★48章 スキーシーズン(2000.1./2003.3)
八千穂の別荘地から車で20分の所に村営スキー場がある。
八ヶ岳連峰の東側は積雪量が多くないので、人工雪が主であるが、標高1700メートル前後と高いため、雪質は非常に良い。
村営なので、このスキー場には家族が昼食持参で休める小綺麗でゆったりした無料休憩所が有る。我々は昼少し前に出かけて、午前中一時間、午後一時間ほど滑って帰る。その間、休み時間をたっぷり摂るので、この休憩所は有りがたい。
標高1800メートルのリフトの頂上からは、北に雪を被った浅間山、東に荒船山、南東に奥秩父の金峰山等が一望できる。
スキーシーズンになると、別荘地の住人に、リフトの割引シーズン券申込書が送られてくる。地代、固定資産税を納めているので、村民と同じ割引率でシーズンリフト券が買える。五十五歳以上は更に割り引きされる。
我々はシーズン中10数日行くので、行くたびにリフト券を買わなくて良いのでとても便利である。
ここに来るスキーヤーの中で、我々は何時もダントツの最年長である。五十を過ぎたと思われるスキーヤーは殆ど見掛けない。夫婦共にやる場合を除いて、歳を取ってまでは、なかなか続かないスポーツなのである。
山小屋ができて、頻繁に来るようになると、自然に家内もやるようになり、何時か二人でシーズンを待ちわびるようになっていた。
しかし、八千穂に行って二年目のシーズンだった。スキーにはまった家内がスキー学校に入ったため、私は多少疲れ気味であったが、手持ちぶさたなので、一人で少し急なゲレンデを滑っていたが、うっかりアイスバーンで転倒し、初めて骨折を経験した。MRIで見て貰うと、右足のすねの骨にひびが入り、靱帯伸張、半月版損傷であった。三、四ヶ月は松葉杖であった。
60歳にして生まれて初めての怪我であったが、凝り性もなく次のシーズンには再び滑っていた。今ではどっちの足を折ったのか自分でも勘違いするほどである。車の運転ができなかったから右足であると覚えている。まだ仕事は現役であるので、みんなに迷惑を掛けてはいけないと、大事をとり、金具の締め具合を緩くして、すぐ外れるようにして置いたが、実はこれが危険で、ちょっと重い雪や深い雪に入っただけで外れてしまい、大転倒になるのである。それからはやや強く締め、慎重に滑っている。
それ以来、家内と二人で初心者コースで滑っているが、時々少し急なコースを取る。急なコースはやはり力が入るので疲れる。また怪我をして会社の仲間に迷惑が掛かってはいけないと思うので、自重している。それでも66歳になっても滑ることが出来るのは有り難いことだと感謝している。
家内ももうすぐ還暦であるが、めっきり腕を上げてきた。少し急なコースでも、速度は遅いが、何とか安全に降りてくる。山小屋を建てた頃、殆ど素人だったことを考えると、不思議な気がする。昨年は、子供のお古のスキーと靴とストックを捨てて、新調し、今年はウェアーも新らしくなった。私が選んだウェアーがすっかり気に入って、今年はなんとしてもウェアーに負けないように綺麗に滑るのだと張り切っている。
その後、不思議なことに二人とも少しずつ上達している。2003年の今ではこのスキー場の一番急なゲレンデでも、余り迷わず降りてくるようになった。家内は?歳、私は68歳である。 先日草津の振り子沢と清水沢を何度も滑った。 そこでは、何と草津の全てのコースを滑りまくる84歳と76歳の夫婦が居た。上には上がいるものである。
★49章 スキーの思い出 (1998年)
かつてのスキー旅行では、石油ランプがブル下がった山小屋に泊まって、土間に据えられた薪ストーブを囲んで、山談義やスキー談義に花が咲いたものである。
時代と共にスキーの楽しみ方も変わってきた。昔のツアーコースにはゴンドラが掛かったり、ゲレンデになってしまった所も多い。そのため、ツアーコースが減り、シールを着けて登山したり、山から山へ渡り歩くコースが随分少なくなった。
それでも、若い山岳部の連中が、我々の若いときのように、大きな荷物やスキーを担いで山に登って行くのを見ると一寸安心する。
我々も若い頃はよくスキーツアーに行った。思い出してみると、福島県岳温泉から安達太良山へのツアー、志賀高原の横手山から草津へのツアー、蔵王のどっこ沼から地蔵岳、更にお釜へのツアー、白馬八方尾根の黒菱小屋から唐松岳第一ケルンへのツアー、天神平から谷川岳へのツアー、菅平から樹氷の見られる根子岳へのツアー、赤倉から関、燕温泉へのツアーなど、装備の不十分な時代であったが、厳しくも思い出深いツアーであった。
またこれらのツアーには、何時も良きリーダーが付いていて、夜ともなれば、ストーブを囲んで、安いウイスキーをチビリチビリやりながら、ツアーの注意、装備の話、そして数々の経験談を聞かせてくれた。彼は、初心者を連れていくので、安全のため、ツアー当日は人より3時間も早く起きて、皆の知らない中にその日のコースを全て下見して来ていた。これには吃驚した。人の面倒を見るとは、そこまでやるのだと、不言実行で教えてくれた。
2.HOMEスキー その後大学の時の友人四人でHOHM(日野、小沢、橋本、三井の頭文字)と言う名のスキークラブを作った。親戚、知人、会社の仲間などを毎年20人位連れて正月休みには必ず白馬山麓の南小谷のスキー場に出かけた。そこは今では白馬コルチナスキー場とハイカラな名前で呼ばれている。宿は農家の座敷で、初期の頃は、建物に入っていくと馬が「ぬーっ」と顔を出した。宿の人達は素朴で、皆とても良い人達であった。行き始めた頃は、まだ小さかった宿の子供達は、小学校を経て中学に行くようになると、スキーも我々よりずっと上手くなっていた。
JRの千国の駅から、スキーとリュックを担いで、雪道を一時間も掛かって宿まで歩いた。更に、ゲレンデへも宿から一時間歩かなければならなかった。一晩に一メートルも雪が積もることがあった。初心者にはシールを着けさせ、スキー場まで歩かせた事もあった。ベテランはみんなの握り飯や応急修理道具をリュックに詰めて担いだ。スキー場に着くと、先輩が雪を踏み固めて初心者用のゲレンデを作った。また交代で指導する手はずを整えた。
ゲレンデの適当なところに集合場所を作り、そこに日の丸の旗を立てて、お菓子や飲み物を置いておいた。上手い人も初心者も、そこに頻繁に立ち寄って、互いに一人にならないように配慮した。我々四人は、スキーも楽しかったが、段取りしたり、みんなの面倒を見るのが好きだったように思う。
当時のスキーは未だ機械的に弱く、時々折る者が出た。本来ツアー用品であるが、我々はスキーの先に取り付ける金具を常に持っていて、折れたスキーの先にネジで取り付け、何とか滑れるようにした。
そんな配慮をしていたせいか、15年続いたHOHMスキークラブの怪我はゼロであった。
3.スキーで落ちる
それでも、個人的に行ったスキーでは、これまでに何度も崖から落ちたり、池に落ちたりしたことがある。不思議なことに一度も大怪我はしなかった。
最初の事故は、湯沢高原で起きた。下の布場スキー場に降りる葛折の山岳コースを滑って来て、曲がり損ない、崖から落ちた。しかし、偶然二三メートル下に有った水平二股に張り出した木の上に落ちた。しかもこれまた偶然ふんわりと立ったままの姿勢で落ちたのである。もし木がなかったら、十メートル以上下の道まで落ちただろう。木の上でスキーを外し、後から来た仲間にストックで引き上げて貰った。
また蔵王で、霧の深い山岳コースを滑っていたとき、急に前方の大地が無くなった。気が付いたときは、五メートル下の雪原に叩き付けられていた。眼鏡、帽子は辺りに飛び散っていた。当時のスキーは外れなかったので、流れなかった。気が付くと手袋の親指の付け根が切れていた。手袋を脱いでみると、親指の付け根の皮が少し削り取られていた。傷はそれだけだった。
更に、妙高高原だったと思う。やはり霧の中を滑っていて、気が付いたら大地がなかった。運が悪いことに、三メートル下は氷の張った浅い池であった。しかし姿勢が乱れていなかったので、空中で下が池であることに気が付き、急遽スキー前部を揚げ、体をのけぞらせ、その場で止まっても良い姿勢を作った。案の定、氷が割れてその場で立ったままの姿勢で止まった。氷の上の雪と、氷が割れてショックが吸収されたのか、無傷であった。
まだまだある。若い頃は下手なのに、無鉄砲をしたものである。何れも運良く怪我をしなかったが、一つ間違えれば大変なことであった。
4.クロスカントリースキー
我々の若い頃の用具に比べると、現在の用具の進歩には目を見張る物がある。特に靴の進歩は著しい。紐は全て金具に替わって、締まりが良くなった。種類が豊富だから足に合ったものを選べば、フォーミング材を足に沿って流し込む必要は殆ど無い。「すね」まで入る堅い靴によってスキー捌きも良くなった。このため後傾し過ぎて尻餅をつかないで良くなった。ストックも軽くなった。だからゲレンデで転んでいる人が極端に少なくなり、怪我も減った。
今年は靴の進歩をそのまま感じる経験をした。
NHKがやっている”中高年の山歩き”と言うグループがある。そのグループが募集したクロカンスキースクール(クロスカントリーをクロカンと略していう)に入り、八ヶ岳の渋温泉で、生まれて初めてクロカンスキーを経験した。
金属エッジは無いが、スキーは軽く、歩くには全く良いのであるが、靴が編み上げの運動靴のようで、柔らかく、踝から上は頼るところがない。更に靴の先端が固定されているだけで踵は自由に上がる。
ひとたび重心が後ろに行くと、途端に尻餅をつき、重心が前に行くと、そのままつんのめる。踵が上がったまま力が横に働くと、スキーと足が別々な方向を向き、横のバランスもとれなくなる。これがスキーの原型であったことを思い知らされた。それに比べれば、今のゲレンデスキー用具の完璧な進歩には目を見張るものがある。
クロカンスキーの決定的な特徴は、細いことと登り易いように、スキーの裏の中心部に浅い鋸の歯形の模様が刻んであることである。前には滑るが後ろには引っかかるようになっている。スキーを雪面にぺったり付けると、その効果がより出る。
クロカンの曲がり方は、谷足に加重し、山側の足を引いて膝を深く曲げる独特のテレマークであるが、私は慣れていないので、パラレルで曲がったが、何とかなった。しかし深雪では通用しないであろう。
メンバーは山登りのサークルであるので、スキーなど殆どやったことのないおばさん達が多いので、家内も含めて皆七転八倒していた。
おまえは少し見所があると、先生が山スキーを貸してくれた。靴を履き替え、シールを貼って踏み跡のないゲレンデを稲妻形に登っていく。登りだけは踵が上がるようになっているので、少し重いが、快適に登れる。
昔はよくシールを着けてツアーに行ったものであるが、それ以来30年もシールを着けたことがない。シール自体も進歩していて昔のようにシールを紐で縛り付ける必要がない。単に複数回の接着剥離に耐える糊で貼り付けるだけである。下りはシールを剥がし、靴の踵が上がらないようにセットして、やおら新雪を快適にと言いたいが何とか転ばずに滑ってきた。勿論近代的靴のために重心の外れによる不安定さは無い。
翌日は先生に連れられて、近くの八方台という八ヶ岳がよく見える小高い山まで1時間程度のツアーを組んでくれた。これこそクロスカントリーで、踏み跡のない林を抜けたり、山谷を渡り歩いたりして、ほんのさわりではあったが結構楽しいスキーツアーであった。
でも、あんなに細いスキーで、新雪の野山を歩き回れば、雪の深さ分だけ潜ってしまって、とても楽しむどころではないだろう。この間は偶々良い天気で、踏み跡こそなかったが、古い雪で、固く締まっていたから歩き回ることが出来たのだ。
だから、クロカンスキーは、もう雪が余り降らなくなった春のスキーツアーか、踏み固められたコースで、アップダウンのそれほど大きくない野山を滑る所謂競技スキー用なのであろう。
★50章 老いても進歩が(2001.1)
★老いても進歩が(2001.1)
私も60の半ばを過ぎた。一般に65歳以上は老人と見なされている。シニアの仲間入りが早いのはスキーで、55歳からリフト券が割引される。60歳から公営美術館や公園の入場券が割引又は只になる。65歳から年金が支給され、電車やバスのシルバーシートの権利が何となく与えられる。70歳になるとバスの無料券を貰える資格が出来る。
尤も私立大学の教授はまだ70歳定年の所が多いし、個人タクシーの運転手は75歳になってもやっている人が居るから70歳前後は老人ではあるが、必ずしも引退の年齢ではない。
老人ホームを訪れると、75歳で既に惚けている人もいれば、102歳でしっかり話せる人もいる。実際には、”人は自分が老いたと思うときから老いる”ので、”老い”は人によって千差万別である。
面白いことに、歳を取っていくと、鍛えてもそれ以上に衰える要素と、鍛えればまだまだ伸びる要素とがある。記憶力や思い出す力は、ある程度努力で補えても明らかに減退していく。
しかし、人は事に当たり、常にこれ以上出来ないところまで鍛えてきたわけではないので、何事につけても鍛えると伸びる余地が沢山残されているものである。
歳を取った者にとって、そこが付け目である。そこに進歩の楽しみを見出すのである。時には道具の進歩を利用して仮想的な実力を伸ばすことがあっても良い。
早い話が、”60の手習い”と言って歳を取ってから始める絵画、陶芸、習字、楽器などは明らかにそれなりに進歩する。歳を取って衰える要素より初心者が基礎を身につけて伸びる要素の方がずっと優勢なのである。
スキーを例にとると、私のスキーは40年以上続けているが、つい最近までウェーデルンがちゃんと出来なかった。本気で上手くなろうとしなかったことに依っているが、山小屋に行くようになって、毎年少しずつ上手くなるのである。始めの頃、家内や友人は、「あなたのスキーは確かにパラレルだが、身体全体が右に左にうねる”山田うどん”だよ」と言う。どうもメリハリが無いらしい。自分でも確かにそうなっている事が分かる。
周りで教えている指導員のスキーを見ると、安定で且つ、腰から下だけが左右にうねるだけである。「どうすれば、そうなるのだろうか」と、よく観察してみる。始めは手の位置、重心の位置など、見掛けの格好だけを真似てみるが、どうも上手く行かない。そのうち、曲がる瞬間のテールのずらしがゆっくりで且つ大きいことに気が付く。
しかし、大きくずらすと、重心が後に残り次の回転に入れない。そこで、ずらし終わったときにエッジを立てることを覚えた(実は腰より下だけがずれると言うことは、自然にエッジが立つのである)。すると安定して次の回転に入れる。結果的に腰から下だけが左右に振れるようになった。「それで良いのよ」と素人の家内は言う。「初心者コースを滑る人の中ではかなり上手く見える」と言う。しかし、これをやや急な傾斜でやってみると、どうも上手い人とどこかが違う。自分でも時々身体よりスキーが先に行ってしまうような気がするし、エッジが不必要に流れることがある。 そこで、テールを大きくずらし、エッジを掛けた瞬間に、身体を谷に向かって投げ出すように飛び込んでみた。実際にはテールをずらし始めたときから既に身体は谷に投げ出す用意をしているのである。すると、どうだろう。スキーが先に行ってしまう感覚がなくなった。これを繰り返して見ると、家内は「上手い人と似た格好になった」と言う。これを連続して繰り返す練習をしてみた。家内は「見違えるように上手くなった」と言う。一緒に行った友人も、「凄く綺麗になった」と言ってくれた。手の動きも、いつの間にか上手い人と似てきた。こうすると、頭は殆ど動かず、腰から下だけが左右にうねり、リズミカルで安定な滑りになる。
我々の年齢では、テールジャンプ程度でもジャンプは体力的に厳しい。スキーが終わって小屋に入るとき、飛び上がって靴同士を叩き、雪を落とすことは既に出来なくなっている。
谷に向かって身体を投げ出す操作は、ジャンプではなく、谷に向かっての落差を利用して飛び降りるだけである。だから体力を必要としない。
これだけのことであるが、習うのが嫌いな私は、ここまで来るのに5~6年掛かった。
因みに最近スキー界ではウェーデルンという言葉は使われなくなった。全日本スキー連盟のバッジテストから、ウェーデルンは外されている。代わってカービングスキーによるテールをずらさないで曲がる高速滑走が取り入れられている。速度を落とすのは、スキーの趣旨に反するらしい。スキーは競技で保っていることからやむを得ないが、年寄りは年寄りらしいスキーをする必要がある。
尤も、我々のような年寄りは、スキー場では殆ど見掛けなくなった。精々孫の子守と雪景色を楽しみに来るだけである。
ここで大事なことは、人は若いときに全てのことに上達しているわけではないので、練習すれば必ず伸びる余地が残されていることである。また歳を取っても、理屈を考え、目標を持って繰り返し練習してみると進歩すると言うことである。
体力に関係なく進歩するのが面白い。勿論転んだときの怪我は、歳と共に大きくなる可能性がある。そのためにも、ウェーデルンのように速度を落とす技術が必要なのである。
また、年齢と共に疲れが早くなるので、休憩時間をたっぷり取る必要があるし、疲れ切るまでやらないことが大切である。
我々は、午前一時間滑り、休憩を一時間以上取って、午後一時間滑るペースで楽しんでいる。そうすれば、翌日の仕事に全く影響しない。
”老いても進歩が”は、何もスキーだけではない。スポーツもその他の趣味も美しくやろうという意気込みがある中は進歩するものである。
★51章 猟犬に襲われる (1999.3)
★猟犬に襲われる (1999.3) |
ある寒い冬の朝、一人で別荘地内を散歩していた。一本の道のドン詰まりを折り返し、緩やかな坂道を下って来た時のことである。突然道の右下の別荘から、私の体に近い大きさの猟犬、ポインターが、道に上がってくるなり私に向かって吠え掛かってきた。一瞬、「はっ」と、身の毛がよだった。毛並みから見て明らかに飼い犬である。
キルティングの防寒服を着てフードを被り、裏側に毛のある厚い手袋をして、ややごついチロリアンシューズを履いていたので、犬は不審に思ったのか、挑戦的な面構えをして近づいてきた。
回りに人気はない。五メートルまで近づいてきて、今にも襲いかかる構えで吠えたてる。武器は、全く持っていない。私は咄嗟に、素手で戦う覚悟を決めた。
正面小学校の柔道の時間に習った自然本体に構えた。戦う姿勢を示すため、一歩前に出た。犬の目を睨み据え、攻撃を待った。犬は猟犬であるから必ず飛びかかってくる。その間にも犬は怯まず腰を屈めてじわじわ近づいてくる。三メートルまで近づいてきた。飛びかかってきたらビブラムソールのチロリアンで顎を一撃しようと身構え、右足に全神経を集中した。
その時、ふと、靴紐をそれほどきつく締めていない事に気が付いた。瞬間、もしかしたら最初の一撃目で靴が脱げるかも知れないと言う思いが横切った。絶対外せない。どっちが最初に致命的な一撃を加えるかが勝負である。もし、しくじったら、どんな形になっても喉を押さえ、目玉を潰してやるぞと心に決めた。
その間二秒も有ったろうか、低い体勢で体をぶるぶる振るわせながら、じわじわ二メートルに近づいてきた。飛びかかってこようとする瞬間、口笛が聞こえた。飼い主が只ならぬ犬の吠え方に何かあったのかと確認しに来て、人に向かっているのを見たのか、呼び戻したのである。犬は戦意を解き、きびすを返して戻って行った。飼い主は卑怯にも出てこなかった。その瞬間、飼い主に対する言い様のない憎悪感が体を駆け抜けた。
飼い主は、ほっかむりを決め込み、最後まで現れなかった。「このやろう」と言う思いは今でも消えていない。しかしその時、何故かその家に怒鳴り込まなかった。
実際に犬と格闘したらどうなっていたか分からない。
大声を出していたら事態はもう少し変わっていたかも知れないが、その時は向かい合うことに全神経を集中していた。
その後何年も経つが、未だにその家の人間に合うチャンスはない。しかし、そこを通る時は何時でも小型の鉈を持って歩いた。残念ながら似たような二軒の家のどっちだったか思い出せない。それだけ興奮していたのだろう。
帰って何日か後、管理人にこの事を話した。管理人は何の感動もない素振りで私の話を聞いていた。地方自治体の管理人は深入りしたくないのだろう。しかし、そんな顔はしていたが、何処の家か知っているらしかった。
これは、もう何年も前の話である。「護身用のナイフを買わなければならないな」と思いながら未だに買っていない。
★52章 ナイフ (1999.11)
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