春の山は未だ冬の名残があり、時として冬山を想定しなければならないこともある。また雪崩などの危険も残っている。それ故、我々素人は天気の良し悪しの確認と中レベル以下の山を選択することにしている。

  山の専門家の友人夫妻と我々夫婦は、恒例の行事として、5月の連休に春山登山をすることになっている。今年は北横岳(2,473m)に行くことになった。夏であればハイキングコースであるが、この年は未だ雪が多く、特に尾根筋を外すと2メートルの雪も珍しくない。

  国道299号で麦草峠を越え、蓼科からピラタスまでケーブルで上がり、坪庭を通って北横岳へ向かい、帰りには三っ岳へ周って、雨池山を越えて再びピラタスに戻るコースを選んだ。

  先ずケーブルの終点から雪の坪庭の周回路を時計方向に辿る。途中までは坪庭見物の沢山の一般客と一緒である。我々のパーティーは四人で八つの目があるのに、うっかり途中で左へ折れる所を見過ごし、観光コースの坪庭を一回りしてしまった。もう一度注意深く歩くと、雪の堆積はあるが、殆ど見間違えることのないT字路と標識があり、ちょっと驚く。きっと左T字路の所で歩行者を右から抜いたのかも知れない。何とも腑に落ちないスタートであった。

  ゴロゴロした大岩を縫って、ほぼ平坦な雪道を30分も歩くと、急登になり、ジグザグに登る。急な北横岳ヒュッテの前で斜面が終わり、林の中でベテランの友人を除く三人は、安全のためアイゼンを着けた。しばらく登ると北横岳ヒュッテに着く。ここからは標高もあり、かなりの急登であるので友人もアイゼンを着けて深雪を直登した。30分も登ると横岳の南峰にたどり着く。更にほぼ平らな雪道を15分ほど歩くと、北峰に到着する。山頂は深い雪で覆われ、一段高い岩峰の上に、傾いた小さな石の祠がある。頂上には留まるところが無く、且つ深雪のため、すれ違うのがやっとの道しか無い。長居せず、南峰に戻る。
此処はそろそろ森林限界なので、頂上には余り木がない。風が通り抜けるが、春の日射しがあるため、それほど寒くはない。
雪に覆われた南斜面の木陰に車座になり、北横岳頂上での食事バーナーとコッヘルで湯を沸かす。食事をして一時間ほど休み、友人の説明で近郊の山や、遠く北アルプス、中央アルプスの勇姿を堪能した後、帰途に就く。

  帰りは深い雪の急斜面をずり落ちるように下る。速い。直ぐに北横岳ヒュッテである。

  一休みしている間に友人だけが七つ池の方に降りていった。なかなか帰ってこない。心配になって声を出したが応答がない。そうこうする中に下から現れた。「いやー、木の根の穴に落ち込み、体がすっぽり雪に埋まってしまい、なかなか出られなかったんだよ」と笑いながら話していた。「そして、池は見えたのか」と聞くと、「雪が多く近寄れず、全く見えなかったよ」と言う。夏なら歩いて3分の所に池があるが、今年は雪が多くて、進めなかったらしい。

  北横岳ヒュッテから少し下って三ッ岳方面に左折した。三ッ岳の頂上を背にしてしばらくは平坦であったが、三ッ岳に近づく頃から凹凸が激しくなり、大きな溶岩と雪が入り交じり、歩き難くなった。雪があると夏道が見えないので、先行の人達が、道を示す”赤符”を無視して適当に歩くため、ルートがはっきりしなくなる。時には急に行き止まりになり、行きつ戻りつした足跡がある。此処は大きな頂を幾つも越えるかなり厳しいルートである。

  特に雨池山への取り付きとその近傍は、雪の着いた岩や急なアップダウンのため、アイゼンがないと厳しい道である。それでも何とか雨池山を超えると、南斜面なので雪も殆ど無くなった。全員アイゼンを外した。

  その直後である。急な下り坂で、先頭の私が雪解けの土で滑って躓き、派手に空中に飛んだ。肩から前方へ一回転し、二段下の平らな岩の上に落ちたのである。気が付くと、手も着かず、足からバランス良く着地していた。リュックもちゃんと背負っている。なんたる偶然か。

  山歩きで転倒したのはこれが始めてであった。若い頃はスキーでよく崖から落ちたものである。何時も怪我をしないで済んでいるのは何とも不思議である。尤も60歳近くなってスキーで、何ともないところで膝を骨折したから、何時も附いている訳ではない。

  大きな転倒と、それに伴って発生する筈だった大怪我、でも何事もなかった事に対する複雑な気持からか、しばらくは、皆無言で歩いていた。

  でも、自分中心に考えてみるとその通りであるが、後でゆっくり考えてみると、状況は一変するので面白い。
つまり、みんなは下を向いて歩いていた。躓いたとき「コツッ!」と言う音は聞いているかも知れないが、一秒後に、二段下に「すっく」と降り立った私以外は見ていない筈である。とすると、私は50センチほど下の平らな石の上に飛び降りただけの事になる。別に大事件でも何でもない。皆は大分疲れていたので、その後無言で歩いていただけなのである。

  険しかった三ツ岳。真中に見える雪の白い道がルート

程なく雨池峠に降りた。ここからは、ほぼ平らな道となり、縞枯山荘の前を通ってケーブルの駅に着いた。低山では有ったが雪が多く、厳しい場所が沢山あり、何時になく緊張した春山歩きであった。