1998年の春は例年になく雪が多かったので、みどり池への登山は大変だろうなと思っていた。しかし先週稲子湯の女主にみどり池への道の状態を聞いてみたら、「何時も人が通っているから大丈夫ですよ」と教えてくれていた。

 山小屋で朝起きてみると、薄日が射していて高曇りであった。女房に「今からみどり池へ行こうよ」と言うと、「そうね、行きましょう」と、意見が一致した。山の用意は常に出来ているので、食事をして、9時過ぎに家を出た。車で、みどり池への起点の唐沢橋に着いたのは9時半頃であった。山屋の常識からすると、五時起き、六時起きが普通だが、我々の行動は何時も時間的に愚図でだらしないが、なかなか直らない。大体に思いつきで行動するところがある。

 八ヶ岳はもう随分歩いているが、何となく行ってみたい池であるみどり池にはまだ行ったことがなかった。その気になった時に行かないと、永久に行かないような気がして、件のやり取りになった。

 行程は往路2時間、帰路1時間半である。前半の一時間は、雪解けの沢の音をバックに、ホオジロの鳴き声を聞きながら、のんびりと歩いた。
後半は標高2000メートル近くあり、道には腐った雪がたっぷりあり、うっかりすると踏み抜く。それでも概してのんびりした山歩きであった。

 残雪を予想して、スキーのストックを一本づつ持ってきたのは正解であった。残雪の山道は、何故か人の歩くところが高くなっている。その細い雪道をストックでバランスを取りながら歩いた。
人の足跡から、今日は我々より先に誰か一人歩いていた。

 みどり池に着いてみると、その畔にあるしらびそ小屋の女主が、「今朝土地の人が一人天狗岳に行きましたよ」と言った。雪を被った天狗岳をバックに春山のこの季節に、このコースを登る人は少ない。天狗岳までは、夏でも四時間は掛かる。

 小屋からは池越しに雪をかぶった天狗岳の雄姿がそびえている。対面している山が静かな池に写って美しい。左に根石岳、箕冠山、硫黄岳、右に中山峠への連なりが望める絶景である。周りの樹木は殆どシラビソなどの針葉樹で、時に枯れ木がオブジェのようにやせ細り、白い肌を出して風景にアクセントを沿えている。厳しい寒さと雪に耐えて世代交代の時期を迎えた姿である。

 北八ヶ岳は、”しらびそ”、”とど松”などの針葉樹林帯で、ドイツの針葉樹林帯をシュバルツバルト(黒い森)と呼ぶことから、よく黒い森と形容される。確かに森は暗く黒っぽい。

 しらびそ小屋は、池の畔から3~4メートルの所にあり、池の縁の枯れ木の上に、鳥やリスの餌台が作られていて、リスが何匹も出入りしている。小屋の壁に積んだ薪の上や隙間をちょろちょろ走り回る姿はまるで自分の庭で遊んでいるように見える。鳥もひっきりなしに来ている。静寂の中に一寸した賑わいを見せている。

 少し寒かったが、バーナーを出して湯を沸かし、ラーメンを作った。女主が「寒いから中に入って休んで下さい」としきりに言ってくれるので、お言葉に甘えてストーブのある小屋でラーメンをすすった。気温は三~五度ぐらいであろうか。景色を楽しむため、外に出て茶を湧かし、一時女主と話をした。

 「私は東京で生まれ、東京で育ったんです。山が好きで、いつの間にか此処に住んでいました。子供が小さいときはこの小屋から毎日里の学校に通ったんです。・・・長野の人は家に金を掛け、最近は暖房は大抵床暖なんですよ」等と話をしてくれた。
小屋は水面と余り違わない高さに建っている。その隣の少し高いところに、もう一軒小屋が建っている。何年か前、池が増水して浸水したので、建てたのだと言う。

 後に、ある女流登山家が編纂した本を見たら、彼女自身が、生い立ちやシラビソ小屋の話を書いていた。その道では有名な人なのである。

 帰りには女房にだけアイゼンを着けさせた。下りは私の方が速いので速度を調整するためと安全のためである。アイゼンをつけて
着るものも一枚増やし、途中で休憩しないで済むようにした。結果的に、地図の時間表示より10分ほど早く着いた。こんな事はあまり無い。

 余裕を持って歩いたためか、鳥のさえずる声がいつもより澄んで聞こえる。ふと、前方から鋭くさえずる小鳥の声が聞こえてきた。その声の方向を目で辿ると、直ぐ左の二メートル余りの木の枝に”瑠璃ビタキ”が一羽止まって鳴いていた。濃いコバルト色の羽根は、自然の中に居ながら、何か人工物を感じさせる程鮮やかであった。

 下に着いたとき、全体の行程が3時間半程度で余裕があったので、また蕗のトウを探しながら帰った。もう殆ど花が咲き、惚けていた。
でもスキーシーズンが終わり、二人で山へ出掛けるのも久しぶりだったので一日満ち足りた気分であった。
帰ると女房は早速蕗味噌を作り始めた。伸びきった蕗のトウは天ぷらにして食べる予定である。