山小屋から里に降り、千曲川を渡った山奥に曽原(ソバラ)と言う村がある。そのどん詰まりに温泉宿が一軒ある。そこから林道を2、3キロ登り、更に山道を少し行くとカタクリの群生地がある。毎年四月の中頃になると家内と見に行く。「まだ少し早いが、行ってみよう」と言うことになった。

 カタクリの群生地は、疎林の中にあり、約千坪程である。満開までには後一、二週間かかるが、既に沢山咲いていた。いつものように下を向いて濃いピンクの花びらを上にピンと反り返らせ、小ウサギを思わせるように瑞々しく可憐に咲いていた。
花の形は一見百合のようで、芯に向かって、桃色から濃い紫に変わり、奥に網の目状の模様がある。中心には黒紫の雄蕊が小さな金槌のように何本か着いている。赤ずんだ緑の中に白い符を撒いたような葉は独特で、少し厚みを持っている。

 カタクリがあるところに必ず咲く”吾妻イチゲ”も、所々、小さな白い花を見せている。可憐に咲くカタクリ単独で見ても本当に清楚で美しい。高さは10センチ強で、茎の太さも一ミリ程度であり、地面からひょろりと立って、数枚の小さな葉を笠のように一重に広げて、そのすぐ上に一輪、体に似合わない大きな白い花を着ける。カタクリに比べれば小さくて、うっかりすると見過ごす。

 林の入り口付近に戻ってくると、自然保護指導員の腕章を付けた人が所在なげに地面に腰を下ろしていた。時期が早いので、見に来る人はまだ殆ど居ない。声を掛けると、指導員は、山野草だけでなく、樹木、岩石などにも詳しく、親切に色々教えてくれた。

 「この辺りの地質は、古生層で弱アルカリ性なのです。それがカタクリの生育に適しているのです」と話してくれた。山小屋から余り遠くないところに、「地球創生期の地核が露出している場所がある」、と聞くだけで何ともロマンティックな気分になる。

 カタクリの群生地のすぐ右側には、切り立った古成層が100メートルほど隆起して出来た痩せ尾根がある。「この頂上付近には此処からは見えませんが、”日陰ツツジ”の群生地があり、6月には見事な黄色い花を咲かせるんですよ。でも、人はカタクリだけを見に来るので、案外知られていないんです」と言う。我々も今まで知らなかった。

 「案内してあげましょう」と我々夫婦を伴ってカタクリの群落を通り抜け、少し先から右に折れ、膝元まで深く堆積した落ち葉を踏み分けるようにして涸れ沢を詰める。そこから右へ取って、木の根につかまりながら古成層で出来た岩だらけの断崖をしばらくよじ登る。頂上手前の左手が急に開け、日陰ツツジの群落が広がっているのが見えた。

 痩せ尾根を左回りに渡っていくと、群落は予想外に大きかった。「これが咲いたら、さぞすばらしいでしょうね」と話している中に、頭の中の群落は一面黄色い花で覆われた。

 景色も地形の複雑さを反映して、美しく、しばし見とれてしまった。「6月には絶対来るぞ」と言いながら、尾根の途中から道とも崖ともつかない急斜面を、藪漕ぎしながら降りて来た。そこは元のカタクリの群生地であった。