山荘を基地にして高山植物の豊富な山々をよく徘徊する。小諸から北へ走って高峰高原の車坂峠まで行くと、そこと湯ノ丸高原の地蔵峠を結ぶ未舗装の湯ノ丸林道がある。その中間に標高2040メートルの三方ヶ峰と言う山がある。その辺り一帯は池ノ平と呼ばれ、起伏が比較的少なく、春から夏に掛けて一面高山植物が自生し、一大お花畑となる。特に三方ヶ峰には普通2500メートル以下では見られない高山植物の女王”駒草”が群生している。花の種類も多く、池の平だけの植物図鑑が出版されているほどである。池の平一帯をゆっくり散策すると三時間ぐらい掛かり、高山植物の好きな人には一寸したハイキングのメッカである。我々も良く出かける。

 ある夏の日、我が山小屋に遊びに来てくれた会社の仲間をつれて花を見に行った。その日は曇りで、途中から小雨が降り出し、所々の木の下で雨宿りをしながら、それでも何とか一回りできて満足した気分で帰途についた。 途中、車を運転していると脇腹が何となく痛痒い。「虫でも入って喰われたのかな」と服の上から二三度掻いていたように記憶しているが、そのうち忘れてしまった。

  その日はみんなで東京に帰る日であったので、山小屋に戻って荷物を積み、再び車を運転して帰途についた。運転している中にまた痛痒くなった。今度は少し痛みが強いが、車を止めて調べてみるほどではないので、服の上からぼりぼりと掻きながら東京に着いた。

  少し気になるのでシャツを脱いで見ると、7~8ミリぐらいの黒い虫が脇腹に頭を突っ込んで尻尾と足を僅かに出している。「これは何だ」と初めてびっくりしてピンセットで取り出そうとしたが、しっかりと食い込んでいて、無理して取ってもちょんぎれてしまうだけだと分かった。

  夜も遅かったが、急に心配になり、杏林病院の救急に駆け込んだ。あまり待たされずに当直医が診てくれた。「ああ、これはマダニですよ」と、こともなげに言った。「この虫はまだ生きているのですか」と聞くと、「ええ、生きています。これは私の専門分野です。この虫は悪い菌を媒介することがあるので予防注射をしておきましょう」と言って注射をしてくれた。「何日か経って変化がなければ大丈夫です」と言う。

  直ぐ取ってくれるのかと思ったら、「この虫は引っ張っても取れないのです」「切開して取るしかないのです」と言う。「明日昼間皮膚科へ行って下さい」と言われて帰ってきた。

  その先生の話によると、マダニは山の笹藪や野原によく居る虫で、獣の体にとりついて潜り込み、そこで卵を生んで幼虫が孵ると体の中の養分で育ち、適当な大きさになると玉状の固まりになって自然に外に転がり出るのだそうである。どうやらマダニは私の腹を卵の産み場所にしたらしい。

  池の平で雨宿りのために木の下に何回も入ったので、上から落ちてきて襟から入ったらしい。それにしても通常はもっと痛いそうであるが、たまたま神経の鈍い脂肪の多い部分に食い込んだのかも知れない。

  翌日再び杏林病院を訪れ、万が一、上手く行かなくても文句を言わないと言う同意書にサインをさせられて、長さ2センチ、深さ1.5センチの船底型の肉を切り取られた。見ていたら3針縫った。60年以上生きてきたが、初めての手術の経験となった。

  後に別件で関東逓信病院の皮膚科に行った折り、壁を見ると、人に悪さをする虫が数種類一覧表になって貼られていた。その最後にマダニの写真が載っていた。どうもよく有ることらしい。

  しかし私は山好きの友人が沢山居るが、マダニのことは一度も聞いたことがなかった。ある日山屋の友人に詳しく聞いてみると、山岳部の山行では、「時々やられるんだよ」とのことであった。特に笹藪でやられるそうである。しかし、私のようにちゃんと食い込むまで気が付かないことは希で、大抵は入り込む前に気が付いて、取ってしまうので、医者に掛かる者が出たことはなかったそうである。だから我々に取り立てて話してくれなかったのであった。 マダニが多く居る山は、決まっていて、そこへ行くと必ず誰かがやられたそうである。

  ある日再び池の平らへ出かけた折、知り合った高山植物の監視員をやっているボランティアに聞いたら、「よく有るんですよ。特に笹藪に多くいるのです。だから我々は笹藪や草むらを歩いた直後には必ず見るか払うかするのです」と言っていた。

  それ以後藪漕ぎの後には必ず見たり払ったりするようにしている。山小屋生活を初めて、またもや新しい体験をしてしまった。

  しかし、その後、我が山小屋の周りにもマダニが沢山居ることが分かった。 我が家の庭にはそれほど無いが、隣の馬場さんの山小屋には沢山笹が生えている。馬場さん夫婦がよく犬をつれてくるが、ある日東京に帰ってから、犬の身体にマダニが何匹も着いているのに気が付いたそうである。更に、猫の瞼の上にも着いていたと言う。犬の方は時々放し飼いにしているが、猫は放したことはない

  未だ医者につれていっていないと言うので、私の経験を伝えて、早くつれて行くように薦めた。

  それにしても、こんなに身近にマダニが沢山居るとは十年近く住んでいたのについぞ知らなかった。当に知らぬが仏である。