★40章 水彩画事始め(1999.7)

 一昨年の夏のことである。あるきっかけで、NTT研究所の一年先輩である枡野さんの持つ軽井沢の別荘に行くことになった。
 メンバーは飯村さんと私である。飯村さんはやはり一年先輩、つまり枡野さんとは同期入社である。飯村さんとは元の職場で毎日卓球をやってはビヤホールに行っていた間柄である。三人の共通点はゴルフをやることである。また枡野さんと飯村さんは絵画の趣味を持っている。特に枡野さんは何十年もの水彩、油絵の経験があるセミプロである。飯村さんは7年ほど前からパステル画をやっている。私はと言えば、中学の頃、絵の時間に描いた以外全く経験がない。

 飯村さんは、「枡野さんの別荘に泊まってただ酒を呑むだけでは面白くないな」、「何かやることはないかなあ」と言うので、私が「絵を教えて下さいよ」と言うと、教えるのが大好きな飯村さんは、二つ返事で、「それにしよう」と言うことになった。

 私は以前から何時かは絵を描いてみたいと思っていた。しかし、ただそう思うだけで、行動するところまでは心が熟していなかった。でもこれが曲がりなりにも私が絵を始めるきっかけになった。

 当日は、飯村さんと二人で軽井沢のログハウスを訪れ、午後から三人で浅間山を描きに鬼押し出しに出かけた。道具は全て枡野さんにお借りし、描きながら枡野さんに色々教わった。夜は奥様の手料理をご馳走になりながら、描いてきた絵の品評会と私の絵の指導をして貰った。翌日の午前中も枡野さんご推薦のスポットから浅間山を描いた。

 その後、私の絵心が燃え上がらないまま、一枚も描くことなく一年が過ぎてしまった。熱心な枡野さんと飯村さんは再び軽井沢の枡野邸で絵を描こうと誘ってくれた。今度は枡野さん達と同期の鈴木さんを誘おうと言うことになった。風の便りに、鈴木さんも何となく絵を描いてみたいと思っているらしいことが伝わって来ていた。

 その年の初秋、四人が枡野邸に集まり、近くのこじんまりした私設美術館のアプローチとウイスキー会社所有の美術館の庭をスケッチした。 私も、鈴木さんも何時か絵を描いてみたいと思っていたので期せずして四人の絵画サークルが出来上がった

 鈴木さんは、昔から飯村さんと私の卓球仲間であり、枡野さんの碁の先生でもある。またゴルフをこよなく愛する。更に四人はパソコンユーザーでもある。つまり、ゴルフ、卓球、囲碁、絵画、パソコンに関して四人が互いに幾つかの趣味を共有している珍しい集まりとなった。

 翌年、飯村さんの発案で四人によるスペイン写生旅行が計画されたが、現役の私は12日間の長期旅行は無理であったので、涙を呑んだ。帰国後、絵を持ち寄っての集まりやインターネットで彼等の作品を見るにつけ、残念でならなかった。

 鈴木さんはスペインから帰ると、絵画教室に通い始めた。彼は初めから巧かった。プロの二人は、ビギナーズ・ラックだと言っていたが、どうしてどうして上手いものであった。その後も教室で何枚も描いていた。私は週末の山通いと会社の仕事で、相変わらず、時間が取れず、この二年間で、枡野邸で描いた二枚だけと言う有様だった。

 そうこうしている中にまた一年が過ぎ、飯村さんが次の計画を発表した。今度はイギリス南西部へのスケッチ旅行である。私は未だ現役であったが、今度は多少無理をして七月一日から12日間のスケッチ旅行に参加することになった。

 イギリスの旅は素晴らしいの一言に尽きるものであった。飯村さんの計画は場所の選定、ホテルの選択、コースの流れ共に完璧であった。雨の多いイギリスにもかかわらず晴天に恵まれ、全員6枚以上の絵をものにした。レンタカーを基本にした移動はスケッチには打ってつけで、イギリスの有名な画家ターナーに因んだ田舎町を含めて南西部を描いて廻った。 私も釣られて6枚描いた。こんなに沢山続けて描いたのは生まれて始めてであった。枡野さんが親切に一生懸命教えてくれた。なかなか言われるようには描けなかったが、知らない間に私も夢中で描いていた。

 途中で「もういいよ」と弱音を吐いたりしたが、その翌日には昼飯も食べずに描いていた。結果は素人なりのものであったが、楽しい12日であった。
 これで、何時かは絵を描くことになるだろうと朧気ながら思えてきた。皆さんはホテルに帰ると、必ず作品に手を加えていたが、私は相変わらず触らず仕舞いであった。時間の関係で完成しない絵もあったが、手を入れるともっと駄目になると思い、日本に帰ってからも手を入れなかった。

 現在、イギリス写生旅行のホームページを飯村さんが作ってくれている。またホームページを作るに当たり、グループに名前を付けようと言うことになり、協議した結果、「Crazy Painting Club」となった。

 私は、何時か八千穂の山で描いてみたいと思っている。何時も土木工事ばかりで、がさつな雰囲気であるので、少しはインテリジェンスの匂う趣味があっても良いだろう。また皆さんに来て貰って、良いポイントを探し、「わいがや」で描いてみたいものである。当てにはならないが、そのうち私の絵心が盛り上がってくることを期待している。 

★41章 八ヶ岳スケッチ(99.10.30)

10月も末になり、かなり寒くなってから絵の仲間三人が山小屋に来てくれた。四人集まって、私の小屋の周辺でスケッチをしようという話は前から出ていたが、スケジュールが合わず、とうとう今頃になってしまったのである。

例年だと紅葉は終わり、寒々とした庭になるが、今年は紅葉が少し遅れたため、私の小屋の周りは丁度紅葉の盛りで、庭は真黄色に染まっていた。所々どうだん躑躅が真紅の彩りを添えて、今年の紅葉はいつもよりずっと綺麗で鮮やかである。

「Crazy Painting Club」と名付けたスケッチのグループ四人が、年に一度一緒に描いている。と言っても、私以外の仲間は毎月描いている。私は、ずぼらで、皆さんと一緒の時、つまり年に一回しか描かない。だから、何時までたっても初心者である。グループで描くと何となくその気になる。また先輩が手を入れながら教えてくれるので得るところが多い。それが皆の下にぶら下がっている理由でもある。昨日、三人は、軽井沢でゴルフをして、桝野さんの別荘に泊まり、今朝、私の小屋に来てくれた。私も一緒にゴルフをする予定であったが、重要な会議が入り、残念ながら参加できなかった。

皆は、朝九時半頃到着し、コーヒーを一杯飲んで、候補地の松原湖へ出かけた。

松原湖は私の小屋とほぼ同じ標高であるので、丁度見頃であり、色も赤が多く、素晴らしい景色を見せている。天気がやや曇り気味であったので、いつもは素晴らしい遠景となる八ヶ岳は全く見えなかった。それでも時々木漏れ日がさし、紅葉を引き立ててくれた。

湖を半周しながらポイントを探し、それぞれの構図を選んで書き始めた。枡野さんは、先生について習っていない私の指導のために、直ぐ側にイーゼルを立ててくれた。それは11時頃だったろうか。終了の予定は3時と定め、それぞれが書き始めた。12時半頃一度車の所に集まる予定であったが、私と鈴木さんは、食事どころではなく、このまま描き続けた。枡野さんと飯村さんは、朝、枡野さんの奥さんが用意してくれた弁当を取りに行って我々に配ってくれた。私はおにぎりをほうばりながら描き続けた。枡野さんも飯村さんも二枚目に入っていた。ベテランにとって四時間は長すぎるのである。

そうこうする中に天気が回復して、時折雄大な八ヶ岳が顔を出すようになった。景色は一変するが、これを取り入れる余裕は私にはない。枡野さんは流石に一部を取り入れていた。
3時寸前に、二人から指導を受け、何とか終わらせた。

これから帰って、岩魚のバーベキューである。いつもの養魚場に寄って岩魚を八匹仕入れ、持ち帰る。腹の裂き方を教わってきたので、流しで包丁を使って裂き、腸を出し、きれいに洗って薄く塩、胡椒を振る。

その横で、飯村さんが十能に備長炭を入れ、ガスで種火を作る。適当なところで地下の囲炉裏に移し、柔らかい炭を混ぜて火を熾した。

囲炉裏一杯に火が熾きると、網を置いて岩魚を一度に焼く。川魚は強火でしかも遠火でじっくり焼くのがコツである。そのため私の囲炉裏は網の高さを自由に変えられるようになっている。

適当に焦げ目の着いた岩魚は如何にも美味しそうである。一斉に食べ始める。「旨い」と、皆が言う。その後しばらくは、箸と口が動き、沈黙が続く。

さっきまで泳いでいた岩魚は、新鮮そのもので、何も付けずに、そのまま食べるのが一番美味しい。ヒレも皮も適度に焼けているので、骨さえ取れば、そのまま食べられる。皆、二匹ぺろっと平らげた。

次に、網を鉄板に切り替えて、野菜と肉を焼く。六十五歳以上の年寄りの集まりなので、用意した材料の半分も食べない中に、皆腹が一杯になってしまった。

日も落ち、薄ら寒くなったので、明かりを灯し、用意した二つの石油ストーブを炉の両側に置き、暖を取りながらの酒盛りとなる。それでもこの二三日は暖かく、夕方でも十度以上有った。

先週、囲炉裏の周りに、予め絵を並べる場所を作って置いたので、そこに今日の成果と鈴木さんの最近作が並べられた。一頻り、いつものように感想、評論、指導がなされる。私のような初心者は初心者なりの感想を述べる。それに連れて、プロの意見が飛び交う。なるほどと頷きながら、素人は知識を深める場になる。
少し早いが、寒さも手伝って、外でのバーベキューを切り上げ、小屋に入る。
今回は、家内がパソコン教室で来られず、私一人で来たので、65歳以上の年寄り仲間にとっては、何となくやもめムードで、意気が上がらない。いつもは全て奥さんにやって貰っているらしい。第一線を退いた男達の独立宣言は未だ先の話のようである。

代わり番づつ風呂に入りながら、今度はパステルを使って、絵の実地指導が始まる。私の絵は見る見る変わって行く。どうしても上手く表せなかった松の森が、飯村さんのパステルにかかると、瞬く間に本物の松になる。水は本当はもっと暗いのだと言って、かなり濃い、暗い色で修正させられると、実物に近ずくだけでなく、水面の光が現れる。森の奥に、濃い色を入れると、急に奥行きが出てくる。ベテランはやはり凄い。この調子だと、私は、いつまで経っても「Crazy Painter」のままになりそうである。

さて皆さんは、かつては秘書付きの社長、専務、常務さんであり、アウトドア経験が殆ど無いので、上げ膳据え膳でない我が山小屋に再度来てくれるだろうか、心配である。

★42章 一人でスケッチ(2000.11)

 今日は家内がパソコン教室に行くので、一人で山小屋に来た。家内がパソコンに凝りだしてから、私は一人で来ることが多くなった。それはそれで楽しい。
 来るとき、家内が「一人で行くのだから、ゆっくりスケッチでもしてきたら」と言うので道具を持ってきていた。上手な仲間と行くと、色々教わることが多く、とても有益だが、彼等に面倒を掛けることが多かった。一度一人で描いてみたいと思っていた。

 でも、昨夜まで、土留め工事をするか、スケッチに行くかで迷っていた。本当は土留め工事の方がやりたいのだが、このままだといつまで経っても”一人スケッチ”は始まらないので、「エイヤッ」とかけ声を掛けてスケッチに出掛けたのである。

 先週、山の紅葉の進み具合を見るために稲子湯の方まで出掛けたついでに、松原湖に寄り、スケッチのポイントを探しておいた。今日は、その時見つけたポイントのボート小屋の対岸のベンチに陣取った。

 紅葉は既に終わり、僅かに茶色に変色した葉が所々に残っている。外はかなり寒い。人出も疎らで、時折二三人が通り過ぎて行く程度である。天気は晴れたり曇ったりで、気温は六、七度ぐらいであろうか。 朝出てくるとき、長袖のシャツと長いズボン下を履き、冬のカッターシャツを着て厚手のセーターにフリースを羽織り、更に膝掛け毛布を用意してきた。 イーゼルを立て、やおら描き始める。次第に青空が広がり、日が射すが、時折陰る。雲の変化も大きい。

 白いボート小屋を正面右に見て、その奥が松の森で、一部紅葉が残っている。中程に右からの岸が突き出し、其処に小さな祠がある。その裏に遠く対岸の森がある。 遠くの水面はさざ波で光り、手前の水面にはボート小屋と森が何となく映って濃い陰影を成している。十時頃から描き始め、一時間ほどで鉛筆によるデッサンを終え、水彩を施し始めた。途中、セブンイレブンで買ってきたお握りをほおばり、休まず描く。二時頃になって、そろそろ疲れてきたが、水面の書き込みが殆ど出来ていない。二三メートル下がってみると、全体に筆のタッチが”チマチマ”している。やはり先生が居ないと、素人の自己流になる。写真を撮ってあるので、後は家で仕上げることにして道具を片付けた。

 その後、水面を多少手直ししたが、殆どそのままになっている。仲間は、後で結構手を入れて仕上げているようであるが、私は余り手を入れず、その時の出来具合をそのまま残して、後の作品と比べて上達の程度を見る方法を取っている。確かに手を入れたい気持ちはあるが、手を入れると雰囲気が壊れて台無しになる可能性があるので、そのままにしている。

 11月23日に、”クレージー・ペインティング・クラブ(CPC)”の仲間が新築披露を兼ねて枡野邸に集まる。私を除く三人は、秋に出掛けたフランスのスケッチ旅行の成果を持ってくることになっている。仕事の都合で、私だけが行けなかった。集まって、彼等の絵を見せて貰うとき、自分の絵がないのは寂しいので、最低限一枚は持って行こうと、初めて一人で出掛けて松原湖を描いてきたのである。このポイントは、気に入っているので、仲間の先生のコメントを貰った後でも、二三回描いてみたいと思っている。絵を描くのは好きだが、なかなか一人で出掛けるのは億劫なので、これまでやらなかったが、これで吹っ切れたように思う。

 これからは時々一人で出掛けることになりそうである。

★43章 山の音(1998.11)

  我々の山小屋がある尾根から二百メートルほど南に、八ヶ岳から複雑に伸びた白樺の尾根がある。その直ぐ下に小さな谷川が流れていて別荘地の境界になっている。

 朝、小屋の雨戸を開けると静寂の中にこの川の音が聞こえてくる。百メートル近く離れているため、こもったような低い響きである。しかし昼頃になると我々も活発に動き廻ることもあって何時しか聞こえなくなる。夕方外でバーベキューなどをしていると静寂が蘇り、再び聞こえてくる。

 川は二三メートルほどの幅で、深さもそれほど無く四五十センチの石がゴロゴロしている。川の中に適当な石があるところでは、それを飛び石代りにしてひょいと跳んで渡れる。水が綺麗で川端には春になると二輪草や芹などが群生する。
 地形が微妙に変化しているので小さい川の割には変化に富んだ音を出す。小さな段差では白い水しぶきが散り、思いの外大きな音をたてる。大雨の後では「ゴウゴウ」と大声を出し、まるで大きな川の側に住んでいるかの様である。

 つい最近そこで岩魚を二匹釣った人が居た。釣り人には知られた千曲川の支流の大石川のまた支流の一つになっているので、居ても不思議ではないが、まさかこんな手近なところで岩魚が釣れるとは知らなかった。いつか釣りも始めなければなるまい。
 夏の初め、6月になると蝉が鳴き始める。胴体が薄茶色で半透明な春蝉である。「カッ」と日が照ると、一斉に鳴き出し、辺りは蝉時雨と言うより蝉の土砂降りとなる。庭を歩き回ってみると、あちこちに蝉が抜け出した穴が有り、木の根本付近に抜け殻が見られる。それは意外に小さく、泥だらけである。
 この蝉も三週間もすると、鳴かなくなる。山は季節の回りが早いのか、ほんの僅かな期間しか蝉に会えない。だから特別五月蠅いとは感じない。むしろもう終わったのかと呆気ないくらいである。春が遅く冬が早い山間部では動物が活動する期間は都会に比べるとずっと短い。

 夏の終わりの低気圧の時期や冬枯れの時期には結構強い風が吹く。遠くで「ゴー」と言う音が聞こえると、その音は瞬く間に我が家の林にたどり着き、落葉松が一斉に並んで撓み「ボー」と言うやや低い音を響かせる。時々大きな枯れ枝が「どさっと」言う音を立てて落ちる。
 我が家には二十本ほど落葉松が生えているが、何故か三本が立ち枯れている。ある日山小屋に来たとき、その中の東の一番大きな唐松の先端が数メートル分無くなっているのに気が付いた。いくら周りを探してもその先端部は見当たらない。持っていく人は居ないはずである。今でも不思議に思っている。

 直径30センチ近くもある枯れた落葉松で、まだ20メートル近く残っているので、倒れては危険と思い、晴れた日にチェーンソウで切り倒した。何度か伐採をやったことがあるが、木が密集しているので、周りの木を痛めずに倒すには、可成りの方向精度を出さなければならない。このくらい大きな木になると、倒れ始めてから方向を修正する事は出来ない。傾斜地の谷側の林の隙間に倒すことにした。木全体の重心が根の真上にあることを確認して先ず谷側の幹を半分近くチェーンソウで楔状に切り取った。裏側のそれより数センチ高いところに追い鋸を入れる。反対側の楔型の凹みの先端に近い位置まで切り込んだところで山側から押してやる。

 大きな音を立てて倒れかかる。「どさーっ」と言う凄い音を立てて落ちるかと思いきや、方向が少し狂って左の唐松に寄りかかってしまった。こうなるとにっちもさっちも行かない。兎に角下から1メートルの辺りを切断することにした。
 先ず上から切り込む。途中からチェーソウが重くなった。この部分には下向きに力が働いていることになる。今度は下からチェーンソウの背を当てる。少し切り進んだとき、突然大きく跳ねて、思わず尻餅をついた。目の前で、木は手前に半回転して崩れるように落ちた。一度弾んで静かになった。
 それ以来狭いところでの伐採には相当神経を使うようになった。

 チェーンソウによる事故がよく有る。アウトドア派の人の本には自分の怪我のことがよく書かれている。それほど危険なことである。機械工具にはいくら注意しても、し過ぎることはない。

 その二年後、風の強い日に、たまたま小屋に来ていた。夜中になって、寝ていると、風の音でも消せないほど「バリバリ、どすん」と言う大きな音がした。建物にぶつかった様子はない。既に経験があるので「裏の枯れた落葉松だな」と直感した。朝起きて早速見に行くと、西側の枯れた落葉松の先端が3メートルほどもぎ取られて直下に落ちていた。枯れた唐松は、風が吹くとどうやら頭が落ちるものらしい。残った部分も近い中に切らなければと思った。

 秋になると風の音と共に栗、ドングリ、クルミなどの木の実の収穫が始まる。我が家は、家の周りの木を切って有るので、直接実が屋根に落ちることはない。 昼間、風が無い日でも十分熟れた木の実は、土の上に堆積した落ち葉の上に「ポツン、カサッ」と愛くるしい音を立てて転がる。山道を歩いていても時々木の実が落ちる音がする。熟れた実が自然に殻から剥がれて落ちる音である。自立した子供が親に「行ってくるね」と言っているようにも聞こえる。

 冬になって風が余り強くない日は、木にぶる下がるように沢山残っているカシワの葉っぱが「がさがさ」音を立てる。庭に立って耳を澄ますと、ミズナラの葉も一つ一つ音を立てて地面に落ちる。
 落葉松の葉は小さくて軽いが、弱い雨のような音を出して「さらさら」と降り落ちる。道ばたは、一面うす茶色に染まる。時々頭にも降りかかり、家で着替えをしようとすると髪から枯れ葉が落ちることがある。干した布団や洗濯物にも何本かの葉が残る。夜中に風の音がすると、ベランダに堆積した落葉松の葉は翌朝にはすっかり掃いたようになくなっている。こんな風景を見る頃になると、「冬が来たなあ」と思う。今年で七度目の冬を迎える。

 木は冬になると新陳代謝が弱まる。水分も減っている。冬を越して春が来ると、元気に水を吸い上げ、活発に活動する。だから木は冬から春の初めまでに切れという。春が進んでから切った材木は水気が多く割れたり狂ったりして使い難いと言われる。
 春、根が動き出すと水揚げが活発になり、幹に耳を当てると「ざー」又は「ゴクゴク」と音がすると言う。しかし迂闊にして未だ試していない。聞いてみるまでは本当かどうか信じられない気もする。
 風の流れは複雑で、弱い風でも細い枝の間を通り抜けると音が出る。沢山の枝で発生する音が幹を伝わって混ざり合い、案外大きな音を出しているのかも知れない。全く風が無いときにも聞こえるとすれば本当に水を吸い上げる音かも知れない。一度風の全く無い日に聴診器を当てて聞いてみたいものである。

 小屋を建てたばかりの頃、寒い冬の夕方から夜中に掛けて「ピシー」という音をよく聞く。時には「ガツーン」という凄い音を出すときもある。暖房を炊くので木が暖まり、乾いた材木が割れて大きな音を出すのである。ネズミもきっとびっくりしていることだろう。

 ネズミと言えば、毎日人が居るわけではないし、餌がないので我が山小屋には滅多に現れない。それでもこれまでに二回ほど天井を走る音がしたことがある。ねずみなのか栗鼠なのかは分からない。でも走り方はネズミのように聞き慣れた音である。

 山小屋を建てて二三年後、11月になると必ずカメムシの大群が現れる。家の外のサイディングにも、家の中にも何処にでも出てくる。取ろうとすると例の臭い匂いを出す。夜中に寝ていると顔の上にも飛んでくる。一晩中カメムシ取りをやったこともある。家のあらゆる隙間をコーキング材で塞いだが、量は減ったがやはり出てくる。障子のように薄い紙の上を歩くときは「かさかさ」と、かすかな音をたてる。
 最近では見つけるとティッシュペーパーを4回折って16枚の厚さにして臭いを出す前に潰す術を覚えた。何とも嫌な虫である。

 もう一つ嫌な虫はヤスデである。七年周期とも言われるが、発生すると、どうしようもないほどの数で家の内外を這い回る。これも紙などの上を這うときには「さらさら」と音を出す。これは数センチほどの大きさがあるため、潰すには気持ちが悪い。外の道路にもびっしりと並んで這っている。きっと音を出しているのだろうが、余りにも多いため音を聞いている余裕がない。

 これに比べれば蛾の飛来は気持ちよくはないが大したことではない。時には素晴らしく綺麗な蛾も来る。雨戸を閉めてから電気を点ければ光が漏れないので大丈夫である。時々雨戸を閉め忘れてガラスに直接ぶつかり、「こつん」と言う音を出して粉がガラスに付着する。大きな蛾は強く当たるため汁を出し「ベチャッ」と張り付く。気持ちはよくないが、これも山の音の一つである。

 窓辺に用意した餌箱をめがけてくる鳥は、光の反射の加減か、一度もガラスにぶつかったことがないので有り難い。窓を開けておくとうっかり入って来て慌てて出口を探し、あちこちに激突して可哀想な思いをさせるが、滅多にないので安心している。
 餌台には夜の中にひまわりの種を補給しておく。朝「とんとん、こつこつ」と、せわしなく、でもリズミカルに割る音で目が覚める。夢中で割っている姿を想像すると何となく愛嬌があり、雨戸を開けるのがためらわれる。それでも音の合間に開けると、一度は逃げるが、窓を閉めるのを待ちわびるようにしてやってくる。コガラは人懐こく、我々が窓から身を乗り出していてもやってくる。山小屋のまえにある、我々が「憩いの木」と名付けたミズナラの木に沢山の小鳥が来て黙って枝から枝に動いている。餌台に代わる代わる来たり、三羽一度に来たりする。互いに上下関係が有るらしく、複雑に入れ替わる。

 鳥仲間の上下関係は、ゴジュウカラが一番強く、ヤマガラ、コガラ、シジュウカラからの順に下がり、人間に対しては、コガラが最も人懐こく、ヤマガラ、ゴジュウカラ、シジュウカラの順に臆病になる。シジュウカラは人が窓際に居ると、餌台に近づくだけで、直ぐ引き返し羽音を立てて逃げることが多い。アトリ科のカワラヒワやシメやウソはひまわりの種を口の中に入れて割るので、餌台の中に座り込んで食べる。別に他の鳥を脅かすわけでもなく、カラ類が横にやって来て種を持っていく。
 これらの鳥の出す音は餌台に止まる「カサッ」と言う爪音、ひまわりの種をつついて割る音、羽ばたく音、アトリ科の鳥が種を口の中で「もごもご」すりつぶす音など多彩である。

 巣作りの時期になると、巣箱を自分の好みに合わせて変形する作業があり、「こつこつ」叩く音、巣に飛び込む時に止まる音や羽と巣箱とで擦れる音が10メートルも離れているのに聞こえる。
 この様に、音は彼らの活動を細かく映しだす。

 山小屋から300メートルほど離れた所にある畑は、鹿を初めとする色々な動物が出没して荒らすらしい。京都の鹿脅しとは異なる無粋な鹿脅しが仕掛けられ、爆発音を夜中じゅう鳴らす。五分おき程度に「ドカン」と言う音を出す。始めは気になって眠れなかったが、最近では遠いことと余り大きな音でないこともあって気にならなくなった。

 11月18日の明け方は、獅子座流星群の見られる日であった。ラジオやテレビが騒ぐほど星は降らなかったが、5、6分に一つ程度の流星が見られた。一個一個は比較的大きく、時に長く一直線に夜の天空を走る。十数年前の同じ流星群の時は音が聞こえるかと思えるほど、雨のように降ったそうである。流星の数が多いと、「ザーッ」と音が聞こえるような錯覚にとらわれる。

 このように山には都会と違った色々な音があり、どれも非日常的で楽しく、人が思うほど静寂ではない。

★44章 山の匂い (1998.12)

  都会で通勤バスを降りる。人いきれのする車内から外の冷たい空気に触れると、鼻がツンとして冬の匂いを感じる。この匂いは子供の頃からの冬の徴であり、私の生まれ育った雑木林と畑に接した武蔵野の思い出と繋がる。少年の頃そこで初めてこの匂いに気が付き、大人になった今でも冬になると必ず感ずる匂いである。

 子供の頃、雪が降ると「日曜だったらなー」と何時も思ったものである。日曜なら朝から雪で遊べるからである。大雪ならなお嬉しい。朝、外へ飛び出すと決まってあの独特の雪の匂いを感ずる。冬の寒さの匂いとは少し違い、湿っぽい匂いが加わる。寒い日には、指で掬うと指に絡まり、昼頃になると、雪の結晶は縁が解けて黒い粒粒に見え、少し埃っぽい匂いを伴っている。

 冬の夕暮れに、竃から漏れる煙が、何時も遊んでいる広場にも、うっすらと流れ込み、低く棚引く。ぐっと冷え込んだ広場に、かすかだがハッキリと燻された匂いが漂う。この匂いは「家に帰る時間だよ」と言っているような、忘れられない冬の思い出である。

 山に来るようになって、冬の朝には、昔の武蔵野の空気と同じように、「ツン」とした冬の匂いを感ずる。また冬の夕暮れには、都会では既に失われてしまったが、燻されたような匂いが漂ってくる。里に下りるとこの匂いはもっと確かなものになる。最近は農家でも火を炊いて夕げの支度をする家は殆どないが、秋の収穫で積み上げられた藁を燃したり、野焼きをすると、子供の頃遊んだ冬の広場の匂いが漂い、一緒に遊んだ友達の顔が浮かんでくる。

 春になると三寒四温の合間に暖かいそよ風が吹く日がある。木の芽も僅かに膨らみ、冬の匂いが薄らいで柔らかい春の匂いに変わる。そんな日は温度が上がるだけでなく湿気が少し増え、目に見える世界も徐々に変わるため、鼻だけでなく皮膚に感ずるさわやかさや、目に映るかすかな変化が合わさって春の匂いを醸し出す。
  春が進むと、この匂いは、草木の活動や気象の変化を反映して匂いと言うより、もっと五感に迫る大波のような圧力に変わる。昔の人はこの力を「春の声」、或いは「春の息吹」等と能動的に表現した。

 私の、庭での作業も活発になり、鉈で杭を尖る時の木の匂い、枕木を切って出るおがくずとクレオソートの匂い、そして汗の匂いが充満する。砂利独特の埃臭い匂い、セメントをこねる匂い、チェーンソウの油の匂い、ベニヤ板の加工の匂い、肥料の匂い、殺虫剤の匂い等、人工的な匂いが溢れ、私の季節が始まる。

 そんな雰囲気が桜の花、藤の花、あかしやの花の匂いとなり、草いきれとなっていく。土の匂いも埃っぽさから湿った土臭い匂いに替わる。木や草を手折ると、これまでのかさついた匂いから青臭い匂いに変わり、若い生命を感じるようになる。そしていつの間にか夏の匂いになっていく。
  夏の空気には特別な匂いを感じないが、子供の頃のプールでのカルキの匂いとすえ臭い匂いが「好かない匂いだったなあ」と思い出される。

 秋の匂いは茸の匂いで始まる。個々の茸独特の芳香、美しい襞、繊維質の茎などが舌を擽る。「衣笠茸」の頭の臭い匂いも時々混じる。   秋の山の草花は色が濃いばかりでなく概して匂いが強い。桔梗、リンドウなどが色々な匂いをまき散らす。

 薔薇は未だ山小屋では本格的に始めていないが、ミニ薔薇を何本か植えてある。鼻を付けるとかすかに臭う。薔薇は寒冷地でもよく咲くので来年辺りから、また始めようと思っている。

 最近は、お茶の匂いの混ざったような強烈な匂いを放つ朱色の「トロピカーナ」や蟻が近づくのではないかと思われるほど、とろりとした甘い匂いを発する薄紫の「ブルームーン」のような薔薇が少なくなった。今は昔と違う”変わった”薔薇を創り出すことに力点が置かれているようである。

 アマチュアの薔薇コンテストでは、花の姿形、花の色、花の匂い、花首の長さ、茎を含む全長、花保ち、葉の艶と傷みの無さ、棘の少なさ等で評価される。これらの条件を満たす種は概して余り丈夫ではない。手入れを怠ると消えて無くなる。薔薇の主な世話は、日照、土壌の質が十分整ったとして、剪定、施肥、消毒、水やり、マルチング、シュート(新芽)の管理、草取り等である。更に手入れのタイミングが大切である。だからとても手が掛かる。それだけに整った薔薇が咲いたときは嬉しい。沢山咲くと花首をもぎ取り大きな網の袋に入れて風呂に浮かべる。ほんのり匂う薔薇風呂は目を瞑ると天国の夢が広がる。

 百合の花は1200メートルのこの地では余り大きくならず、あの強い花粉の匂いを出すまでにはなかなかいかない。村の人に聞くと、高さや寒さではなく、どうやらモグラが根っこを食べてしまうかららしい。

 秋の焚き火も嬉しい。落ち葉や枯れ枝を何抱えも集めて燃やす。焼き芋は何時になっても楽しい。囲炉裏で焼くサンマや岩魚の匂いもまた格別である。時には岩魚や肉の燻製を作る。桜、ヒッコリー、クヌギのチップをくべ、下から加熱すると表面が栗色になり、何とも良い香りが漂う。   ある日、国道299号を西に向けて車で八ヶ岳を登り、麦草峠を越え、蓼科に行った。そこに旧華族の別荘を改装した、お伽噺に出てくるようなホテルがある。その裏庭に立派な燻製小屋がある。煉瓦作りのモダンな燻製小屋で、正面に作者の名が横文字で入っている。扉の手打ちの鉄飾りと蝶番がまた良い。それは十分使い込まれ、周りは煤と脂で黒飴色に変色している。近づくと燻製小屋独特の匂いが「プン」とする。「よしっ、これを山小屋に作ってやるぞ」と決めた。未だに出来ていないが、色々な方向から見た写真だけは撮って有る。いつかこれを参考にして独特の設計で作ってやろうと思っている。

 その燻製小屋の側に薄荷の草が何本か生えていた。懐かしくなって一本失敬して山小屋に持ってきて植えた。三年経った今では何十本にもなって土手にはびこっている。意外に強い多年草である。北海道の北見で有名なくらいだから寒さにも強い。葉を切りとったりもんだりするとすっきりした薄荷の匂いが辺りに広がる。時には芽先を摘んで私の長年の趣味であるカクテルのアクセサリーに使う。

 匂いというものは、そのエッセンス、気温、湿度だけでなく、目から入る情報、肌の感覚、時には音までも含めて醸し出される。人は実際の匂いに加えて、自分の経験に基づく仮想の世界を作り、そこに演出される想像的な匂いを嗅ぎ取っているように見える。匂いは以外に心理的であり、奥の深いものである。香道と言うものがあるくらいだから当然かも知れない。

★45章 遊びの思い出(1999.6)

 今の子供達は、近代的な環境で、高度で刺激的な遊びを満喫している。一方昔の子供達も、その時代に使えるあらゆる方法を使って毎日を楽しく過ごしていた。

 かつては都会と言えども多くの場合、たっぷりした自然環境に恵まれ、その中で暗くなるまで遊んだ。勉強をしろとも言われなかった。たまにタンクに水を揚げるための井戸汲み、屋根のペンキ塗り、薪割り、家庭菜園などを手伝った。  

 幼稚園にも行かないのが普通であった。友達は呼びに行けば必ず出てきて遊んだ。ただ面白いことに、構えの立派な家の子供は、何かと制約があるらしく、誘っても出て来ないことが多かった。  

  親が五月蠅い家には子供は寄りつかず、鷹揚な家には、子供が集まった。そんな家は、屋根に登っても、時々怒られるだけで、結局は子供達の遊び場になっていた。

 その家の整った庭の外れには広い林が有り、そこも我々の遊び場であった。山吹の生い茂った草むらをくり貫いて、よく隠れ家を造った。中に向き合って座り、何か密かな満足感を味わったものである。  

  家の近くに300坪程度の広場があった。そこには大きな桜の木が5、6本とその他の雑木が生えていた。そこもまた子供達の遊び場だった。小学生であったが、バットで打った球が時に近所の家に飛び込み、ガラスを割って怒られたことが一度ならずあった。

 シャボン玉が手に触れた時の感触、虹色に輝いて動く様、その割れ方、飛沫がどう飛んだか、目に入るとどのくらい痛い思いをしたか等はちゃんと覚えている。また竹の棒が折れるとどんな裂け方をするのか、割れ目はどのくらい鋭いかなどもはっきり覚えている。

 これらの経験が、男の子の身体に一杯詰まっている。子供の頃やった遊びを数えてみたら35種程有った。その中で特徴のある遊びを数個紹介してみたい。  

1.貝釣り
 貝釣りというと如何にも魚釣りのような印象を与えるが、全く異なる簡単な遊びである。
 当時井の頭公園は、我々の遊び場で、幼児の頃は勿論、小学校にあがってからも学校から帰ると週の半分以上はそこに出かけていた。その頃、上の大きな池から流れ出る川は、澄んで綺麗だった。川の縁は木製で、既に相当腐っていた。川底は部分的には砂利が敷かれ、せせらぎとなっていたが、それ以外の所は深く、かき回すと黒い泥が煙のように舞い上がり、底が見えなくなった。

 この川にはメダカ、ハヤ、鮒、ヤツメ鰻、泥鰌、ヤゴ、水澄まし、源五郎、アメンボウ、貝等が沢山居た。川の側に釣り道具や駄菓子を売っている店が一軒あった。その店の屋号は忘れたが、何故かその家の名をはっきり覚えている。「”朝倉さん”ちで釣り針を買うんだ」などと言っていた。魚釣りもよくやったが、一寸変わった貝釣りの話をしてみよう。      

 縁に這いつくばって、太陽の反射を避けて川底を見ると、貝は土の中に潜っているので直接は見えないが、あちこちに二本の水管が覗いているのが分かる。水は綺麗だが、川底は堆積物が多く、余り綺麗ではない。一寸慣れが必要であるが、水管は二本並んでいることと管の廻りが少し白っぽいので慣れると直ぐ貝だと分かる。      

 家の庭に生えている姫笹を一本折り、全ての葉をむしり取って、先に1mm程の節が付いた形にして川へ行く。
 上から見て、水管を目指して笹の棒を差し込む。失敗すると、貝は蓋を閉じてしばらくは開かない。上手く差し込むと、貝は異物の侵入に慌てて蓋を閉じる。後はそれを引き揚げるだけである。成果はシジミが多いが、時に5cmも有る黒っぽい貝が釣れることがある。名前は分からないが、それを家に持って帰る。沢山釣れれば、母親が味噌汁の具にしてくれた。別に美味しいとは思わなかったが、家族が食べてくれるのが嬉しかった。

2.コマ回し
 こま回しのコマは、中心が木で、廻りに1~1.5センチの厚さの鍛造(鉄を熱して叩いて形を作る手法)で作られた鉄が回されている、直径7、8センチ程のコマである。芯も同じく鍛造で作られていた。(戦後のコマは、鍛造でなく鋳物の鉄になったので、よく割れた)。
木の部分が少ないので子供には、かなり重い。芯の先は、買ってきたばかりの時は尖っているが、それをコンクリートの道路で回して減らして平らにする。そうすると硬い土の上でもよく回るように仕上がる。先が平坦になっていると、土の上で回したとき、潜らず、コマ全体が前後左右に動き、重心の偏りを吸収してくれるので、よく回るのである。

 回っているコマの芯が作る小さな土の溝は、水分があるため黒光りしていて、コマが動き回ると、糊のように土が外に塗り広げられて行く。その表面が何となく綺麗で、コマを止めた後、よくその溝を指で触ってみたものである。

 コマを回す紐は、芯とほぼ同じ太さで、均一で長い。先がばらけていて巻き易くなっている。ここに唾を付けて滑らないようにして芯の先から巻き上げる。ばらけた部分がそれ以上ほどけないように、細い糸を巻いて止めてある。この紐は売っていないので自分で作る。よく街で売っているコマ紐は、麻で出来ていて、先が細く、段々太くなっている。しかしこれは見場を重んずる飾りの商品で、その紐では、強い回転が得られない。回し方は、最後まで引きを入れずに力一杯投げつけて回すのである。

 ゲームの方法は、じゃんけんをして、回す順序を決める。勝ったものが後で回す。次々に可能な限り勢いよく回す。一番最後まで回っていたコマの持ち主が「天下」と呼ばれ、最後に回す権利がある。後は止まった順に回す。  

 しかしそれだけでは面白くない。後から回す者は、先に回したコマの中で最も威勢良く廻っているものを目がけて叩きつける様に回す。相手のコマの鉄の輪に自分のコマの木部が当たると、相手のコマは瞬間的に止まり、真横に飛ばされて無様に転がる。転がっている状態が、先端を頭にしていると、「誰々ちゃん、お釜」と囃され、丁度弱い猫が強い猫や人間に腹を見せる「参ったポーズ」と見なされ、次の回には一番先に回さなければならない。

  一方相手のコマをはじき飛ばした自分のコマを後から見ると、胴の木部に深い傷が付く。これを「胴引き」といって最も名誉な徴である。これが多いほど強いコマであり、回し手も得意になれる。強い子供のコマは、胴引きが多く、終いに胴が無くなるほど減ってしまう。しかし、その様になると鉄の部分が多くなり、遠心力が増すのでより長く廻るようになる。
 鉄と鉄がぶつかったときは、相手のコマは少し横に飛ばされるだけで、勢いはさほど落ちない。

 また回っているコマの真上の木部に後から回すコマの芯が当たると、回転はさほど弱まらないが、止まってからはっきりと穴が空いているのが分かる。これは「脳天」を付けられたと言って最も不名誉な徴である。家に帰ってからコマを一晩塩水に漬けて何とかふやかして消す。

 更に投げつけたとき、自分の鉄の輪が相手の輪にぶつかったときは、深くえぐったような鋭い傷が付く。この場合も相手のコマの勢いは殆ど落ちない。この傷跡は鈍い光を放ち、沢山付くほど歴戦の勇士として誇れる徴である。この種の傷のあるコマを手で止めようとすると、手がすぱっと切れる。だから「天下」の人は必ず靴や下駄で踏んで誇らしげに止める。
「天下」になる人は相手に命中させて止めるのが巧く、コマもバランスの良いコマを持っている。

 このゲームには物のやり取りはないが、相手を叩きつぶすという男の子の闘争心を煽るものがあり、延々と続く。時にはいわゆる生意気な子のコマが集中的に狙われる。一種のいじめである。いじめを受けても、その子は遊んで貰える事を優先して、必ず出てくる。夜になると鉄と鉄がぶつかりあう度に火花が出て一層熱が入る。しかし暗くなって家に帰ると締め出しを食らい、さんざん絞られるという「おまけ」が付く。

 戦争中、縁故疎開で、一年間栃木の田舎で過ごした。小学校3年の時であった。ここでも都会と違う数々の遊びを覚えた。喧嘩もした。生きるために買い出しにも行ったし、堆肥作りを含めて農業も一通りやった。遊びの種類は一年間で12種類くらい経験した。
 都会で十分遊んだ経験があるので、農家の子供にも一目置かれた。だからいじめには全く遭わなかった。一方、近くの寺に集団疎開で来ていた都会の子供達は遊びを知らないので常にいじめの対象になっていた。
 田舎の遊びの中で、特に記憶に残っているのは、鳥を捕る罠を仕掛ける方法、松の幹から出る甘い蜜を探すこと、地蜂の巣の探し方と掘り方であった。

3.鳥の罠
 鳥の居そうな森に行き、先ず直径1センチ、長さ4、50センチ程度の二本の棒を15センチほど離して垂直に立てる。この棒は十分深く差し込んで置く。次に下から20~30cmの所に鳥が止まりそうな二本の棒を横にして、先ほど差し込んだ縦棒を挟んでくくりつける。その上に長さが12cm、太さ1.5cm程の横棒を置く。
 次に2メートルほどの撓る棒を用意して、上記の横棒と直角な方向に1.5メートルほど離して地面に差し込む。そこいらに生えている細い木をそのまま利用しても良い。その先端に二本の丈夫な凧糸を縛り付け、曲げて撓らせ、二本の糸を、先ほど結わえ付けた二本の横棒の間を下から通してその上に置いた12cmの横棒の両端に結わえ付ける。
 この横棒をバネに逆らって引き上げておいて、枝の付いた10数cm程度の棒を縦に外れそうに挟んで、つっかえ棒とする。そのつっかえ棒の枝に餌を付けておくと、横木に止まった鳥が餌をつつくと、つっかえ棒が外れて鳥が挟まる仕掛けになっている。
実際にはなかなか捕れないもので、一年間居たが、結局一度も鳥は捕れなかった。それよりも作りながら手を挟んでしまって、ひどい目に遭ったことを覚えている。

4.甘い松ヤニ
 森に行くと、太い松が所々にある。何らかの理由で付いた松の幹の傷から、よく松ヤニが出ている。出口のヤニは粘っこく、やや黄色みがかった飴のような形で流れ出ているが、廻りの乾いた部分は、砂糖が溶けたように不透明でカリカリの固まりになっている。このヤニはいわゆる”松ヤニ”で、口に入れようものなら臭くて渋くて、とても食べられたものではない。

 一方、幹の中腹に巻き付くように大きな瘤が出来ている松がある。大きさは人の頭ほどもある。この瘤の小さな割れ目の中に、透明に近い黄色い玉状のヤニが出ていることがある。その玉は、直径1~2ミリ程度で、大小幾つも出ている。それを細い楊枝のような枝を使って掬い出して舐めると、水飴の様な甘い味がする。中に虫が巣くっているのか、病気なのかは分からない。だから松の樹液なのか、虫の出す液なのか未だに分からないが、兎に角甘いのである。戦争中で砂糖がなかったため、子供達にとっては嬉しいお菓子であった。  

 この水飴が珍しかったので、大人になってからアウトドア派の人に聞いてみるが、誰もそんなものは知らないと言う。自分でも山に行き、瘤のある松に出会う度に調べてみるが、今のところ蜜の出ている瘤に出会ったことがない。 

5.地蜂捕り
 田舎では、地蜂は縁側や花によく来るので誰でも知っている。尻尾が黒と白の縞模様で、足長蜂より一回り小さい体をしている。田舎の子は巣を見つけだして蜂の子を取るのが目的だが、東京から疎開した我々には蜂の子を食べる習慣がないので、巣を見つけて掘り出し、田舎の子にあげるか、巣の大きさを競うだけである。

 地蜂は地中に巣があるので、場所が分かれば取るのはそれほど難しくない。如何に刺されないように取るかだけである。  

 田舎には蛙が何処にでもいる。小さな赤蛙を捕まえて、残酷だが、足を裂き、股の肉を米粒大に千切り、用意した真綿の先端を細く撚り、肉に結わえ付ける。残りの部分はふわっとした真綿のままにしておく。その肉を地蜂の来そうな庭の花壇の柵の上に置いておくと、簡単に地蜂がくわえて、一直線に巣へ向かって飛んでいく。子供達は真綿の白さを目印にして、追いかける。  

 裏山の余り深くないところに大きな杉の木立があり、その下には古い杉の葉が厚く堆積して堆くなっている。その横にある穴から真綿に結びつけられた蛙の肉が運び込まれた。  

 早速近くの杉の枯れ葉を集め、燃やして煙を巣に扇ぎ込む。二三十分燃やすと殆どの蜂の動きが止まる。そこを手で掘る。一枚一枚が2~30センチもある大きな皿を伏せたような形で、十段重ねもある巣が現れる。それを一枚づつ取り出し、地べたに上向きに並べて成果の大きさに酔う。未だ動いている蜂も沢山居る。時に「ぶーん」と飛び出す奴もいる。我々はそれ以上は用がないので土地の子に始末を任せる。  

 この他に、藤の花などに来る、彼等が「団子蜂」と呼ぶ丸い大きな蜂を捕まえて体を裂き、中の密袋の密を舐める事もよくやった。でもこれは不透明で余り旨くない。
 こんな事を繰り返していて、何度か蜂に刺されたことがある。やはり大きい蜂ほど痛い。幸いにして雀蜂には刺されたことはなかった。

6.遊びの失敗
 東京の遊び、田舎の遊びを通じて失敗も幾つか有る。
 ある日、登り慣れた二抱えもある大きな桜の木に登り、一頻り、てっぺんで郭公の鳴き真似などをして遊んだ後、帰ろうと思い、慣れた手つきで降りてきたが、最後の太い部分で、掴んだ筈の枝に指が廻らず、二メートル下に尻から落ちた。
下は偶然比較的軟らかい土であったため大きな尻の形の凹みが出来ただけで無事であった。自信を持って掴んだ積もりが外れたので、体には無理な力や回転などが掛からずそのままの形で落ちたことと、下に張り出した大きな根と根の間であったため助かったのである。

 小学校の高学年の頃だったと思う。ある夜、彫刻刀を使って版画を彫っていたが、手が滑って左の親指の付け根をまともに突いてしまった。その頃は子供が刃物を持って工作することは、ごく当たり前の事であったので、両親は特に注意をするでもなかった。
傷はかなり深かった。母親は咄嗟に親指の根っこを押さえ、戦後流行った新興宗教まがいの方法で、反対側の掌を振るわせながら傷に向けて祈るようにかざした。どんな薬を塗ったか覚えていない。包帯に血が滲んでいたのを覚えている。 戦後は医者どころではなかったことと、新興宗教に少し興味をもっていた両親の判断で、結局医者には行かなかった。完治するまでにどの位日にちが掛かったか記憶にないが、幸い膿みもせずに治った。

 両親は、そんな事故があっても、「刃物を使うな」とは言わなかった。また使い方を教えるでもなかった。
今でも左親指の付け根辺りにその傷跡が微かにあり、触ったとき一寸違和感がある。

 子供の頃の怪我で最も多かったのは、鎌で刈った笹藪の切り株を足で踏み抜くことであった。裏の笹藪は、ゴミ捨て場にならぬよう、所有者が時々鎌で刈っていた。本来破傷風などの心配をしなければいけなかった筈であるが、当時は殆ど無頓着であった。  

 また、道端に落ちている古釘で足を踏み抜くことも多かった。その頃は未だ下駄や木のサンダルが多く、下駄の端で跳ね上げた釘を踏むのか、はみ出した踵に刺さり、踵の横まで貫通することもあった。
それでも医者に行ったことはなかった。確かアカチンを塗って絆創膏を貼った程度だと思う。それが元で足が効かなくなったと言う話は聞いたことがないが、偶々そうだっただけで、傷が元でひどいときには死んだ子供も当然あったと思う。

 実際このような怪我ではないが、小学校の頃、同級生が二人亡くなった。一人は井戸端で雷に打たれて亡くなった。もう一人はプールの排水溝に吸い込まれて亡くなった。40~50人のクラスだったから、4%以上の割合で子供は事故にあって死んでいることになる。小学校前後の事故まで入れると、もっと多くなる。
 同級生ではないが、植木屋の子供が、父親の仕事場で遊んでいて、誤って膝を鉈でひどく切ってしまった事があった。その後ずっと足が不自由であった。

 子供が大きくなるまでには色々な危険と隣り合わせで遊ぶ。残っている子供は幸運にも致命的な怪我がないだけのことである。子供は自由に遊ぶので、親は数ある危険を細部まで教えてやる訳には行かない。子供は自分が学んだ怖さと、経験した痛さと言う判断尺度だけで世の中の危険に対処していくのである。  

 極端なことを言うと、昔の子供は意志とは無関係に数々の危険に遭遇し、普通の動物と同じように、生き残った物だけが大人になったのである。だから危険体験の密度が現代の子供よりずっと濃いのである。  

 最近はその様なチャンスが減った。以前は学校で好き嫌いに無関係に闘争心を煽る運動をやらされた。しかし現代では、運動会で棒倒しも騎馬戦も組み体操も殆どやらなくなった。変わって、面白さで選ぶ知的なゲームが多くなった。だから柔道、剣道、空手などを習っている子供は、何処か優越感を持っていて、いじめには縁がない。私は体は大きくなかったが、骨太で、小学校の頃、相撲が強く、”大関”の資格が与えられていた。そのため、温和しくて目立たぬ子供であったが、いじめには縁がなかった。  

 最近気が付いたことであるが、都会に育った大学生の半数はボールを投げるとき何処か女性が投げる仕草になっている。一方、地方出身の学生は例外なく旨く投げる。だから「都会育ちの学生と地方出身の学生は、頭の中でも異なる思考をしているのだろうなあ」と思う。筋肉を通して覚えた経験的思考と、知識だけによる思考との間には、きっと大きな隔たりがあるのではないかと思う。  

 自然から学んだ思考はハード、ソフト共に強く、知識から学んだ思考はソフトだけに強いような気がする。だからバランスの取れた人材を育てるには、子供の時から、どちらの遊びもやらせる必要がある。

★46章 つらら(1999.2)

★47章 霧氷


 

★48章 スキーシーズン(2000.1./2003.3)

 八千穂の別荘地から車で20分の所に村営スキー場がある。
 八ヶ岳連峰の東側は積雪量が多くないので、人工雪が主であるが、標高1700メートル前後と高いため、雪質は非常に良い。
村営なので、このスキー場には家族が昼食持参で休める小綺麗でゆったりした無料休憩所が有る。我々は昼少し前に出かけて、午前中一時間、午後一時間ほど滑って帰る。その間、休み時間をたっぷり摂るので、この休憩所は有りがたい。

 標高1800メートルのリフトの頂上からは、北に雪を被った浅間山、東に荒船山、南東に奥秩父の金峰山等が一望できる。

 スキーシーズンになると、別荘地の住人に、リフトの割引シーズン券申込書が送られてくる。地代、固定資産税を納めているので、村民と同じ割引率でシーズンリフト券が買える。五十五歳以上は更に割り引きされる。
我々はシーズン中10数日行くので、行くたびにリフト券を買わなくて良いのでとても便利である。

 ここに来るスキーヤーの中で、我々は何時もダントツの最年長である。五十を過ぎたと思われるスキーヤーは殆ど見掛けない。夫婦共にやる場合を除いて、歳を取ってまでは、なかなか続かないスポーツなのである。

 山小屋ができて、頻繁に来るようになると、自然に家内もやるようになり、何時か二人でシーズンを待ちわびるようになっていた。

 しかし、八千穂に行って二年目のシーズンだった。スキーにはまった家内がスキー学校に入ったため、私は多少疲れ気味であったが、手持ちぶさたなので、一人で少し急なゲレンデを滑っていたが、うっかりアイスバーンで転倒し、初めて骨折を経験した。MRIで見て貰うと、右足のすねの骨にひびが入り、靱帯伸張、半月版損傷であった。三、四ヶ月は松葉杖であった。

 60歳にして生まれて初めての怪我であったが、凝り性もなく次のシーズンには再び滑っていた。今ではどっちの足を折ったのか自分でも勘違いするほどである。車の運転ができなかったから右足であると覚えている。まだ仕事は現役であるので、みんなに迷惑を掛けてはいけないと、大事をとり、金具の締め具合を緩くして、すぐ外れるようにして置いたが、実はこれが危険で、ちょっと重い雪や深い雪に入っただけで外れてしまい、大転倒になるのである。それからはやや強く締め、慎重に滑っている。

 それ以来、家内と二人で初心者コースで滑っているが、時々少し急なコースを取る。急なコースはやはり力が入るので疲れる。また怪我をして会社の仲間に迷惑が掛かってはいけないと思うので、自重している。それでも66歳になっても滑ることが出来るのは有り難いことだと感謝している。

 家内ももうすぐ還暦であるが、めっきり腕を上げてきた。少し急なコースでも、速度は遅いが、何とか安全に降りてくる。山小屋を建てた頃、殆ど素人だったことを考えると、不思議な気がする。昨年は、子供のお古のスキーと靴とストックを捨てて、新調し、今年はウェアーも新らしくなった。私が選んだウェアーがすっかり気に入って、今年はなんとしてもウェアーに負けないように綺麗に滑るのだと張り切っている。

 その後、不思議なことに二人とも少しずつ上達している。2003年の今ではこのスキー場の一番急なゲレンデでも、余り迷わず降りてくるようになった。家内は?歳、私は68歳である。 先日草津の振り子沢と清水沢を何度も滑った。 そこでは、何と草津の全てのコースを滑りまくる84歳と76歳の夫婦が居た。上には上がいるものである。  

★49章 スキーの思い出  (1998年)

 スキーを始めて、かれこれ45年になる。一シーズンに一度も行かなかった年は一度か二度だったように思う。1.スキーツアー

 かつてのスキー旅行では、石油ランプがブル下がった山小屋に泊まって、土間に据えられた薪ストーブを囲んで、山談義やスキー談義に花が咲いたものである。

 時代と共にスキーの楽しみ方も変わってきた。昔のツアーコースにはゴンドラが掛かったり、ゲレンデになってしまった所も多い。そのため、ツアーコースが減り、シールを着けて登山したり、山から山へ渡り歩くコースが随分少なくなった。
  それでも、若い山岳部の連中が、我々の若いときのように、大きな荷物やスキーを担いで山に登って行くのを見ると一寸安心する。

 我々も若い頃はよくスキーツアーに行った。思い出してみると、福島県岳温泉から安達太良山へのツアー、志賀高原の横手山から草津へのツアー、蔵王のどっこ沼から地蔵岳、更にお釜へのツアー、白馬八方尾根の黒菱小屋から唐松岳第一ケルンへのツアー、天神平から谷川岳へのツアー、菅平から樹氷の見られる根子岳へのツアー、赤倉から関、燕温泉へのツアーなど、装備の不十分な時代であったが、厳しくも思い出深いツアーであった。

 またこれらのツアーには、何時も良きリーダーが付いていて、夜ともなれば、ストーブを囲んで、安いウイスキーをチビリチビリやりながら、ツアーの注意、装備の話、そして数々の経験談を聞かせてくれた。彼は、初心者を連れていくので、安全のため、ツアー当日は人より3時間も早く起きて、皆の知らない中にその日のコースを全て下見して来ていた。これには吃驚した。人の面倒を見るとは、そこまでやるのだと、不言実行で教えてくれた。

2.HOMEスキー   その後大学の時の友人四人でHOHM(日野、小沢、橋本、三井の頭文字)と言う名のスキークラブを作った。親戚、知人、会社の仲間などを毎年20人位連れて正月休みには必ず白馬山麓の南小谷のスキー場に出かけた。そこは今では白馬コルチナスキー場とハイカラな名前で呼ばれている。宿は農家の座敷で、初期の頃は、建物に入っていくと馬が「ぬーっ」と顔を出した。宿の人達は素朴で、皆とても良い人達であった。行き始めた頃は、まだ小さかった宿の子供達は、小学校を経て中学に行くようになると、スキーも我々よりずっと上手くなっていた。  

 JRの千国の駅から、スキーとリュックを担いで、雪道を一時間も掛かって宿まで歩いた。更に、ゲレンデへも宿から一時間歩かなければならなかった。一晩に一メートルも雪が積もることがあった。初心者にはシールを着けさせ、スキー場まで歩かせた事もあった。ベテランはみんなの握り飯や応急修理道具をリュックに詰めて担いだ。スキー場に着くと、先輩が雪を踏み固めて初心者用のゲレンデを作った。また交代で指導する手はずを整えた。

 ゲレンデの適当なところに集合場所を作り、そこに日の丸の旗を立てて、お菓子や飲み物を置いておいた。上手い人も初心者も、そこに頻繁に立ち寄って、互いに一人にならないように配慮した。我々四人は、スキーも楽しかったが、段取りしたり、みんなの面倒を見るのが好きだったように思う。

 当時のスキーは未だ機械的に弱く、時々折る者が出た。本来ツアー用品であるが、我々はスキーの先に取り付ける金具を常に持っていて、折れたスキーの先にネジで取り付け、何とか滑れるようにした。
  そんな配慮をしていたせいか、15年続いたHOHMスキークラブの怪我はゼロであった。

3.スキーで落ちる  

 それでも、個人的に行ったスキーでは、これまでに何度も崖から落ちたり、池に落ちたりしたことがある。不思議なことに一度も大怪我はしなかった。

 最初の事故は、湯沢高原で起きた。下の布場スキー場に降りる葛折の山岳コースを滑って来て、曲がり損ない、崖から落ちた。しかし、偶然二三メートル下に有った水平二股に張り出した木の上に落ちた。しかもこれまた偶然ふんわりと立ったままの姿勢で落ちたのである。もし木がなかったら、十メートル以上下の道まで落ちただろう。木の上でスキーを外し、後から来た仲間にストックで引き上げて貰った。

 また蔵王で、霧の深い山岳コースを滑っていたとき、急に前方の大地が無くなった。気が付いたときは、五メートル下の雪原に叩き付けられていた。眼鏡、帽子は辺りに飛び散っていた。当時のスキーは外れなかったので、流れなかった。気が付くと手袋の親指の付け根が切れていた。手袋を脱いでみると、親指の付け根の皮が少し削り取られていた。傷はそれだけだった。

 更に、妙高高原だったと思う。やはり霧の中を滑っていて、気が付いたら大地がなかった。運が悪いことに、三メートル下は氷の張った浅い池であった。しかし姿勢が乱れていなかったので、空中で下が池であることに気が付き、急遽スキー前部を揚げ、体をのけぞらせ、その場で止まっても良い姿勢を作った。案の定、氷が割れてその場で立ったままの姿勢で止まった。氷の上の雪と、氷が割れてショックが吸収されたのか、無傷であった。

 まだまだある。若い頃は下手なのに、無鉄砲をしたものである。何れも運良く怪我をしなかったが、一つ間違えれば大変なことであった。

4.クロスカントリースキー

 我々の若い頃の用具に比べると、現在の用具の進歩には目を見張る物がある。特に靴の進歩は著しい。紐は全て金具に替わって、締まりが良くなった。種類が豊富だから足に合ったものを選べば、フォーミング材を足に沿って流し込む必要は殆ど無い。「すね」まで入る堅い靴によってスキー捌きも良くなった。このため後傾し過ぎて尻餅をつかないで良くなった。ストックも軽くなった。だからゲレンデで転んでいる人が極端に少なくなり、怪我も減った。

 今年は靴の進歩をそのまま感じる経験をした。
 NHKがやっている”中高年の山歩き”と言うグループがある。そのグループが募集したクロカンスキースクール(クロスカントリーをクロカンと略していう)に入り、八ヶ岳の渋温泉で、生まれて初めてクロカンスキーを経験した。

 金属エッジは無いが、スキーは軽く、歩くには全く良いのであるが、靴が編み上げの運動靴のようで、柔らかく、踝から上は頼るところがない。更に靴の先端が固定されているだけで踵は自由に上がる。
  ひとたび重心が後ろに行くと、途端に尻餅をつき、重心が前に行くと、そのままつんのめる。踵が上がったまま力が横に働くと、スキーと足が別々な方向を向き、横のバランスもとれなくなる。これがスキーの原型であったことを思い知らされた。それに比べれば、今のゲレンデスキー用具の完璧な進歩には目を見張るものがある。

 クロカンスキーの決定的な特徴は、細いことと登り易いように、スキーの裏の中心部に浅い鋸の歯形の模様が刻んであることである。前には滑るが後ろには引っかかるようになっている。スキーを雪面にぺったり付けると、その効果がより出る。
  クロカンの曲がり方は、谷足に加重し、山側の足を引いて膝を深く曲げる独特のテレマークであるが、私は慣れていないので、パラレルで曲がったが、何とかなった。しかし深雪では通用しないであろう。

 メンバーは山登りのサークルであるので、スキーなど殆どやったことのないおばさん達が多いので、家内も含めて皆七転八倒していた。

 おまえは少し見所があると、先生が山スキーを貸してくれた。靴を履き替え、シールを貼って踏み跡のないゲレンデを稲妻形に登っていく。登りだけは踵が上がるようになっているので、少し重いが、快適に登れる。

 昔はよくシールを着けてツアーに行ったものであるが、それ以来30年もシールを着けたことがない。シール自体も進歩していて昔のようにシールを紐で縛り付ける必要がない。単に複数回の接着剥離に耐える糊で貼り付けるだけである。下りはシールを剥がし、靴の踵が上がらないようにセットして、やおら新雪を快適にと言いたいが何とか転ばずに滑ってきた。勿論近代的靴のために重心の外れによる不安定さは無い。

 翌日は先生に連れられて、近くの八方台という八ヶ岳がよく見える小高い山まで1時間程度のツアーを組んでくれた。これこそクロスカントリーで、踏み跡のない林を抜けたり、山谷を渡り歩いたりして、ほんのさわりではあったが結構楽しいスキーツアーであった。

 でも、あんなに細いスキーで、新雪の野山を歩き回れば、雪の深さ分だけ潜ってしまって、とても楽しむどころではないだろう。この間は偶々良い天気で、踏み跡こそなかったが、古い雪で、固く締まっていたから歩き回ることが出来たのだ。
 だから、クロカンスキーは、もう雪が余り降らなくなった春のスキーツアーか、踏み固められたコースで、アップダウンのそれほど大きくない野山を滑る所謂競技スキー用なのであろう。

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