★51章 猟犬に襲われる (1999.3)

★猟犬に襲われる (1999.3)

 ある寒い冬の朝、一人で別荘地内を散歩していた。一本の道のドン詰まりを折り返し、緩やかな坂道を下って来た時のことである。突然道の右下の別荘から、私の体に近い大きさの猟犬、ポインターが、道に上がってくるなり私に向かって吠え掛かってきた。一瞬、「はっ」と、身の毛がよだった。毛並みから見て明らかに飼い犬である。
 キルティングの防寒服を着てフードを被り、裏側に毛のある厚い手袋をして、ややごついチロリアンシューズを履いていたので、犬は不審に思ったのか、挑戦的な面構えをして近づいてきた。

 回りに人気はない。五メートルまで近づいてきて、今にも襲いかかる構えで吠えたてる。武器は、全く持っていない。私は咄嗟に、素手で戦う覚悟を決めた。

 正面小学校の柔道の時間に習った自然本体に構えた。戦う姿勢を示すため、一歩前に出た。犬の目を睨み据え、攻撃を待った。犬は猟犬であるから必ず飛びかかってくる。その間にも犬は怯まず腰を屈めてじわじわ近づいてくる。三メートルまで近づいてきた。飛びかかってきたらビブラムソールのチロリアンで顎を一撃しようと身構え、右足に全神経を集中した。
 その時、ふと、靴紐をそれほどきつく締めていない事に気が付いた。瞬間、もしかしたら最初の一撃目で靴が脱げるかも知れないと言う思いが横切った。絶対外せない。どっちが最初に致命的な一撃を加えるかが勝負である。もし、しくじったら、どんな形になっても喉を押さえ、目玉を潰してやるぞと心に決めた。

 その間二秒も有ったろうか、低い体勢で体をぶるぶる振るわせながら、じわじわ二メートルに近づいてきた。飛びかかってこようとする瞬間、口笛が聞こえた。飼い主が只ならぬ犬の吠え方に何かあったのかと確認しに来て、人に向かっているのを見たのか、呼び戻したのである。犬は戦意を解き、きびすを返して戻って行った。飼い主は卑怯にも出てこなかった。その瞬間、飼い主に対する言い様のない憎悪感が体を駆け抜けた。

 飼い主は、ほっかむりを決め込み、最後まで現れなかった。「このやろう」と言う思いは今でも消えていない。しかしその時、何故かその家に怒鳴り込まなかった。
 実際に犬と格闘したらどうなっていたか分からない。
大声を出していたら事態はもう少し変わっていたかも知れないが、その時は向かい合うことに全神経を集中していた。

 その後何年も経つが、未だにその家の人間に合うチャンスはない。しかし、そこを通る時は何時でも小型の鉈を持って歩いた。残念ながら似たような二軒の家のどっちだったか思い出せない。それだけ興奮していたのだろう。

 帰って何日か後、管理人にこの事を話した。管理人は何の感動もない素振りで私の話を聞いていた。地方自治体の管理人は深入りしたくないのだろう。しかし、そんな顔はしていたが、何処の家か知っているらしかった。

 これは、もう何年も前の話である。「護身用のナイフを買わなければならないな」と思いながら未だに買っていない。

★52章 ナイフ (1999.11)

★ナイフ (1999.11)
 山小屋に行くようになって、近所の山々を徘徊すると、何となく山を荒らす藤の蔓や茨を退治することが多い。また庭に生えてくる藤の芽や茨の芽を根本から切ったり、茂りすぎた灌木を整枝したりするために、選定鋏、片手鋸、鉈(三種の神器と呼んでいる)を腰に吊り提げて歩くことが多い。また小分けされて売っている各種部品の開封、袋物の開封にはポケットに何時も入っている小型カッターが便利である。
  しかし腰に吊している三種の神器は、がさばるし重い。目的もなくただ歩き回るときには大袈裟でもある。また鉈や鋸の使用頻度はそれほど多くない。やはり選定鋏とカッターの使用頻度が最も高い。しかし剪定鋏だけを持ち歩くには、鋭い先端が危険である。そのためポケットに入る先端の丸まった小型の選定鋏を買って、最近では、カッターとそれだけを持ち歩いている。 以前、放し飼いにされた猟犬に襲われたことを書いた。また最近は野犬化した捨て犬が横行していると聞く。猪や猿や蛇ぐらいは出てきても不思議ではない。 少し山を下りたところに、マムシに注意の標識が立てられている。
 都会でも烏に襲われる例もある位である。だから山では最低限の護身用の武器が必要であると感じていた。「手頃なナイフが有れば良いな」と思いながら数年が経過してしまった。日本だけでなく外国へ行ったときにも、この種の店に立ち寄って探していたが、自分の用途に合った、愛着の持てそうなものには、なかなか行き当たらなかった。   ある日、秋田に居る道具好きの息子が、「”またぎ”が使うナイフを注文するので、親父も頼まないか」と言う。一寸心が動いたが、どんなものが出来るかよく分からなかったので、遠慮していた。昨年の夏、息子の所を訪ねたとき、出来上がったナイフを見せてもらった。それは本当に”またぎ”が使うもので、荒々しい出来で、刃渡りは20cm、幅も4cm位有り、刃と柄が一体に鍛造され、柄は棒が挿せるように筒状になっている。山で、もし熊に遭遇したら、熊に向かって棒の付いたナイフを突き刺し、ナイフを熊の体に残して逃げるのだという。素朴で如何にも切れそうであるが、私の要求とは少し違っていた。  

 つい最近、渋谷の東急ハンズに寄ってみた。何百種も並んでいるナイフの中に、「おや」と思うものが有った。しばらく他のナイフや山刀などと比べながら眺めていた。大きさと形状が好み通りであり、手打ちの鋼の肌が美しい。柄と鞘がチーク材で作られ、断面が僅かに太鼓型に膨らんだ鞘が魅力的であった。   ”鈴木寛さん”という人の作品である。ナイフの造りについては、能書きがなかったので、店員に電話で聞いて貰った。1mmほどの鋼の両側からステンレス鋼で包むようにして鍛えられているとのことであった。鋼とステンレスの重ね目は不規則であるが、微かに波打って見える。刀の刃に近く、両面が曲面で研がれている。又刃の付け根の柄には、打ち跡のある鍛造のリングが填められ、柄の強度を増すと同時に、洗練され過ぎたナイフに野趣を与えている。  

 チークの鞘の要所要所には、点のようにステンレス製の小さな四角い頭の鋲が打ち込まれ、デザインにアクセントを与えている。更に鞘の周りを、ぶ厚い皮で包み、その合わせ目が1cmほど空いていて、革ひもで鞘に密着するように編み上げられている。皮の先はベルト通しになっている。仕上げも実に丁寧で、且つ機能的である。刃渡りは18cm、最大幅3.5cm、厚み5mmでバランスも良い。刀の鯉口に相当する金具も、5mm厚の真鍮の板から複雑な曲線で切り出されたもので、重厚であり、これを身に着けて崖を這い上がっても抜けない構造になっている。しかし、使うときには簡単に親指で鯉口が切れる。柄の形はやや細身で、緩やかな曲線をなし、端の握りの形状も機能的である。これを作った人は、鍛冶屋だけでなく、工芸にもかなり造詣が深いように見える。  

 先端が「ツン」と鋭く尖り、刃渡りが適当であり、重さも小型の鉈程度で、振ったときのバランスもよい。山で常時携帯すれば、簡単な調理、万が一の中規模の動物の襲来にも耐えられる。当に私の希望通りであった。

 限定二本と記されていた。倉庫から持ってきて貰ったもう一本と併せて手にとって比べて見ると、手打ちであるため、微妙な違いがある。二本の中から鯉口に信頼感のある方を選んだ。

 研ぎは中砥を掛けたままで、十分な切れ味が出ていないように見えるので山小屋でじっくり研いで見るつもりである。

 この種の作品は気に入ることが大切で、その後で買えるかどうかを決めることになる。幸い出来具合の割には頃合いの値段で35,000円であった。これが高いかどうかは、欲しいと思う心とのバランスである。
  実際には、作者のネームバリューを除いて、同じものを何本作ったか分からないが、デザインに何日掛かったのか、鉄を鍛えるのに何日掛かったのか、柄と鞘を作るのに何日掛かったのか、設備費の消却は、流通の費用は、と考えると、申し訳ないような値段だとも言える。

 家に帰ってゆっくり眺めると、ナイフ自身も鯉口も柄も鞘も見れば見るほど精巧に出来ている。芸術品とまでは行かないが、それに近い味わいがある。これを身に着けて歩いたときの充実感を考えると、「久しぶりに良い買い物をしたなあ」と思った。

 しかしその後、刀よりももっと丸みを持って研がれた刃先は、丈夫であるが、どんなに良く研いでも、片面研ぎとは違って切れ味が悪く、物を削ったり、料理をしたり、一寸した鉈代わりには向かない事が分かった。飽くまで突きを意識した護身用なのである。

 何時かナイフや鉈の代わりに使えるように両面をやや薄く鋭角に研いでみる積もりである。 

53章 スリップ事故

 
★スリップ事故 (99.12) 

 1999年12月10日金曜日、三週間ぶりに、山小屋に向かった。この頃から冬らしい冬が始まる。
 テレビ、ラジオは寒波の襲来を伝えていた。気温は下がったが、佐久地方では積雪は全く無く、乾いた天気が続いていた。
 何となく今日は関越道廻りで行くことにした。関越道回りだと、中央道回りより10分程時間が増える。でも目先を変えるため、時に関越道を利用する。

 佐久インターを降りても、周りには雪のかけらもなく、道路はパサパサに乾いていた。141号を南下し、八千穂から山小屋のある299号に入った。
 少し安心し、人気のなくなった部落沿の軽い坂道を気持ちよく登り、曲がりくねった畑の中の舗装道路に入った。冬になると雪が残っていて危険な場所にも、今回は全く雪が無く、冬枯れの景色が続いていた。後3~4キロで小屋に着く筈であった。

 軽い登り坂を右に緩やかに曲り終わった直後、突然車体全体が左に僅かに「スーッ」と流れた。慌てて左にカウンターハンドルを切る。途端に右後輪が出てきた。すぐに右にカウンターを切る。右に曲がり始める。再度左カウンター、右カウンター、を切るが、うねりはどんどん大きくなり、とうとう運転不能になって、進行方向右手のガードレールに真っ正面からぶつかってしまった。
 しかし、車の勢いは依然として登り方向にあったため、ぶつかった車の先端を軸にして、右回転をしながら、今度は左後部バンパーをガードレールにぶつけた。 ここで進行方向への速度は無くなったが、回転の勢いは止まらず、更に180度回転して、登り方向に頭を向けて、左の側溝に滑り込んで、「ガツン」と止まった。

 一瞬の出来事であったが、後で頭の中でなぞってみると、10秒ほどの足掻きであった。途中、ガードレールに向かってから直撃するまでの一秒間は、ガードレールとその背景が急拡大して迫ってくるが、どうにもならない一瞬であった。

 空身で木から落ちたり崖から落ちたりするときは、自分の体を丸めるとか、力を抜くとかするが、入れ物ごと落ちたりぶつかったりするときは、待つ以外全く為す術がないのである。それだけに、ぶつかるまでの行程がズームアップされて、そのまま見えてしまう。きっと飛行機が地面に落ちる瞬間も同じ感覚になるだろうと思った。

 幸い体には何の損傷もない。すぐ車を降りようと道路の上に足を載せると、ビブラムソールのチロリアンシューズが、まともに歩けないほど氷で滑る。車に伝い歩きしながら、車の前後の損傷具合を確認した。
 左前の車輪を溝に落とし、前面のバンパーはガードレールと接触した跡が生々しく端から端まで真っ白に染まっている。でも目立った破損はない。ナンバープレートの縁が僅かにめくれ上がり、そのすぐ横のバンバーが、5cm四方削り取られている。ライトは全て灯いている。
 後ろに回って見た。後ろのバンバーの左先端部がクシャッと握りつぶされたように潰れている。側溝は幅50cm、深さ50cm程でほんの少し水が流れている。そこに後輪が落ち、微かに擦れるような音がしている。後輪のアームが側溝の縁に乗っていて、車輪は宙に浮いてゆっくり回っている。気が付くとギヤが入りっぱなしであった。運転席に戻ってギヤをパーキングに入れると、擦れる音は止まった。

 明かりを取るため、エンジンもライトも切らなかった。何とか道路に戻す方法はないかと考えたが、一人ではどうにもならないことが分かった。

 里まで5kmを歩いて助けを求めに行くか、車の来るのを待つか思案していた。その時は、やはり動転していたのか、携帯で110番することに気が付かなかった。また道路は一面凍っているのに、寒さを全く感じなかった。もっとも、外に出るとき防寒コートを着て出ていたが。

 この道路は、冬は15キロ先で閉鎖になっているため、一般車の通行はない。僅かに別荘関係者しか通らない道である。それも夜11時である。それでも万が一、車が来たときに引き上げて貰おうと、ワイヤーを出して用意しておいた。しかし車の来る気配は無い。

 何となくどうしようかと本気で心配し始めたとき、下の方からライトが近づいてくるのが見えた。懐中電灯を振って止まって貰う。中型の四駆である。「すみません。引っ張ってくれませんか」と、唐突に頼んでいた。彼は「ワイヤーありますか」と言う。「あります」と答える。中年の夫婦であった。横を擦り抜けて前の方に出るとき、スタッドレスタイヤを着けたその四駆もスリップした。私の車の前方で止め、降りてきて様子を見てくれた。

 「心細かったでしょう」と声を掛けてくれた。「いや、今やったところでしたので」と、せっかくの心使いに水を注すような言葉が出てしまった。やはり慌てていたのである。「この氷の状態で引っ張れるかな」と言いながら、右前方の僅かに氷の無い部分に車を戻してきた。
 クレモナロープを二本にして、自分の車の右前方と相手の左後方にワイヤーを結びつけた。「エンジン掛かりますか」と聞く。「ええ」と答える。既に掛かっている。登り方向に引っ張るので、かなり重い筈である。出来るだけ右前方に引っ張れば、後輪が側溝の縁に掛かるので、せり上がる力が使える。なるべく右に引いて貰った。
 彼はゆっくり動かし始めた。四駆と言えども氷上では当然スリップする。しかし氷が薄いので、回していれば、溶けて舗装が現れるので少しずつ動く。しかしワイヤーが伸びるだけで、私の車は動かない。一瞬「切れるかな」と思った時、車体が「ぐらっ」と動き、上手く後輪が側溝の縁に掛かったらしい。私もすかさず噴かす。「ググッ」とせり上がって、路上に出られた。なお、二三メートル引いて貰う。「助かった」。

 この時始めて後ろを振り返ると、3、40メートルに渡って、道路が一面に真っ黒に凍っている。道は殆ど直線である。その上に、私の車の轍が、始め直線から左右に三回ほどうねって振幅を広げながらガードレールに直角になるまで続いていた。
 ここは、左の側溝が、上の方で塵か何かで詰まり、道路に水が溢れ、一面に流れて凍っていたのである。偶々そこは雪が降ると、解けずに、何時までも残っている最悪の場所であった。

 私の車はスタッドレスを履いていたが、ABSは付いていない。ブレーキは掛けたかどうか覚えていないが、カウンターハンドルが効いていたところを見ると、ブレーキは踏んでいなかったよに思う。速度も殆ど落ちていなかった。今考えると、砂利道を高速で走るときの横滑りを修正する感じでカウンターハンドルを切っていたように思う。氷上での経験がなかったので、カウンターを強く切りすぎて戻しが遅かったため、車が右左にうねったのである。咄嗟のこととはいえ、10秒もあったのにポンピングブレーキにも気が回らなかった。
 ガードレールに直角にぶつかったが、車の速度は道なりの方向に出ていたため、結果的に激突ではなかった。それが証拠に、バンバーには、全面が擦れたようにガードレールの塗料が着いていたが、正面のランプ類に損傷はなく、全て灯いていた。

 四駆の主は、別荘の山本さんと言う方であった。「また凍ったところがあると危ないので、前を走って下さい」と言う。その通りにさせて貰ってゆっくり走った。何となく左の後輪が擦れるような音がするが、何とか走れた。標高1200mの標識のところで、私は左折するが、山本さんはそれより少し上の方の別荘の人であった。
 「大丈夫そうなので、後で様子を見てみます。本当に有り難うございました。お陰様で助かりました」と、お礼を言って別れた。件の場所以外の道路には水気は全くなかった。

 小屋に着いて、夜も遅かったので、その夜は寝た。今日は家内がパソコン教室があり、一緒に来られなかったので、怖い思いをさせずにすんだ。
 
 翌朝、少し走らせてみた。やはり擦れる音がする。カバーが擦れている音とは違う。加速もする。ブレーキも効く。小屋の前でジャッキアップして後輪を浮かせると、車輪ががたつく。車輪の鉄のリムの縁がひどく凹んでいたが、タイヤには損傷がなかった。ホイールカバーも飛んでしまって無かった。
 タイヤを外してみると、ブレーキの内側で車輪を支えている最も重要な部品である鋳物のハブが一ヶ所折れていた。「これは駄目だ。東京まではとても帰れない」と思った。
 側溝に滑り込んだときの勢いで車輪のリムを側溝に強く打ち付けて止まったが、その時、車軸を支えているハブが折れたのである。

 何時もお世話になる里のガソリンスタンドに電話して、近くに修理屋が無いかを聞いた。幸い山を下りたすぐの所に有る修理工場を教えてくれた。それは最近新築した立派な建物で、「あれは何だろう。パチンコ屋でもないし」と言っていた建物であった。土曜日であったが、早速電話をして、「かくかくしかじかですが見てくれるでしょうか」と聞いた。「動くのですか。良いですよ、気を付けてきて下さいね」と言われ、ほっとした。

 行くと、奥さんがコーヒーを入れてくれた。主も気さくに対応してくれて、すぐ見てくれた。さて部品があるかどうかである。あちこちに電話で聞いてくれた。土曜日なので、何処も休みだったり、部品がなかったりで、やきもきしていたが、ある解体屋にチェイサーが有ると言う。マークIIと、部品が共通だから、今から取りに行ってくれると言う。しかし遠いから一度家に帰って待っていた方がよいと、別の車で小屋まで送ってくれた。

 夜八時頃になって治ったことを確認した。「遅いので明日届けます」という。翌日奥さんと二人で、二台で来てくれた。タイヤのリムの凹みも直してくれてあった。今日東京に帰るので、バンパーは東京で修理することにした。

 解体屋の車の部品を外し、付け替えるのは、相当の工数であることは、素人目にもよく分かった。費用を聞くと、思ったよりずっと安い4万なにがしかであった。正味7時間掛かっている筈である。

 お陰で無事東京に帰ってきた。スリップした件の場所は、あらかた乾いていた。
溝から溢れた水が凍ったようでもあり、前々日辺りに降った雨が凍たままになっていたようでもあったが、原因は不明のままである。ホイールキャップは側溝の中にあったが、使いものにならなかった。
 ガードレールを見ると、正面衝突をしたところは、幸いにも柱と柱の真ん中であった。ガードレールが10センチ程撓み、衝撃を吸収してくれていた。

 その後、バンパーの凹みの打ち出しと塗装を自分でやり、何とか見場を回復させた。しかし、ブレーキを掛けると「シュー、シュー」と周期的な音がする。自分でジャッキアップして回転させてみると、車軸が僅かに曲がっていて、タイヤ周辺で5mm程偏心回転になっていた。ブレーキを掛けると、ブレーキ機構のキャリパーが僅かに左右に揺れ、音を出していることが分かった。再度八千穂の修理工場に持ち込んで、車軸の交換をしてもらったが、ブレーキを掛けたときの音は取れなかった。どうやらブレーキディスクが偏芯しているらしい。東京から電話で、ディスクを取り寄せてもらい、次に行ったときに、取り替えてもらった。今度はすっかり直った。

 その後、ライトが少し下向きになっていることに気がついた。ライトはボディーに取り付けられてはいるが、一部バンパーにも止められているため、衝突でバンパーが内部に押し込まれたときに、ライトの留め金が折れ曲がってしまっていたのである。これも水準器を使って調整してもらった。

 私は自分の車には保険を掛けない主義である。だから修理費は全て自前である。しかし修理費は、非常に安く、全部で10万円程であった。何とか全て元に戻った。
 こんな大きな自損事故は初めてであった。この種の事故は、殆ど予測できないので、寒冷地では、四駆とABSは必須であると、改めて思い知らされた

★54章 山のカクテル

 

 「山小屋にカクテルは似合わないさ」、何と言っても「山小屋には猿酒だよ」と言われれば、「そりゃそうだよな」と納得せざるを得ない。しかし、山に入ったからといって、猿酒に巡り会うチャンスは滅多に無い。

 猿と言えば、東京でも五日市から奥多摩湖へ抜ける風張峠辺りにはよく野猿が現れる。人が餌をやるためか、車の通る道端に出てきて待っていることがある。

 何年か前、北アルプスの常念岳に登ったとき、麓の山道で猿の一群に出会った。今、通り過ぎたばかりの森で「がさがさ」大きな音がする。振り返ると、やや大ぶりな猿の一団が、二三メートルの高さの枝を渡り歩いている。しばらくすると、何処とも無く去っていった。

 また、ある秋の夕方、白骨温泉の森の奥で、黒い大きな動物が枝音を立てて落葉松の大木から降りてくるのが見えた。一瞬「熊かな!」と思ったが、直ぐ見えなくなった。何となく危険を感じたので、温泉街に戻って土地の人に知らせると、「近くに大きな猿が一匹住んでいて、時々出て来るんですよ」と言った。

 このように、猿には時々お目に掛かるが、猿酒を味わうチャンスに恵まれたことはない。尤も猿だけが偶然酒を造るわけではなく、窪んだ木の股に山梨などが熟れて落ち、自然に出来ることもあろうし、猿以外の動物が蓄えておいたものが醗酵して出来ることもあるだろう。だから我々にも当然猿酒ならぬ山のリキュールが造れるはずである。

 時々、これまでの経験を元に新しい混合比を試みてみるが、なかなか旨いものは作れない。長い歴史の中で、人の口に合う組み合わせは、殆ど試みられているようである。それでも毎年新しいレシピが出るところを見ると、奥の深さを感じる。
  此処八千穂で独自のリキュールを造れば、それを使った新しいカクテルが出来るかも知れないので楽しみにしている。

 私は、山小屋の囲炉裏の周りで作ることもある。火の傍で呑む冷たい酒は何とも旨い。カクテルは外気で暖まる前に二三口で呑むものだが、強いこともあって、ゆっくり呑む人も多い。夕暮れに森を見ながらチビリチビリと飲むのもまた一興である。女性は悪酔いしないように一杯程度にしておきたい。種類を楽しみたければ、一口程度を注いで貰って味わうと良い。
 マルガリータのように、グラスの縁に塩をまぶす、所謂スノースタイルは、塩をなめなめ、ゆっくり呑むのが良い。日本の升酒に似ていて面白い。

 佐久平にも、東京と同じように、酒の安売りスーパーが何軒もあり、手頃な値段でベースの蒸留酒やリキュールが何でも揃う。しかし、家内がよく飲むノンアルコールビールは売っていないので東京から持ってくる。

 ノンアルコールビールは、アルコール度が0.9%以下なので、零下10度以下になる冬は、室内でも凍って膨らみ、時に吹き出してしまうことがある。だから、寒い佐久平では、貯蔵が面倒なので売らないのかも知れない。そんな心配があるときは、少量なら冷蔵庫に入れておくと良い。

 私は、山小屋の囲炉裏の周りで作ることもある。火の傍で呑む冷たい酒は何とも旨い。カクテルは外気で暖まる前に二三口で呑むものだが、強いこともあって、ゆっくり呑む人も多い。夕暮れに森を見ながらチビリチビリと飲むのもまた一興である。女性は悪酔いしないように一杯程度にしておきたい。種類を楽しみたければ、一口程度を注いで貰って味わうと良い。
 マルガリータのように、グラスの縁に塩をまぶす、所謂スノースタイルは、塩をなめなめ、ゆっくり呑むのが良い。日本の升酒に似ていて面白い。

 佐久平にも、東京と同じように、酒の安売りスーパーが何軒もあり、手頃な値段でベースの蒸留酒やリキュールが何でも揃う。しかし、家内がよく飲むノンアルコールビールは売っていないので東京から持ってくる。

 ノンアルコールビールは、アルコール度が0.9%以下なので、零下10度以下になる冬は、室内でも凍って膨らみ、時に吹き出してしまうことがある。だから、寒い佐久平では、貯蔵が面倒なので売らないのかも知れない。そんな心配があるときは、少量なら冷蔵庫に入れておくと良い。

 

★55章 あとがき (1999.1) 2003.1.17

 都会は都会で楽しいことも多い。でも、ストレスに満ちあふれた都会を離れて山に来ると、何とも言えずほっとする。
 年に30数回も来るが、八年経った今では、もっと頻繁に来たいと思うようになっている。初めはそんなことになろうとは思いもよらなかった。だから他人から見ると、「高い交通費を払って一体何の騒ぎだろう」と思うのも無理はない。
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 つい先日も知人から「そんなに頻繁に山小屋へ行って何するんだい」と聞かれた。「色々やることがあるんだ」と言っても分からないのは当然である。毎朝長靴を履いて、山を見ながら庭を歩き回ったり、部屋に飾る野の花を摘み取ってきたり、草刈りをやったり、隣近所の森の具合を眺めたりする。
  秋には栗の実を拾ったり、茸を探したり、山葡萄や木苺の熟し具合を見たりして、つい朝食が遅くなる。

 昼は昼で下手な木工をやったり、山小屋の舞台装置を作るための土木工事に精を出す。大袈裟に言うと、山での土木工事が好きだから山小屋に来るのである。数回に一度は家内と軽登山を楽しみ、冬になれば毎週スキーに出かける。連休になると囲炉裏を囲んで隣近所の人と鍋物やバーベキューをやる。だから思ったよりやることが多い。山の舞台装置が揃って来るにつれ、私は工事の合間に、家内はパソコンの合間に、囲炉裏で食事を作ったり、お茶を飲んだりする事が多くなった。
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 一寸したきっかけから始まった山小屋暮らしだが、知らない中にはまり込んでいた。
 時々「これが毎日続いたらどうだろうか」と考えることがあるが、それはやってみなければ分からない。でも、八年も来たい気持ちが続いたのだから、一週間に一度なら当分続くだろう。いずれにしても、なるようになればよいと思っている。

 山小屋を建てたときから山のメモを書くようになった。本書はそのメモと記憶を頼りに思い起こすままを書いた130章余りの文章の中から、54章を選んで纏めたものである。  山小屋生活に関わる工作や土木工事の話がやや多くなってしまったが、細かい技術の話は出来るだけ避け、作業の楽しい雰囲気を伝えるように心がけた。 私だけでなく、男は誰でも、アウトドアへの郷愁があるように思う。本書は、そんな方々と自然を共有したり、これから山小屋を建てられる方や既に持っておられる方々が、山小屋生活をより楽しむための一助になれば幸いである。
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 「山小屋が呼んでいる」を記すに際し、大変勝手ながら、別荘の方々、村の方々、友人等のお名前を断り無しに使わせていただいた。どうかお許し戴きたい。
最後に下町生まれで都会育ちの家内が、何となく山登りをしたり、スキーをしたり、森を眺めたりする雰囲気が好きになって行く事に感謝している。それが我々の原点だからである。