かつてのスキー旅行では、石油ランプがブル下がった山小屋に泊まって、土間に据えられた薪ストーブを囲んで、山談義やスキー談義に花が咲いたものである。
時代と共にスキーの楽しみ方も変わってきた。昔のツアーコースにはゴンドラが掛かったり、ゲレンデになってしまった所も多い。そのため、ツアーコースが減り、シールを着けて登山したり、山から山へ渡り歩くコースが随分少なくなった。
それでも、若い山岳部の連中が、我々の若いときのように、大きな荷物やスキーを担いで山に登って行くのを見ると一寸安心する。
我々も若い頃はよくスキーツアーに行った。思い出してみると、福島県岳温泉から安達太良山へのツアー、志賀高原の横手山から草津へのツアー、蔵王のどっこ沼から地蔵岳、更にお釜へのツアー、白馬八方尾根の黒菱小屋から唐松岳第一ケルンへのツアー、天神平から谷川岳へのツアー、菅平から樹氷の見られる根子岳へのツアー、赤倉から関、燕温泉へのツアーなど、装備の不十分な時代であったが、厳しくも思い出深いツアーであった。
またこれらのツアーには、何時も良きリーダーが付いていて、夜ともなれば、ストーブを囲んで、安いウイスキーをチビリチビリやりながら、ツアーの注意、装備の話、そして数々の経験談を聞かせてくれた。彼は、初心者を連れていくので、安全のため、ツアー当日は人より3時間も早く起きて、皆の知らない中にその日のコースを全て下見して来ていた。これには吃驚した。人の面倒を見るとは、そこまでやるのだと、不言実行で教えてくれた。
2.HOMEスキー その後大学の時の友人四人でHOHM(日野、小沢、橋本、三井の頭文字)と言う名のスキークラブを作った。親戚、知人、会社の仲間などを毎年20人位連れて正月休みには必ず白馬山麓の南小谷のスキー場に出かけた。そこは今では白馬コルチナスキー場とハイカラな名前で呼ばれている。宿は農家の座敷で、初期の頃は、建物に入っていくと馬が「ぬーっ」と顔を出した。宿の人達は素朴で、皆とても良い人達であった。行き始めた頃は、まだ小さかった宿の子供達は、小学校を経て中学に行くようになると、スキーも我々よりずっと上手くなっていた。
JRの千国の駅から、スキーとリュックを担いで、雪道を一時間も掛かって宿まで歩いた。更に、ゲレンデへも宿から一時間歩かなければならなかった。一晩に一メートルも雪が積もることがあった。初心者にはシールを着けさせ、スキー場まで歩かせた事もあった。ベテランはみんなの握り飯や応急修理道具をリュックに詰めて担いだ。スキー場に着くと、先輩が雪を踏み固めて初心者用のゲレンデを作った。また交代で指導する手はずを整えた。
ゲレンデの適当なところに集合場所を作り、そこに日の丸の旗を立てて、お菓子や飲み物を置いておいた。上手い人も初心者も、そこに頻繁に立ち寄って、互いに一人にならないように配慮した。我々四人は、スキーも楽しかったが、段取りしたり、みんなの面倒を見るのが好きだったように思う。
当時のスキーは未だ機械的に弱く、時々折る者が出た。本来ツアー用品であるが、我々はスキーの先に取り付ける金具を常に持っていて、折れたスキーの先にネジで取り付け、何とか滑れるようにした。
そんな配慮をしていたせいか、15年続いたHOHMスキークラブの怪我はゼロであった。
3.スキーで落ちる
それでも、個人的に行ったスキーでは、これまでに何度も崖から落ちたり、池に落ちたりしたことがある。不思議なことに一度も大怪我はしなかった。
最初の事故は、湯沢高原で起きた。下の布場スキー場に降りる葛折の山岳コースを滑って来て、曲がり損ない、崖から落ちた。しかし、偶然二三メートル下に有った水平二股に張り出した木の上に落ちた。しかもこれまた偶然ふんわりと立ったままの姿勢で落ちたのである。もし木がなかったら、十メートル以上下の道まで落ちただろう。木の上でスキーを外し、後から来た仲間にストックで引き上げて貰った。
また蔵王で、霧の深い山岳コースを滑っていたとき、急に前方の大地が無くなった。気が付いたときは、五メートル下の雪原に叩き付けられていた。眼鏡、帽子は辺りに飛び散っていた。当時のスキーは外れなかったので、流れなかった。気が付くと手袋の親指の付け根が切れていた。手袋を脱いでみると、親指の付け根の皮が少し削り取られていた。傷はそれだけだった。
更に、妙高高原だったと思う。やはり霧の中を滑っていて、気が付いたら大地がなかった。運が悪いことに、三メートル下は氷の張った浅い池であった。しかし姿勢が乱れていなかったので、空中で下が池であることに気が付き、急遽スキー前部を揚げ、体をのけぞらせ、その場で止まっても良い姿勢を作った。案の定、氷が割れてその場で立ったままの姿勢で止まった。氷の上の雪と、氷が割れてショックが吸収されたのか、無傷であった。
まだまだある。若い頃は下手なのに、無鉄砲をしたものである。何れも運良く怪我をしなかったが、一つ間違えれば大変なことであった。
4.クロスカントリースキー
我々の若い頃の用具に比べると、現在の用具の進歩には目を見張る物がある。特に靴の進歩は著しい。紐は全て金具に替わって、締まりが良くなった。種類が豊富だから足に合ったものを選べば、フォーミング材を足に沿って流し込む必要は殆ど無い。「すね」まで入る堅い靴によってスキー捌きも良くなった。このため後傾し過ぎて尻餅をつかないで良くなった。ストックも軽くなった。だからゲレンデで転んでいる人が極端に少なくなり、怪我も減った。
今年は靴の進歩をそのまま感じる経験をした。
NHKがやっている”中高年の山歩き”と言うグループがある。そのグループが募集したクロカンスキースクール(クロスカントリーをクロカンと略していう)に入り、八ヶ岳の渋温泉で、生まれて初めてクロカンスキーを経験した。
金属エッジは無いが、スキーは軽く、歩くには全く良いのであるが、靴が編み上げの運動靴のようで、柔らかく、踝から上は頼るところがない。更に靴の先端が固定されているだけで踵は自由に上がる。
ひとたび重心が後ろに行くと、途端に尻餅をつき、重心が前に行くと、そのままつんのめる。踵が上がったまま力が横に働くと、スキーと足が別々な方向を向き、横のバランスもとれなくなる。これがスキーの原型であったことを思い知らされた。それに比べれば、今のゲレンデスキー用具の完璧な進歩には目を見張るものがある。
クロカンスキーの決定的な特徴は、細いことと登り易いように、スキーの裏の中心部に浅い鋸の歯形の模様が刻んであることである。前には滑るが後ろには引っかかるようになっている。スキーを雪面にぺったり付けると、その効果がより出る。
クロカンの曲がり方は、谷足に加重し、山側の足を引いて膝を深く曲げる独特のテレマークであるが、私は慣れていないので、パラレルで曲がったが、何とかなった。しかし深雪では通用しないであろう。
メンバーは山登りのサークルであるので、スキーなど殆どやったことのないおばさん達が多いので、家内も含めて皆七転八倒していた。
おまえは少し見所があると、先生が山スキーを貸してくれた。靴を履き替え、シールを貼って踏み跡のないゲレンデを稲妻形に登っていく。登りだけは踵が上がるようになっているので、少し重いが、快適に登れる。
昔はよくシールを着けてツアーに行ったものであるが、それ以来30年もシールを着けたことがない。シール自体も進歩していて昔のようにシールを紐で縛り付ける必要がない。単に複数回の接着剥離に耐える糊で貼り付けるだけである。下りはシールを剥がし、靴の踵が上がらないようにセットして、やおら新雪を快適にと言いたいが何とか転ばずに滑ってきた。勿論近代的靴のために重心の外れによる不安定さは無い。
翌日は先生に連れられて、近くの八方台という八ヶ岳がよく見える小高い山まで1時間程度のツアーを組んでくれた。これこそクロスカントリーで、踏み跡のない林を抜けたり、山谷を渡り歩いたりして、ほんのさわりではあったが結構楽しいスキーツアーであった。
でも、あんなに細いスキーで、新雪の野山を歩き回れば、雪の深さ分だけ潜ってしまって、とても楽しむどころではないだろう。この間は偶々良い天気で、踏み跡こそなかったが、古い雪で、固く締まっていたから歩き回ることが出来たのだ。
だから、クロカンスキーは、もう雪が余り降らなくなった春のスキーツアーか、踏み固められたコースで、アップダウンのそれほど大きくない野山を滑る所謂競技スキー用なのであろう。