今の子供達は、近代的な環境で、高度で刺激的な遊びを満喫している。一方昔の子供達も、その時代に使えるあらゆる方法を使って毎日を楽しく過ごしていた。

 かつては都会と言えども多くの場合、たっぷりした自然環境に恵まれ、その中で暗くなるまで遊んだ。勉強をしろとも言われなかった。たまにタンクに水を揚げるための井戸汲み、屋根のペンキ塗り、薪割り、家庭菜園などを手伝った。  

 幼稚園にも行かないのが普通であった。友達は呼びに行けば必ず出てきて遊んだ。ただ面白いことに、構えの立派な家の子供は、何かと制約があるらしく、誘っても出て来ないことが多かった。  

  親が五月蠅い家には子供は寄りつかず、鷹揚な家には、子供が集まった。そんな家は、屋根に登っても、時々怒られるだけで、結局は子供達の遊び場になっていた。

 その家の整った庭の外れには広い林が有り、そこも我々の遊び場であった。山吹の生い茂った草むらをくり貫いて、よく隠れ家を造った。中に向き合って座り、何か密かな満足感を味わったものである。  

  家の近くに300坪程度の広場があった。そこには大きな桜の木が5、6本とその他の雑木が生えていた。そこもまた子供達の遊び場だった。小学生であったが、バットで打った球が時に近所の家に飛び込み、ガラスを割って怒られたことが一度ならずあった。

 シャボン玉が手に触れた時の感触、虹色に輝いて動く様、その割れ方、飛沫がどう飛んだか、目に入るとどのくらい痛い思いをしたか等はちゃんと覚えている。また竹の棒が折れるとどんな裂け方をするのか、割れ目はどのくらい鋭いかなどもはっきり覚えている。

 これらの経験が、男の子の身体に一杯詰まっている。子供の頃やった遊びを数えてみたら35種程有った。その中で特徴のある遊びを数個紹介してみたい。  

1.貝釣り
 貝釣りというと如何にも魚釣りのような印象を与えるが、全く異なる簡単な遊びである。
 当時井の頭公園は、我々の遊び場で、幼児の頃は勿論、小学校にあがってからも学校から帰ると週の半分以上はそこに出かけていた。その頃、上の大きな池から流れ出る川は、澄んで綺麗だった。川の縁は木製で、既に相当腐っていた。川底は部分的には砂利が敷かれ、せせらぎとなっていたが、それ以外の所は深く、かき回すと黒い泥が煙のように舞い上がり、底が見えなくなった。

 この川にはメダカ、ハヤ、鮒、ヤツメ鰻、泥鰌、ヤゴ、水澄まし、源五郎、アメンボウ、貝等が沢山居た。川の側に釣り道具や駄菓子を売っている店が一軒あった。その店の屋号は忘れたが、何故かその家の名をはっきり覚えている。「”朝倉さん”ちで釣り針を買うんだ」などと言っていた。魚釣りもよくやったが、一寸変わった貝釣りの話をしてみよう。      

 縁に這いつくばって、太陽の反射を避けて川底を見ると、貝は土の中に潜っているので直接は見えないが、あちこちに二本の水管が覗いているのが分かる。水は綺麗だが、川底は堆積物が多く、余り綺麗ではない。一寸慣れが必要であるが、水管は二本並んでいることと管の廻りが少し白っぽいので慣れると直ぐ貝だと分かる。      

 家の庭に生えている姫笹を一本折り、全ての葉をむしり取って、先に1mm程の節が付いた形にして川へ行く。
 上から見て、水管を目指して笹の棒を差し込む。失敗すると、貝は蓋を閉じてしばらくは開かない。上手く差し込むと、貝は異物の侵入に慌てて蓋を閉じる。後はそれを引き揚げるだけである。成果はシジミが多いが、時に5cmも有る黒っぽい貝が釣れることがある。名前は分からないが、それを家に持って帰る。沢山釣れれば、母親が味噌汁の具にしてくれた。別に美味しいとは思わなかったが、家族が食べてくれるのが嬉しかった。

2.コマ回し
 こま回しのコマは、中心が木で、廻りに1~1.5センチの厚さの鍛造(鉄を熱して叩いて形を作る手法)で作られた鉄が回されている、直径7、8センチ程のコマである。芯も同じく鍛造で作られていた。(戦後のコマは、鍛造でなく鋳物の鉄になったので、よく割れた)。
木の部分が少ないので子供には、かなり重い。芯の先は、買ってきたばかりの時は尖っているが、それをコンクリートの道路で回して減らして平らにする。そうすると硬い土の上でもよく回るように仕上がる。先が平坦になっていると、土の上で回したとき、潜らず、コマ全体が前後左右に動き、重心の偏りを吸収してくれるので、よく回るのである。

 回っているコマの芯が作る小さな土の溝は、水分があるため黒光りしていて、コマが動き回ると、糊のように土が外に塗り広げられて行く。その表面が何となく綺麗で、コマを止めた後、よくその溝を指で触ってみたものである。

 コマを回す紐は、芯とほぼ同じ太さで、均一で長い。先がばらけていて巻き易くなっている。ここに唾を付けて滑らないようにして芯の先から巻き上げる。ばらけた部分がそれ以上ほどけないように、細い糸を巻いて止めてある。この紐は売っていないので自分で作る。よく街で売っているコマ紐は、麻で出来ていて、先が細く、段々太くなっている。しかしこれは見場を重んずる飾りの商品で、その紐では、強い回転が得られない。回し方は、最後まで引きを入れずに力一杯投げつけて回すのである。

 ゲームの方法は、じゃんけんをして、回す順序を決める。勝ったものが後で回す。次々に可能な限り勢いよく回す。一番最後まで回っていたコマの持ち主が「天下」と呼ばれ、最後に回す権利がある。後は止まった順に回す。  

 しかしそれだけでは面白くない。後から回す者は、先に回したコマの中で最も威勢良く廻っているものを目がけて叩きつける様に回す。相手のコマの鉄の輪に自分のコマの木部が当たると、相手のコマは瞬間的に止まり、真横に飛ばされて無様に転がる。転がっている状態が、先端を頭にしていると、「誰々ちゃん、お釜」と囃され、丁度弱い猫が強い猫や人間に腹を見せる「参ったポーズ」と見なされ、次の回には一番先に回さなければならない。

  一方相手のコマをはじき飛ばした自分のコマを後から見ると、胴の木部に深い傷が付く。これを「胴引き」といって最も名誉な徴である。これが多いほど強いコマであり、回し手も得意になれる。強い子供のコマは、胴引きが多く、終いに胴が無くなるほど減ってしまう。しかし、その様になると鉄の部分が多くなり、遠心力が増すのでより長く廻るようになる。
 鉄と鉄がぶつかったときは、相手のコマは少し横に飛ばされるだけで、勢いはさほど落ちない。

 また回っているコマの真上の木部に後から回すコマの芯が当たると、回転はさほど弱まらないが、止まってからはっきりと穴が空いているのが分かる。これは「脳天」を付けられたと言って最も不名誉な徴である。家に帰ってからコマを一晩塩水に漬けて何とかふやかして消す。

 更に投げつけたとき、自分の鉄の輪が相手の輪にぶつかったときは、深くえぐったような鋭い傷が付く。この場合も相手のコマの勢いは殆ど落ちない。この傷跡は鈍い光を放ち、沢山付くほど歴戦の勇士として誇れる徴である。この種の傷のあるコマを手で止めようとすると、手がすぱっと切れる。だから「天下」の人は必ず靴や下駄で踏んで誇らしげに止める。
「天下」になる人は相手に命中させて止めるのが巧く、コマもバランスの良いコマを持っている。

 このゲームには物のやり取りはないが、相手を叩きつぶすという男の子の闘争心を煽るものがあり、延々と続く。時にはいわゆる生意気な子のコマが集中的に狙われる。一種のいじめである。いじめを受けても、その子は遊んで貰える事を優先して、必ず出てくる。夜になると鉄と鉄がぶつかりあう度に火花が出て一層熱が入る。しかし暗くなって家に帰ると締め出しを食らい、さんざん絞られるという「おまけ」が付く。

 戦争中、縁故疎開で、一年間栃木の田舎で過ごした。小学校3年の時であった。ここでも都会と違う数々の遊びを覚えた。喧嘩もした。生きるために買い出しにも行ったし、堆肥作りを含めて農業も一通りやった。遊びの種類は一年間で12種類くらい経験した。
 都会で十分遊んだ経験があるので、農家の子供にも一目置かれた。だからいじめには全く遭わなかった。一方、近くの寺に集団疎開で来ていた都会の子供達は遊びを知らないので常にいじめの対象になっていた。
 田舎の遊びの中で、特に記憶に残っているのは、鳥を捕る罠を仕掛ける方法、松の幹から出る甘い蜜を探すこと、地蜂の巣の探し方と掘り方であった。

3.鳥の罠
 鳥の居そうな森に行き、先ず直径1センチ、長さ4、50センチ程度の二本の棒を15センチほど離して垂直に立てる。この棒は十分深く差し込んで置く。次に下から20~30cmの所に鳥が止まりそうな二本の棒を横にして、先ほど差し込んだ縦棒を挟んでくくりつける。その上に長さが12cm、太さ1.5cm程の横棒を置く。
 次に2メートルほどの撓る棒を用意して、上記の横棒と直角な方向に1.5メートルほど離して地面に差し込む。そこいらに生えている細い木をそのまま利用しても良い。その先端に二本の丈夫な凧糸を縛り付け、曲げて撓らせ、二本の糸を、先ほど結わえ付けた二本の横棒の間を下から通してその上に置いた12cmの横棒の両端に結わえ付ける。
 この横棒をバネに逆らって引き上げておいて、枝の付いた10数cm程度の棒を縦に外れそうに挟んで、つっかえ棒とする。そのつっかえ棒の枝に餌を付けておくと、横木に止まった鳥が餌をつつくと、つっかえ棒が外れて鳥が挟まる仕掛けになっている。
実際にはなかなか捕れないもので、一年間居たが、結局一度も鳥は捕れなかった。それよりも作りながら手を挟んでしまって、ひどい目に遭ったことを覚えている。

4.甘い松ヤニ
 森に行くと、太い松が所々にある。何らかの理由で付いた松の幹の傷から、よく松ヤニが出ている。出口のヤニは粘っこく、やや黄色みがかった飴のような形で流れ出ているが、廻りの乾いた部分は、砂糖が溶けたように不透明でカリカリの固まりになっている。このヤニはいわゆる”松ヤニ”で、口に入れようものなら臭くて渋くて、とても食べられたものではない。

 一方、幹の中腹に巻き付くように大きな瘤が出来ている松がある。大きさは人の頭ほどもある。この瘤の小さな割れ目の中に、透明に近い黄色い玉状のヤニが出ていることがある。その玉は、直径1~2ミリ程度で、大小幾つも出ている。それを細い楊枝のような枝を使って掬い出して舐めると、水飴の様な甘い味がする。中に虫が巣くっているのか、病気なのかは分からない。だから松の樹液なのか、虫の出す液なのか未だに分からないが、兎に角甘いのである。戦争中で砂糖がなかったため、子供達にとっては嬉しいお菓子であった。  

 この水飴が珍しかったので、大人になってからアウトドア派の人に聞いてみるが、誰もそんなものは知らないと言う。自分でも山に行き、瘤のある松に出会う度に調べてみるが、今のところ蜜の出ている瘤に出会ったことがない。 

5.地蜂捕り
 田舎では、地蜂は縁側や花によく来るので誰でも知っている。尻尾が黒と白の縞模様で、足長蜂より一回り小さい体をしている。田舎の子は巣を見つけだして蜂の子を取るのが目的だが、東京から疎開した我々には蜂の子を食べる習慣がないので、巣を見つけて掘り出し、田舎の子にあげるか、巣の大きさを競うだけである。

 地蜂は地中に巣があるので、場所が分かれば取るのはそれほど難しくない。如何に刺されないように取るかだけである。  

 田舎には蛙が何処にでもいる。小さな赤蛙を捕まえて、残酷だが、足を裂き、股の肉を米粒大に千切り、用意した真綿の先端を細く撚り、肉に結わえ付ける。残りの部分はふわっとした真綿のままにしておく。その肉を地蜂の来そうな庭の花壇の柵の上に置いておくと、簡単に地蜂がくわえて、一直線に巣へ向かって飛んでいく。子供達は真綿の白さを目印にして、追いかける。  

 裏山の余り深くないところに大きな杉の木立があり、その下には古い杉の葉が厚く堆積して堆くなっている。その横にある穴から真綿に結びつけられた蛙の肉が運び込まれた。  

 早速近くの杉の枯れ葉を集め、燃やして煙を巣に扇ぎ込む。二三十分燃やすと殆どの蜂の動きが止まる。そこを手で掘る。一枚一枚が2~30センチもある大きな皿を伏せたような形で、十段重ねもある巣が現れる。それを一枚づつ取り出し、地べたに上向きに並べて成果の大きさに酔う。未だ動いている蜂も沢山居る。時に「ぶーん」と飛び出す奴もいる。我々はそれ以上は用がないので土地の子に始末を任せる。  

 この他に、藤の花などに来る、彼等が「団子蜂」と呼ぶ丸い大きな蜂を捕まえて体を裂き、中の密袋の密を舐める事もよくやった。でもこれは不透明で余り旨くない。
 こんな事を繰り返していて、何度か蜂に刺されたことがある。やはり大きい蜂ほど痛い。幸いにして雀蜂には刺されたことはなかった。

6.遊びの失敗
 東京の遊び、田舎の遊びを通じて失敗も幾つか有る。
 ある日、登り慣れた二抱えもある大きな桜の木に登り、一頻り、てっぺんで郭公の鳴き真似などをして遊んだ後、帰ろうと思い、慣れた手つきで降りてきたが、最後の太い部分で、掴んだ筈の枝に指が廻らず、二メートル下に尻から落ちた。
下は偶然比較的軟らかい土であったため大きな尻の形の凹みが出来ただけで無事であった。自信を持って掴んだ積もりが外れたので、体には無理な力や回転などが掛からずそのままの形で落ちたことと、下に張り出した大きな根と根の間であったため助かったのである。

 小学校の高学年の頃だったと思う。ある夜、彫刻刀を使って版画を彫っていたが、手が滑って左の親指の付け根をまともに突いてしまった。その頃は子供が刃物を持って工作することは、ごく当たり前の事であったので、両親は特に注意をするでもなかった。
傷はかなり深かった。母親は咄嗟に親指の根っこを押さえ、戦後流行った新興宗教まがいの方法で、反対側の掌を振るわせながら傷に向けて祈るようにかざした。どんな薬を塗ったか覚えていない。包帯に血が滲んでいたのを覚えている。 戦後は医者どころではなかったことと、新興宗教に少し興味をもっていた両親の判断で、結局医者には行かなかった。完治するまでにどの位日にちが掛かったか記憶にないが、幸い膿みもせずに治った。

 両親は、そんな事故があっても、「刃物を使うな」とは言わなかった。また使い方を教えるでもなかった。
今でも左親指の付け根辺りにその傷跡が微かにあり、触ったとき一寸違和感がある。

 子供の頃の怪我で最も多かったのは、鎌で刈った笹藪の切り株を足で踏み抜くことであった。裏の笹藪は、ゴミ捨て場にならぬよう、所有者が時々鎌で刈っていた。本来破傷風などの心配をしなければいけなかった筈であるが、当時は殆ど無頓着であった。  

 また、道端に落ちている古釘で足を踏み抜くことも多かった。その頃は未だ下駄や木のサンダルが多く、下駄の端で跳ね上げた釘を踏むのか、はみ出した踵に刺さり、踵の横まで貫通することもあった。
それでも医者に行ったことはなかった。確かアカチンを塗って絆創膏を貼った程度だと思う。それが元で足が効かなくなったと言う話は聞いたことがないが、偶々そうだっただけで、傷が元でひどいときには死んだ子供も当然あったと思う。

 実際このような怪我ではないが、小学校の頃、同級生が二人亡くなった。一人は井戸端で雷に打たれて亡くなった。もう一人はプールの排水溝に吸い込まれて亡くなった。40~50人のクラスだったから、4%以上の割合で子供は事故にあって死んでいることになる。小学校前後の事故まで入れると、もっと多くなる。
 同級生ではないが、植木屋の子供が、父親の仕事場で遊んでいて、誤って膝を鉈でひどく切ってしまった事があった。その後ずっと足が不自由であった。

 子供が大きくなるまでには色々な危険と隣り合わせで遊ぶ。残っている子供は幸運にも致命的な怪我がないだけのことである。子供は自由に遊ぶので、親は数ある危険を細部まで教えてやる訳には行かない。子供は自分が学んだ怖さと、経験した痛さと言う判断尺度だけで世の中の危険に対処していくのである。  

 極端なことを言うと、昔の子供は意志とは無関係に数々の危険に遭遇し、普通の動物と同じように、生き残った物だけが大人になったのである。だから危険体験の密度が現代の子供よりずっと濃いのである。  

 最近はその様なチャンスが減った。以前は学校で好き嫌いに無関係に闘争心を煽る運動をやらされた。しかし現代では、運動会で棒倒しも騎馬戦も組み体操も殆どやらなくなった。変わって、面白さで選ぶ知的なゲームが多くなった。だから柔道、剣道、空手などを習っている子供は、何処か優越感を持っていて、いじめには縁がない。私は体は大きくなかったが、骨太で、小学校の頃、相撲が強く、”大関”の資格が与えられていた。そのため、温和しくて目立たぬ子供であったが、いじめには縁がなかった。  

 最近気が付いたことであるが、都会に育った大学生の半数はボールを投げるとき何処か女性が投げる仕草になっている。一方、地方出身の学生は例外なく旨く投げる。だから「都会育ちの学生と地方出身の学生は、頭の中でも異なる思考をしているのだろうなあ」と思う。筋肉を通して覚えた経験的思考と、知識だけによる思考との間には、きっと大きな隔たりがあるのではないかと思う。  

 自然から学んだ思考はハード、ソフト共に強く、知識から学んだ思考はソフトだけに強いような気がする。だからバランスの取れた人材を育てるには、子供の時から、どちらの遊びもやらせる必要がある。