都会で通勤バスを降りる。人いきれのする車内から外の冷たい空気に触れると、鼻がツンとして冬の匂いを感じる。この匂いは子供の頃からの冬の徴であり、私の生まれ育った雑木林と畑に接した武蔵野の思い出と繋がる。少年の頃そこで初めてこの匂いに気が付き、大人になった今でも冬になると必ず感ずる匂いである。
子供の頃、雪が降ると「日曜だったらなー」と何時も思ったものである。日曜なら朝から雪で遊べるからである。大雪ならなお嬉しい。朝、外へ飛び出すと決まってあの独特の雪の匂いを感ずる。冬の寒さの匂いとは少し違い、湿っぽい匂いが加わる。寒い日には、指で掬うと指に絡まり、昼頃になると、雪の結晶は縁が解けて黒い粒粒に見え、少し埃っぽい匂いを伴っている。
冬の夕暮れに、竃から漏れる煙が、何時も遊んでいる広場にも、うっすらと流れ込み、低く棚引く。ぐっと冷え込んだ広場に、かすかだがハッキリと燻された匂いが漂う。この匂いは「家に帰る時間だよ」と言っているような、忘れられない冬の思い出である。
山に来るようになって、冬の朝には、昔の武蔵野の空気と同じように、「ツン」とした冬の匂いを感ずる。また冬の夕暮れには、都会では既に失われてしまったが、燻されたような匂いが漂ってくる。里に下りるとこの匂いはもっと確かなものになる。最近は農家でも火を炊いて夕げの支度をする家は殆どないが、秋の収穫で積み上げられた藁を燃したり、野焼きをすると、子供の頃遊んだ冬の広場の匂いが漂い、一緒に遊んだ友達の顔が浮かんでくる。
春になると三寒四温の合間に暖かいそよ風が吹く日がある。木の芽も僅かに膨らみ、冬の匂いが薄らいで柔らかい春の匂いに変わる。そんな日は温度が上がるだけでなく湿気が少し増え、目に見える世界も徐々に変わるため、鼻だけでなく皮膚に感ずるさわやかさや、目に映るかすかな変化が合わさって春の匂いを醸し出す。
春が進むと、この匂いは、草木の活動や気象の変化を反映して匂いと言うより、もっと五感に迫る大波のような圧力に変わる。昔の人はこの力を「春の声」、或いは「春の息吹」等と能動的に表現した。
私の、庭での作業も活発になり、鉈で杭を尖る時の木の匂い、枕木を切って出るおがくずとクレオソートの匂い、そして汗の匂いが充満する。砂利独特の埃臭い匂い、セメントをこねる匂い、チェーンソウの油の匂い、ベニヤ板の加工の匂い、肥料の匂い、殺虫剤の匂い等、人工的な匂いが溢れ、私の季節が始まる。
そんな雰囲気が桜の花、藤の花、あかしやの花の匂いとなり、草いきれとなっていく。土の匂いも埃っぽさから湿った土臭い匂いに替わる。木や草を手折ると、これまでのかさついた匂いから青臭い匂いに変わり、若い生命を感じるようになる。そしていつの間にか夏の匂いになっていく。
夏の空気には特別な匂いを感じないが、子供の頃のプールでのカルキの匂いとすえ臭い匂いが「好かない匂いだったなあ」と思い出される。
秋の匂いは茸の匂いで始まる。個々の茸独特の芳香、美しい襞、繊維質の茎などが舌を擽る。「衣笠茸」の頭の臭い匂いも時々混じる。 秋の山の草花は色が濃いばかりでなく概して匂いが強い。桔梗、リンドウなどが色々な匂いをまき散らす。
薔薇は未だ山小屋では本格的に始めていないが、ミニ薔薇を何本か植えてある。鼻を付けるとかすかに臭う。薔薇は寒冷地でもよく咲くので来年辺りから、また始めようと思っている。
最近は、お茶の匂いの混ざったような強烈な匂いを放つ朱色の「トロピカーナ」や蟻が近づくのではないかと思われるほど、とろりとした甘い匂いを発する薄紫の「ブルームーン」のような薔薇が少なくなった。今は昔と違う”変わった”薔薇を創り出すことに力点が置かれているようである。
アマチュアの薔薇コンテストでは、花の姿形、花の色、花の匂い、花首の長さ、茎を含む全長、花保ち、葉の艶と傷みの無さ、棘の少なさ等で評価される。これらの条件を満たす種は概して余り丈夫ではない。手入れを怠ると消えて無くなる。薔薇の主な世話は、日照、土壌の質が十分整ったとして、剪定、施肥、消毒、水やり、マルチング、シュート(新芽)の管理、草取り等である。更に手入れのタイミングが大切である。だからとても手が掛かる。それだけに整った薔薇が咲いたときは嬉しい。沢山咲くと花首をもぎ取り大きな網の袋に入れて風呂に浮かべる。ほんのり匂う薔薇風呂は目を瞑ると天国の夢が広がる。
百合の花は1200メートルのこの地では余り大きくならず、あの強い花粉の匂いを出すまでにはなかなかいかない。村の人に聞くと、高さや寒さではなく、どうやらモグラが根っこを食べてしまうかららしい。
秋の焚き火も嬉しい。落ち葉や枯れ枝を何抱えも集めて燃やす。焼き芋は何時になっても楽しい。囲炉裏で焼くサンマや岩魚の匂いもまた格別である。時には岩魚や肉の燻製を作る。桜、ヒッコリー、クヌギのチップをくべ、下から加熱すると表面が栗色になり、何とも良い香りが漂う。 ある日、国道299号を西に向けて車で八ヶ岳を登り、麦草峠を越え、蓼科に行った。そこに旧華族の別荘を改装した、お伽噺に出てくるようなホテルがある。その裏庭に立派な燻製小屋がある。煉瓦作りのモダンな燻製小屋で、正面に作者の名が横文字で入っている。扉の手打ちの鉄飾りと蝶番がまた良い。それは十分使い込まれ、周りは煤と脂で黒飴色に変色している。近づくと燻製小屋独特の匂いが「プン」とする。「よしっ、これを山小屋に作ってやるぞ」と決めた。未だに出来ていないが、色々な方向から見た写真だけは撮って有る。いつかこれを参考にして独特の設計で作ってやろうと思っている。
その燻製小屋の側に薄荷の草が何本か生えていた。懐かしくなって一本失敬して山小屋に持ってきて植えた。三年経った今では何十本にもなって土手にはびこっている。意外に強い多年草である。北海道の北見で有名なくらいだから寒さにも強い。葉を切りとったりもんだりするとすっきりした薄荷の匂いが辺りに広がる。時には芽先を摘んで私の長年の趣味であるカクテルのアクセサリーに使う。
匂いというものは、そのエッセンス、気温、湿度だけでなく、目から入る情報、肌の感覚、時には音までも含めて醸し出される。人は実際の匂いに加えて、自分の経験に基づく仮想の世界を作り、そこに演出される想像的な匂いを嗅ぎ取っているように見える。匂いは以外に心理的であり、奥の深いものである。香道と言うものがあるくらいだから当然かも知れない。