30年ぶりの大雪も案外早く解け、3月半ばになると僅かに北側の陰に小さな汚れた雪の山を残すのみとなった。スキーシーズンも終わり、何となく暖かい日が覗くようになるが、ここしばらくは山には目に見える変化はない。壇こうばいしかし4月の半ばになり、壇紅梅が黄色い花を付けると、後は一気に進む。

 我が家の壇紅梅は、花付きが悪く、小屋から離れているので、近所の壇紅梅が咲くのを見てから慌てて確認しに行く。比較的大きい木なのに日当たりが悪いせいか何時も細々と咲いている。
その奥に、かなり太いバッコ柳の木がある。ここは日当たりが良く、春には壇紅梅より二三日早く咲く花であるが、壇紅梅を確認しに行って初めて気が付くのが常である。 初めは、なんだか淡い若草色の木が高いところにあるなと言う程度の存在であった。ある日ベランダから望遠鏡で覗くと可愛らしい猫じゃらしのような花を沢山付けたバッコ柳であった。

 壇紅梅とバッコ柳が咲くと、間髪を入れず、山桜が霞を配したように淡く山を彩る。山桜とカラマツ直径7,8センチぐらいの我が家の山桜も今年初めて10個程度の白い花を付けた。何とも初々しく心が和む。思わず花の数を数えてしまった。

 この頃からほんの少し青みがかった落葉松の芽が日一日と膨らみ始め、5月になると八千穂の山一帯は一斉に若草色の新芽で覆われる。何と美しい光景か。もう何度もこの春の息吹を目にしてきたが、落葉松の新芽は言葉に尽くせないくらい新鮮で美しい。そして地面では春を告げる”スミレ”、黄色い”キジムシロ”の花が庭の日当たりの良いところを埋め尽くして春爛漫である。

 我が山小屋の地形は凡そ東西に26メートル、南北に45メートルで、南へ25度傾斜している。傾斜がきついため、若干使いにくいが、景色はその分すこぶる良い。

 正面に八ヶ岳の中でも特異な爆裂口を見せる硫黄岳(2,742メートル)が家から見たの硫黄岳未だ真っ白い雪を被り胡座をかいたように座っている。爆裂口の中には雪を熊手で横に引っ掻いたように黒い縞が走っていて複雑な岩肌を呈している。その左後方に小さく、横岳が見えている。また硫黄岳の右側には夏沢峠の大きな凹みを隔てて、小高い双瘤のニュウの岩峰が見えている。50倍の望遠鏡を使うとニュウは勿論、硫黄岳や横岳の登山者までがカゲロウのようにゆらゆら揺れて、蟻のように動くのが分かる。五月の連休は春山登山の時期である。

 6月になると、初夏である。木々の緑もすっかり濃くなり、春蝉が五月蠅く鳴き始める。庭のあちこちに小さな抜け殻が落ちている。晴れた日は合唱が凄い。一時期花が途切れるが、6月半ばを過ぎるとアヤメがあちこちに咲き始める。緑の中に咲く濃い紫の花は清々しい。日当たりの良い土手や道ばたには桃色のツメクサが咲き乱れる。近所の佐藤さんは、ツメクサを天ぷらにする。「別にそれほど美味しいわけではないけれど、一寸綺麗なのよね」と言う。つめ草

 庭の中程まで降りて林の中から空を見上げると、広げた枝で殆ど隙間がなく、互いに空を埋めている。そのため夏は地面に木漏れ日程度しか陽が射さないので草はあまり生えない。斑に「ぽよぽよ」と生えた雑草は案外趣がある。

 林の中を歩くと足が落ち葉の中に深く沈む。同じ所を歩くと土床が固まり、そこには茸も山野草もあまり生えなくなってしまうので、散策用の小道をジグザグに沢山付けてある。

 その道には落ち葉と細い枯れ枝が堆積したり、風に吹かれてなくなったりして何となく土が出ていて森の小道を演出している。付けた道は二三年経つと昔からあった山道のようになる。森や林の植生は一年として止まっていない。

 7月になると、鳥の糞から生えるのか去年まで見られなかったリンドウやナデシコが所々に生えたり、大事にしていた河原ナデシコが急に減ったりする。山菜の王様”タラの木”もどんどん増えていると思ったら、周りの木が茂りだし、ここ二三年で大きな木が枯れて本数も減ってきた。

短い夏が終わると、落葉松林に生える茸の”はないぐち”(この辺りでは通称”リコボウ”と言う)があちこちに顔を出す。今年は直径17、8センチ、高さが20センチもある”唐傘茸”が初めて出た。傘の表面は揚げ煎餅の様に凸凹している。草むらに単独に生えるので遠くからでもよく分かる。

 また茸の女王と呼ばれる”絹傘茸”も庭の真ん中に一本生えた。絹傘茸早速女房を呼んで始めて見るこの珍しい茸を眺め、写真に収めた。いずれも食べらられる茸で中華料理に合うそうである。絹傘茸は白いレースのスカートを広げた独特の格好をした茸で、見ては興味深いが、食べるには一寸不気味な風情である。

 食堂の窓の前に茂る”柏”と”ミズ楢”は食事をしながら「山に居るなあ」と実感させてくれる木で、家内は”憩いの木”と呼んでいる。これまで殆ど実が着かなかったが、小屋を建てて環境が変わったせいか、去年から急に沢山のドングリがなるようになった。葉と幹はいずれもよく似ていて、ミズ楢の葉は心持ち小さいだけである。しかし、ドングリの形は全く違っていて、柏の実は丸くて殆ど太い毛で覆われているが、ミズ楢の実は普通の帽子を被った細長いドングリである。ベランダから手の届きそうなところになっている。

 秋も深まってくると、ドングリの皮が緑から茶色に変わって行く。
我が家の庭や近所には太い山栗の木が沢山ある。庭の栗はやはり一昨年からなり始めて小さいが甘い実を落とす。しかし9割は虫食いで収穫にはならない。でも自分の庭の栗だと思うとつい一生懸命拾ってしまう。

 10月も終わりになると、西側にある大きな楓が黄色く紅葉する。高尾山からのイロハもみじ二三本有るイロハモミジは未だ小さいが、葉を真っ赤に染めて美しい。
広葉樹の紅葉が終わる頃になると、落葉松が徐々に黄色くなり、やがて金色になり、全山が黄金色に染まる。それは絵のように美しい幻想的な風景である。

 11月半ばになると、冷たい風に細い葉がさらさらと雨のように舞い落ちる。道はふかふかした茶色い針葉で覆われる。
落葉松の葉が落ちると、庭は見通しが利くようになる。早いときは、十月末には八ヶ岳は雪で薄化粧する。
ある日、家内と窓から庭を見ていたら、痩せた野良猫が北の山から小屋の庭を通って下の方にスタスタと降りて行くのが目にとまった。遠回りなのに人と同じように我々の作った山道をジグザグにトコトコと歩いて行った。何となくおかしくて家内と顔を見合わせてくすくす笑った。そろそろ冬である。