八ヶ岳は火山の噴火によって出来た山である。しかし、あっちこちで噴火して、互いに埋め合っているので、爆裂口がパックリと大きな口を開けているのは硫黄岳だけである。北八の天狗岳周辺や大岳周辺は真っ黒い溶岩がゴロゴロしていて噴火口がはっきりしない。
八ヶ岳連峰の北の外れにある蓼科山は綺麗な独立峰で、噴火口ははっきりしているが、大きな溶岩で平らに埋まっている。
麦草峠の国道299号のすぐ北側に小さな”茶水の池”というとりとめもない池がある。雨池へ行くときには、この池の中に不規則に点在する石を、飛び石代わりに渡って行く(最近木道が出来た)。この池の左側に、この辺りの見取り図が立てられている。何となく見てみると、茶水の池の先に水色に塗られた小さな池が描かれていて、消えそうな字で地獄谷と書かれている。五万分の一の地図を広げてみると、等高線の小さな輪があるだけで、辺りと同じ茶色に塗られていて、側に地獄谷 と書かれている。
この近くに住み始めて5年以上経つが、この谷の存在に気がつかなかった。
名前がどぎついので少し気になり、麦草ヒュッテの人に尋ねると池ではなく旧噴火口だという。そんなものがあったのかと早速行ってみることにした。
北八独特の苔むした岩と木の根を縫うように雨池に向かうなだらかな道を15分ぐらい歩くと、笹が繁茂している明るい粗林に出る。そこに普通なら見過ごしてしまうような左に折れる細い道がある。その道とは反対側に、昔は道標だったのか腐った細い棒が一本立っている。そこを左に曲がって、更に5分ほど行くと、鬱蒼と茂る森の中に、遥か昔の名残を示す噴火口が忽然と現れる。
直径5,60メートルの擂り鉢状の窪地である。深さは30メートルも有るだろうか、窪地には苔で覆われ、2~3メートル巨岩が重なり、岩の間が深い隙間になっている。北側の面は、日が当たるためか、乾いた岩肌がそのまま出ているが、上に行くに従って、針葉樹で埋まり、そのまま周りの森に溶け込むように広がっている。南面と東西の面は、底の方から、苔むした岩に続いて低木が蒲団のように厚ぼったく生い茂り、上の方の大きな森に続いている。真上はぽっかりと抜け、青い空が丸く広がっている。
一ヶ所だけ人が降りて行けるルートがある。すり鉢の壁の途中まで何故か直径10センチ程の細い木が沢山生えている。その木にすがりながら降りていくと、真夏でもひんやりとした冷気を感ずる。
7月の暑い日でも南側の基底部の大岩の陰には、雪が残っている。その厚さは良く分からない。多分下の方まで万年雪になっているのかも知れない。人が居ないためか少し不気味な感じもする。すり鉢の底から上を見上げると、深い谷底に閉じ込められたような錯覚に囚われる。
箱庭のような規模の噴火口であるが、深い森と静寂さとが相まって、何となく存在感がある。
珍しい場所なので、その後も山小屋を訪れる人を案内して来る。9月のある日、山や自然が好きな息子夫婦が来たので、連れていった。空気はひんやりしていたが、残念ながら氷はもう残っていなかった。代わりにもっと素晴らしいものがあった。
中年の女性が二人、我々の後からやって来て地獄谷の中に降りてきた。聞くともなく二人の会話を聞いていると、「××苔があるのよね」と言って南東面の岩の方に行き、大きな岩の間を覗いて「ほらね」と言った。我々も覗いてみた。間違いなく××苔だった。しかも可成り広い面で生育している。周りを探してみると、何カ所にもあった。
雪はなかったが、地獄谷に新たな価値を発見してちょっぴり満足であった。
此処は知る人ぞ知る秘密の場所なのである。此処へ来る山道の曲がり角に道標を建ててない理由が分かった。
古代の庭から再びタイムスリップして明るい雨池への道に戻ると、笹藪の平坦な地形をいつもの日射しが照らし、地獄谷へ行ってきたことを忘れさせる。