親しい友人が箱根にマンション別荘を持っているので、時々泊まりに行く。
また女房が早稲田の成人学校で知り合いになった永野さんという方も長野県八千穂に別荘を持っているという。
女房が茶飲み話の中で「一体どんなところなの?」等と聞いているうちに、「まだ空いているところがあるかどうか聞いてあげましょうか?」と言う話になった。「別に買える訳でもないし、欲しい訳でもないけれど、別荘とは一体どんなものかを知るために、何か解ったら教えて」で始まった話が、ひょんな事になった。
前記の友人が、新たに蓼科の別荘地を買ったので、見に行くという。八ヶ岳周辺は若い頃からよく歩いた場所で、私も大好きな所だから、「景色見がてら一緒に行こう」と言うことになった。
蓼科の別荘地は如何にも別荘地らしく雰囲気も垢抜けしていて、素晴らしかった。
値段を参考までに聞くと、やはり我々には到底手が届かない途方もないものであった。「別荘とはそう言うものなのか」と、改めて納得した。
帰り道に、「永野さんが居る八千穂の別荘地にも寄って見よう」と言うことになった。蓼科から国道299号を登り、麦草峠で八ヶ岳を跨ぎ、反対側の八千穂村に出る8キロメートル程手前にある別荘地である。道路地図を見ると小さく別荘地と記されている。
そこは国道299号を挟んで両側に展開する比較的大きな別荘地であった。区画は500~600程有り、300~400軒は建っている様に見える。
別荘地と言っても、いわゆる造成した土地ではなく、自然の山林を区画しただけで、簡易舗装道路と、電気、水道があるだけの凹凸の激しい山であった。
八千穂村の事業として30年ほど前に開発したもので、鬱蒼とした森は、自然そのものであるが、我々が持っている別荘地の概念とは少し違っていた。それでも区画はどれも300坪から500坪とゆったりしている。村営であるので、売り地ではなく借地であった。
借地期間は25年で、蓼科の買い取りと比べると価格は七、八分の一程度であった。財産ではなく、自分たちが生きている間だけ楽しめば良いと考えると、借地の方が効率的である。
値段もさることながら、山や林が自然のままなのが気に入った。丁度25年の書き換えで、家の建っていない土地が沢山余っていた。
その中に南北の二つの道路に挟まれた、南斜面で景色の良いところがあった。公称310坪ほどであるが、傾斜地であることと、下端の矩が十分取ってあるため、表面積は350坪は悠にある。
道路を挟んで北の背後は少し緩い傾斜地であるが、未だ売れていない。その上は尾根の頂上になっている。
この土地の斜度は20度から25度で、下の道路の向こう側に一軒、更にその下に一軒の家が建っているが、夏は鬱蒼とした森に遮られて全く見えない。
その先はぐっと下って小さな渓流があり、其処までが別荘地である。その向こうには八ヶ岳から延びた白樺尾根が左に流れ、遠景を成している。更にその先には幾重にも尾根が並び、正面に2,742mの硫黄岳が爆裂口を見せて「どん」と座っている。
もう一つの候補地は、背後の尾根の頂に有り、ほぼ平地で500坪ほどあった。土地柄は非常によいが、自分の敷地の木を切っただけでは眺望が得られない。南隣りがどれだけ切ってくれるかで景色が決まる土地であった。
今七年程住んでみて、やはり傾斜地が正解であったと思っている。
此処なら値段も手の届くところにあり、東京からの時間も2.5時間程度で来られる距離である。好きな八ヶ岳にも登れるし、車で15分も行けばスキー場もある。山菜も楽しめるし、好きな土木工事もできる。買い物は村まで車で8分程度で降りられ、その先には大きなスーパーがいくつもある。急に現実感が出てきた。
1992年の夏、二回目に訪れたときには、既に決めていた。その山一帯の別荘を手がけていた大工さんは、バブル崩壊後にも関わらず既に二年分の仕事を抱えていた。
やむなく帰り掛けに見つけた清里のログ工務店で話し込んでいると、「うちでやりましょう。甲府で息子が建築事務所をやっているから」と言う。彼は警察署長さん上がりで信頼が置けること、甲府の息子さんも山梨大学出身のしっかりした青年であったことから、早速決めてしまった。
しかし、近くの棟梁の方が気候に通じていて、職人の手配もし易いことから、甲府の建築事務所が請け負い、清里の警察署長上がりの知り合いの棟梁が建てることになった。
既に300軒以上の家を建てたと豪語する、近在の川上村に住む変わった棟梁であった。
予定外のことを、思いつきでやるわけであるから、他の生活に影響を与えないよう、費用を極力押さえた。
建物は夫婦二人が生活できればよいだけの大きさにした。平屋17坪である。平屋と言っても斜面であるので、南面は床まで四メートル近く有る。東から西へ、順に8畳(和室)、10畳(居間)、6畳(キチン)がぶっ通しの間取りである。和室のみ和洋風引き戸で仕切れるようになっている。風呂、トイレ、洗面所は合わせて二坪である。北玄関は一坪で、風除室を兼ねている。これで全てである。
押入は天袋付き四間分と浅い半間の食器戸棚で、十分とった。これだけあると家具を置かなくても済むので広く使える。
ベランダは建物とは別に二坪とった。これも建築費用と将来の塗装の観点から最低限の大きさにした。
外壁は維持費の削減を考慮して、白の焼き付けアルミのサイディングとし、塗装をしなくても良いようにした。また屋根は20年以上はそのまま保つと言われる黒の鉄板とした。それでもベランダ、屋根の庇の内側、地下の柱などは三年毎にペンキを塗っている。
棟梁は、間取りの図面を見せると、それ以後図面について何の打ち合わせも持たない。一目で全てを頭の中に入れてしまっているらしい。心配なので、各壁面の鳥瞰図を書いて意志を伝えたが、清里の警察署長上がりの大将回りであるので全く反応がない。
7月頃始まった話であったが、小さな小屋であったので、その年1992年12月26日には引き渡しとなった。
曲がりなりであったが、ほぼ希望通りになっていた。屋根は始め東西に分流する大屋根の予定であったが、二階がないので南北に分かれる普通の屋根で、両端と玄関先を近代的な面取りとしてあった。
外見も中身も都会的な小屋が出来上がった。取り立てて言うほどの特徴もない。玄関を入って風除室を通ると、家の中全てが見えてしまう構造である。
敢えて都会の家との違いを言えば、窓が全て二重になっていることと水道管にヒーターが巻いてあることぐらいである。
しかし5年以上使ってみると案外使い易かった。でも人が訪ねてくるともう一部屋欲しいと思うことがある。
山に建てるのだから山小屋風を想像していたが、山小屋のイメージを実現しようとすると、意外に大きなものになってしまうようである。小さな小屋で最低限必要な間取りとすると、山小屋風からはかけ離れた都会のマンションと似た造りになってしまうのである。
燃料購入の問題もあり、薪ストーブの計画は、9000kcalの石油ストーブに変わった。もう一台5000kcalの小型のものを用意したが全館暖房しても一台で間に合うので外してしまった。
昼間は南斜面であるため天気が良ければ、真冬でもストーブは要らない。通常金曜の夜来て、日曜の夕方帰るパターンで、年間30数回来るが、年間の石油使用量は100リットル位(自分で買いに行くので約三千円)で思ったよりずっと少なかった。
家の広さは、女房の掃除好き、料理好き、布団干し好き等を考えると、動線が短いので、案外これでよいのかも知れない。殆ど毎週来るので、生活し易いこともかなり重要な要素である。
それより、どの部屋からも硫黄岳の爆裂口を中心にした八ヶ岳と付近の山々の景色が見えるのが嬉しい。また天気が良ければ奥秩父が遠望できる。更に庭を含む周りの森林の季節毎或いは毎週の風景の移ろいの機微を考えると、家の作りは些細な事のようにも思える。
更に、「鳥やリスがやってくる窓辺があるのだから、あとは何も要らない」などと負け惜しみを言っている。それしかできないのであるなら、それを享受することである。
女房は、もう一部屋欲しかった、山小屋風が欲しかった、対面キッチンにして欲しかった、・・・等と今でも言っているが、いずれもどうしてもと言う程ではない。私も心の中では少しケチりすぎたかなと思わないではないが、一度建ててしまうと、いじるのは面倒である。どうしてもと言うことになれば建て増しすればよいのである
そうこうしている中に、ばっこ柳、壇香梅の花に始まり、蕗のトウが顔を出し、カラ松が芽吹き、梅と桃と桜が同時に満開になり、始めての八千穂の春を迎えた。
建物がどうのこうのと言う話は、素晴らしい山の春が全て吹き飛ばしてくれた。山の春はそんなに新鮮であり刺激的であった。
今年は雪が多かったが、暖冬の影響か、タラの芽がもう出てきた。そろそろ本格的な山菜の時期を迎える。こうして週末の山小屋生活が始まった。