2000年10月20日(金曜日)の夜のことである。小屋に入って何気なく座敷を見ると、干からびたゲジゲジが一匹転がっていたので小型掃除機で吸い取った。
 翌日、茸を見てこようと小屋の廻りを歩いてみて驚いた。小屋のコンクリートの土台とその周辺の地面に、大量のゲジゲジが発生していた。去年の夏に撒いた薬が効いていたのか、半分以上死んで干からびてはいたが、まだまだあちこちに這い回っている。
 どうやら、昨年はほんの少し発生して、今年が本番であるらしい。濃い茶色や薄い肌色のゲジゲジが蠢くのは何とも気持ちが悪い。一平方メートル当たり何十匹もいる。建物から数メートル離れると、急に少なくなるが、それでも林の中の落ち葉の中にもいる。やはり七年周期で大発生する事が判明した。

  昨年コーキングを詰めて、かめ虫とゲジゲジが家の中に入ってこないように対策をした。床下と家への隙間を徹底的に埋めたため、今回は家の中には殆ど入ってこなかったので助かった。

  早速里へ下りて粉と液体の薬を二本買い求めて再び家の周囲に撒いた。時間が経つに従って、どんどん増えていく。翌朝には、二倍になっていた。家の廻りには丸くなって死んだゲジゲジが掃いて捨てるほどいた。まだ生きているゲジゲジも、うようよと這い回っている。薬は数時間後に効くという。すっかりいなくなるのは東京に帰った後だろう。

かめ虫
 もう一つの嫌な虫はカメムシである。昨年隣の山荘に久しぶりでやってきた篠崎さんの奥さんが、家に入るなり大声を上げて飛び出してきた。大量のカメムシにびっくりして我が家に駆け込んできたのである。こればかりは山に慣れた我々でも何ともしてあげられなかった。
 我が家の外壁にも大量のカメムシがへばりついている。何年か前、それらに一匹づつ殺虫剤を撒いたらアルミのサイディングが薬で赤い斑模様になってしまった。いくら拭いても取れなかった。せっかくの白いアルミのサイディングが台無しになった。殺虫剤のメーカーに問い合わせても埒があかなかった。自分で色々試したらシンナーで綺麗になることが分かった。外壁全てをふき取るのに何日も掛かった。

  カメムシは触ったり脅かしたりすると例の強烈な匂いを発する。動く物には何にでも飛びつく猫も近寄らない。この虫もゲジゲジと同じくぺったんこな虫で、家の隙間から大量に入り込んでくる。こちらは飛ぶので更に始末が悪い。動きはそれほど俊敏ではないので数が少なければ捕まえて潰すことができるが、大発生の時は家の中に1000匹は出てくる。採っても採っても減らない。夜寝ていると飛んできて顔にも止まる。ゲジゲジと違って大発生の後、急には減らず毎年発生する。
 瞬間に潰せば、臭いを出す暇がないので何とかなるが、数が多いので採りきれない。

  昨年はあらゆる隙間をコーキング剤で埋めた。例えば、天井に着いている照明の電源引き出し線は、天井に大きな穴が空いており、グローブが被せて有るので一見分からない。そこから入ってきた虫は、グローブにある隙間から部屋に侵入する。従って天井の電源引き出し部の穴をコーキング剤で埋めた。
 しかし天井板にもデザインや化粧のために両端部に沢山の隙間がある。それらは殆ど手に負えない。
 風呂場などのように水漏れ対策を施した場所でも、大量に入ってくる。隙間と分かる部分をコーキングで埋めても、余り効き目がない。サッシの敷居が僅かに空いているため、ここから忍び込むらしいが、その内側の木製の引き戸には、殆ど隙間がないように見えるが、何分かすると必ず数匹は出てくる。じっと見続けるわけには行かないので侵入口はなかなか分からない。
  最近、地下の南側の階段に使っているブロックを剥がしてみたら、裏にべったりカメムシが着いていた。どうやら地下の土や砂利の中で繁殖するらしい。スミチオン殺虫剤を十分撒いたが、それほど効果がなかった。今年はそれらしいところを狙い打ちするつもりで居る。
 何でもそうであるが、嫌なものは元から断たねば駄目である。来年は出始めたら、出入りする瞬間の場所を見付けて対策をするつもりである。

★20章 流星群(1999.7)

 子供の頃、私の生まれた武蔵野には、抜けるような空があった。夏には何回も激しい雷雨があった。その後には東の空に大きな虹の橋が架かった。夜は庭木の間から天の川が白く流れていた。七夕の頃、父親に教えて貰って織り姫を捜したりした。畑の里芋の葉に溜まった朝露で墨をすり、筆で短冊に思い思いの文字や詩を書いた。庭の竹を一本切って貰って短冊を枝葉にぶる下げた。当時はそんな心の余裕があった。

  八千穂の山小屋から一キロメートルほど離れた所に、高原野菜を作っている広々とした畑がある。北に浅間山、東に長野と群馬を分ける荒船山とその山脈、南西に八ヶ岳、そして西にはこんもりとした森がある。そこは星を見るには絶好の場所で、遠く浅間の手前に佐久平の明かりが見える。畑の中の緩やかな道を少し下ると、土手の陰になり、里の明かりは見えなくなる。その場所は殆ど全天が見える絶好の天体観測場である。

  夏も冬も見に行く。全天に鏤められた星、星、星。素人にも分かる有名な星座の背景には、これほどまでに有るのかと思われるほど無数の名も無い星が煌めいている。一段と濃い塵の帯は天の川である。一つ一つの星と言うより白い雲のような、まさにミルキーウェイが南の地平線から天頂を通って北の地平線まで続いている。
 冬の星座はとりわけ美しい。着られるだけ衣服を着、更に防寒具に身を包み、暖房を点けたままの車を側に置き、マイナス10度の畑で空を仰ぐ。赤いレンズを被せた懐中電灯で星座表を見ては、空の星と見比べる。明るい光で星座表を見ると、瞳孔が閉じて空を見たとき一瞬何も見えなくなるので、懐中電灯には赤いレンズやセロファンを被せる。

  時々都会から来た若者が、天体望遠鏡とカメラを据え付け、畦道にシートを敷いて仰向けに寝そべり、狙いの星が現れるのを待っている。

  1996年3月25日からの百武彗星や、1997年3月下旬から4月中頃まで見えたヘールホップ彗星の時は、私たちを含めて別荘の住人も随分現れて俄か天体観測者になった。特にヘールホップ彗星の時は、村々の電灯が消され、素人の私も、家内と二人で、8倍の双眼鏡と60倍の望遠鏡と三脚を抱えて何週間にも渡り、件の畑に見に行った。北西の地平線の少し上にボーと尾を引いた大きな彗星が右上から地面に向かう形で見えた。絵本では見たことがあるが、尾を引く彗星をこの目で見たのは始めてであった。日頃話をすることもない離れた別荘の住人とも、この時ばかりは親しくなり、望遠鏡を代わる代わる覗いては一緒に歓声をあげた。

  このように突然の大きな天体ショーもあるが、年に数回、決まった時期に特定の星座の方向に流星群が見られる。1月3、4日、星座の名は忘れたが、最初の流星群が現れる。続いて、5月5日の水瓶座流星群、8月1~20日頃のペルセウス流星群、10月20、21日のオリオン座流星群、11月17、18日の獅子座流星群、12月13、14日の双子座流星群等が有名で、年によって数が異なり、今年は多い年だと言われると、我々だけでなく、別荘の観察者も数人に増える。五分間に一個程度の流れ星であるが、時に天空の四分の一を走り抜けるほど長い流れ星を見ることがある。私の年間メモにはそれ等の時期が記して有り、偶々天気がよい週末に来て流星が見られる時にぶつかると必ず畑に出てみる。方向がほぼ決まっているので二人で見ていると見逃すことはない。こんな歳になっても、家内は願い事を用意して待っているが、一瞬であるので、つい見るのに夢中になって言い終えたことがない。

  ここから南へ二十数キロの所にある野辺山には、有名な東大の天体観測所がある。また北へ数キロ行った北八ヶ岳の中腹に、最近直径60mもあるパラボラアンテナを備えた電波望遠鏡が設置された。また、それと比較するようなものではないが、八ヶ岳の尾根筋にある高見石小屋の主は通称天文博士と呼ばれ、登山者仲間に天体の織りなす競演を説明して喜ばれている。
我々の別荘地の中にも、高台にコンクリートでしっかり土台を固め、天井がスライドして開く本格的な望遠鏡を備えた観測塔を持つ小屋がある。天文好きの同好の士が何人か集まって建てたのだそうである。

  神秘の宇宙には、昔からロマンに満ちた物語があり、我々素人から見れば同じ星座が廻っているだけに見えるが、常に無限の変化をしている。今でも多くの愛好家が寝食を忘れて新星の発見に情熱を燃やしている。最近の科学の発達で、天体観測も殆どコンピュータ制御による自動観測になってきたようである。それでも新星の発見にタッチの差が出るのは、我々素人には計り知れないことであるが、使っているソフトの性能に若干差があるのかも知れない。いや正式に申し出るタイミングで差が出るのか、よく分からない。

  バブル華やかなりし頃、ゴルフ場の電話予約をするとき、毎分何回電話を掛けられるかで、予約が出来るかどうかが決まったことを思い出す。回転式ダイヤルでは勝負にならず、まだ出たばかりの押しボタンダイヤルの電話機を使い、短縮ダイヤルに予約番号を登録し、ワンタッチのボタンを毎分何回押すかで予約の勝負を決めたことが思い出される。

  天体の饗宴の話が、彗星の発見時刻のタッチの差、ゴルフ場の予約競争などと、次元の低い電話予約の話で終わるのは何とも世知辛い話であるが、娑婆が有っての天体の饗宴の有り難みである。