★20章 流星群(1999.7)

 子供の頃、私の生まれた武蔵野には、抜けるような空があった。夏には何回も激しい雷雨があった。その後には東の空に大きな虹の橋が架かった。夜は庭木の間から天の川が白く流れていた。七夕の頃、父親に教えて貰って織り姫を捜したりした。畑の里芋の葉に溜まった朝露で墨をすり、筆で短冊に思い思いの文字や詩を書いた。庭の竹を一本切って貰って短冊を枝葉にぶる下げた。当時はそんな心の余裕があった。

  八千穂の山小屋から一キロメートルほど離れた所に、高原野菜を作っている広々とした畑がある。北に浅間山、東に長野と群馬を分ける荒船山とその山脈、南西に八ヶ岳、そして西にはこんもりとした森がある。そこは星を見るには絶好の場所で、遠く浅間の手前に佐久平の明かりが見える。畑の中の緩やかな道を少し下ると、土手の陰になり、里の明かりは見えなくなる。その場所は殆ど全天が見える絶好の天体観測場である。

  夏も冬も見に行く。全天に鏤められた星、星、星。素人にも分かる有名な星座の背景には、これほどまでに有るのかと思われるほど無数の名も無い星が煌めいている。一段と濃い塵の帯は天の川である。一つ一つの星と言うより白い雲のような、まさにミルキーウェイが南の地平線から天頂を通って北の地平線まで続いている。
 冬の星座はとりわけ美しい。着られるだけ衣服を着、更に防寒具に身を包み、暖房を点けたままの車を側に置き、マイナス10度の畑で空を仰ぐ。赤いレンズを被せた懐中電灯で星座表を見ては、空の星と見比べる。明るい光で星座表を見ると、瞳孔が閉じて空を見たとき一瞬何も見えなくなるので、懐中電灯には赤いレンズやセロファンを被せる。

  時々都会から来た若者が、天体望遠鏡とカメラを据え付け、畦道にシートを敷いて仰向けに寝そべり、狙いの星が現れるのを待っている。

  1996年3月25日からの百武彗星や、1997年3月下旬から4月中頃まで見えたヘールホップ彗星の時は、私たちを含めて別荘の住人も随分現れて俄か天体観測者になった。特にヘールホップ彗星の時は、村々の電灯が消され、素人の私も、家内と二人で、8倍の双眼鏡と60倍の望遠鏡と三脚を抱えて何週間にも渡り、件の畑に見に行った。北西の地平線の少し上にボーと尾を引いた大きな彗星が右上から地面に向かう形で見えた。絵本では見たことがあるが、尾を引く彗星をこの目で見たのは始めてであった。日頃話をすることもない離れた別荘の住人とも、この時ばかりは親しくなり、望遠鏡を代わる代わる覗いては一緒に歓声をあげた。

  このように突然の大きな天体ショーもあるが、年に数回、決まった時期に特定の星座の方向に流星群が見られる。1月3、4日、星座の名は忘れたが、最初の流星群が現れる。続いて、5月5日の水瓶座流星群、8月1~20日頃のペルセウス流星群、10月20、21日のオリオン座流星群、11月17、18日の獅子座流星群、12月13、14日の双子座流星群等が有名で、年によって数が異なり、今年は多い年だと言われると、我々だけでなく、別荘の観察者も数人に増える。五分間に一個程度の流れ星であるが、時に天空の四分の一を走り抜けるほど長い流れ星を見ることがある。私の年間メモにはそれ等の時期が記して有り、偶々天気がよい週末に来て流星が見られる時にぶつかると必ず畑に出てみる。方向がほぼ決まっているので二人で見ていると見逃すことはない。こんな歳になっても、家内は願い事を用意して待っているが、一瞬であるので、つい見るのに夢中になって言い終えたことがない。

  ここから南へ二十数キロの所にある野辺山には、有名な東大の天体観測所がある。また北へ数キロ行った北八ヶ岳の中腹に、最近直径60mもあるパラボラアンテナを備えた電波望遠鏡が設置された。また、それと比較するようなものではないが、八ヶ岳の尾根筋にある高見石小屋の主は通称天文博士と呼ばれ、登山者仲間に天体の織りなす競演を説明して喜ばれている。
我々の別荘地の中にも、高台にコンクリートでしっかり土台を固め、天井がスライドして開く本格的な望遠鏡を備えた観測塔を持つ小屋がある。天文好きの同好の士が何人か集まって建てたのだそうである。

  神秘の宇宙には、昔からロマンに満ちた物語があり、我々素人から見れば同じ星座が廻っているだけに見えるが、常に無限の変化をしている。今でも多くの愛好家が寝食を忘れて新星の発見に情熱を燃やしている。最近の科学の発達で、天体観測も殆どコンピュータ制御による自動観測になってきたようである。それでも新星の発見にタッチの差が出るのは、我々素人には計り知れないことであるが、使っているソフトの性能に若干差があるのかも知れない。いや正式に申し出るタイミングで差が出るのか、よく分からない。

  バブル華やかなりし頃、ゴルフ場の電話予約をするとき、毎分何回電話を掛けられるかで、予約が出来るかどうかが決まったことを思い出す。回転式ダイヤルでは勝負にならず、まだ出たばかりの押しボタンダイヤルの電話機を使い、短縮ダイヤルに予約番号を登録し、ワンタッチのボタンを毎分何回押すかで予約の勝負を決めたことが思い出される。

  天体の饗宴の話が、彗星の発見時刻のタッチの差、ゴルフ場の予約競争などと、次元の低い電話予約の話で終わるのは何とも世知辛い話であるが、娑婆が有っての天体の饗宴の有り難みである。

★21章 天狗岳(1999.3)

 天狗岳は名前に負けない立派な山である。標高も比較的高く、互いに500メートルほど離れた東西の二つのピークを持っている。西天狗岳が少し高く、2646メートルである。展望は、八ヶ岳の最高峰、赤岳の影になる山が見えないだけで、南、中央、北アルプスが一望できる。ここへのアプローチルートは沢山あるが、渋温泉からのルートが一般的である。頂上まで片道約4時間掛かるので、八千穂に住んでいる我々にも日帰りするには一寸大変な距離である。

  1996年7月20日、朝六時半に車で小屋を出発し、7時半に渋ノ湯に着いた。渋ノ湯から中山峠までの道は、大きな岩がゴロゴロしていて慣れないと歩き難く、思わぬ時間を食う。バランスよく岩の上を渡り歩けば、別にどうという事はないが、慣れない家内は岩を上下に辿るので、時間が掛かるし疲れる。そのため予定より大幅に遅れた。それでも頂上は天気がよいこともあって、眺望は素晴らしく、ゆっくりと一大パノラマを満喫した。東天狗から西天狗へは1時間で往復が出来る。西天狗には、余り広くはないが、駒草の群落があり、疲れをいやしてくれる。

  東天狗からの帰路は、同じ道を辿るのもつまらないので、黒百合平まで別な路を降りることにした。しかし、行ってみると、大きな溶岩の固まりが敷き詰められた道で、家内の最も苦手な路であった。岩から岩へ飛び移るのが怖い家内は、相変わらず岩を一つ一つ辿るので、路程表の二倍の時間が掛かってしまった。本来ここで一泊する方が良かったが、山小屋が余り好きでない家内は、そのまま降りるという。天気も良いし時間的にも体力的にも不可能ではないので、元来た渋ノ湯への溶岩道路を下り始めた。

  途中、消耗してくたくたになった七十歳近い老人とその息子に出会った。「唐沢鉱泉までは後どの位ですか」と聞かれた。彼等は渋ノ湯よりやや遠い唐沢鉱泉に行くという。何処から来たと言ったか覚えていないが、老人の一日の行程としてはかなり無理な距離であった。山の経験が少なく、息子の計画が甘かったのだ。「後一時間以上はあります」と答えると、息子は、父親がそんなに草臥れ果てているのに、ほっとした顔をしていた。今日の行程がよほど長かったのだろう。父親は岩に座って無表情であった。でも顔色はそれほど悪くなかったので、何とか着けるだろうと判断した。もう日没が近かった。

  家内は、自分はあれほどまで疲れてはいないと自覚したのか、それから少し元気になった。薄暗くなって車を置いた渋ノ湯に着いた。かれこれ正味8時間半歩いたことになる。因みに地図上の行程は6時間10分である。私もかなり疲れたが、別に車の運転に支障があるほどではなかった。

  その後家内は、足が痛くて一週間ぐらい家の階段を這って上がるほどだと言っていたが、いつの間にか普通に戻っていた。私も二三日は疲れが残っているような気がした。

  それから一年後の1997年10月4日、再び天狗に行こうと言うことになった。これまでに天狗と硫黄岳に登ったが、両者を結ぶ稜線と根石岳が残っていた。だから両者を結ぶルートを埋めることが目的であった。八ヶ岳の東側のイナゴ湯を通り、本沢から入って天狗を目指した。生憎本沢を出発する頃から雨が降り出し、傘をさしての登山になった。天狗と根石岳を結ぶ稜線に出る頃には弱いながら本降りになっていた。雨合羽を取り出し稜線直下の木陰で一休みし、昼飯を食べながら様子を見ようと言うことになった。
 いつものように湯を沸かし、蕎麦を造り、腹を満たした。ゆっくりとお茶を飲み、次の行動を考えた。

  雨は強くはないが、稜線は風が強い。しかし歩けないほどではないので、出発することにした。東天狗岳までの距離はそれほど無い筈であるが、地図を見ると、この部分の旅程の表示が曖昧で、ハッキリ分からなかった。30分以内ほどと推定し、歩き始めたが、実際には雨と風のため、一時間近く掛かった。頂上は岩の堆積であるが、前回と反対方向からの登頂となるため、全く違った山に来たような感じであった。

  頂上では、犬を連れた登山者を含めて、二三のパーティーが雨の中で食事をしていた。我々は西天狗を諦め、早々に元来た道を下山した。本当は帰りに根石岳を廻って夏沢峠から降りるつもりでいたが、雨のためもと来た道をそのまま引っ返した。

  今回も日帰りであったが、前回の天狗岳の時に比べると、ほぼ同じ行程であるのに疲れはずっと少なかった。一つはゴロゴロの溶岩道でなかったこと、西天狗を省いたこと、既に行ったことのある山に登ると言うことで精神的なストレスが少なかったためではないかと思っている。

  よく言われるように、一日六、七時間歩ければ何処にでも行けるが、我々は四、五時間を目安にしているため、かなり行ける範囲が狭まい。また山小屋泊まりが苦手な家内に歩調を合わせると更に狭まる。しかし趣味であるから余り無理はしないで楽しむことにしている。

★22章 木イチゴ (1999.3)

 毎年8月頃になると、別荘地の南側の土手の草むらに真っ赤な木苺が点々と覗く。木とも草とも言えぬほど小振りで、茎も棘も柔らかく、他の草の下に埋もれている事が多い。明るい緑色の、やや縮れた葉に、赤い実がよく似合う。
 いつもは何となく見過ごしていたが、八月になると、山野草の花も終わり、草むらが寂しくなっているので、赤い実が目立つ。見回すと隣家の土手の草むらに所々、透明な粒粒を一重に丸く並べた小さな実が見える。普通の苺を小さくしたような木苺も偶にある。一粒取って口に入れると、かなり酸っぱい。でも、微かに甘みを持っている。
 そう言えば、春先に梅の花に似た白い花があちこちに咲いていたのを思い出す。

  小屋に戻って図鑑を開いてみると、木苺には毒性のある物は無いとの記事があった。一番美味しいのは黄色い木苺であることも分かった。黄色い木苺は子供の頃さんざん食べて美味しかった記憶があるので納得する。

  手籠を下げて、家内と別荘地を中心に木苺取りに出かけた。大きい物でも径が1.5センチほどの実で、既に時期が過ぎているのか、触ると粒がぽろぽろ落ちて後には茶色い凸形の萼が残る。乾いて黒ずんだ物も多い。
 目立つ割にはそれほど無く、二時間も歩いたが、両手一杯程度しか取れなかった。黄色い木苺は一つもなかった。

  それでも家内は小屋に帰ると、早速煮てジャムを作った。酸っぱいので相当砂糖を入れた。鍋の底に薄くジャムが出来た。
 食べてみると色も綺麗だし味も良いが、大きな種が歯に触り、このままではとても食べられないので、網で裏ごしを掛けた。鮮やかな真紅色のとろりとしたジャムが白い器に溜まった。でも大匙二杯程度の量になってしまった。 
 翌朝、パンに付けて二人で味わった。夏の山の収穫をほんのちょっぴり味わっただけであったが、何かとても新鮮な気分であった。

  早速季節の行事の手帳に、通年は八月初め頃に採取すべきことを記したが、種の大きさから、本当は食用には向かない木苺のようである。

  以前この土地で沢山栽培されているプルーンでジャムを作った事があったが、買ってきた材料であったので木苺ほどの感慨はなかった。
 来年辺りには昨年植えた「すぐり」が沢山実を付けるはずである。今年の初夏に透き通った真っ赤な実を少しばかり着けたので食べてみたら、甘酸っぱくて良いジャムになりそうである。今年の中に、もう二三本植えておこうと思っている。

★23章 動物の水先案内 (1999.3) 

 県道を歩いていると、野鳥が降りて遊んでいる風景をよく見る。地面に居る虫や、風で落ちた木の実などを拾っているのだろうか。別に驚く風もなく、二三メートルに近づくと、尻尾を上下にせわしなく振りながら、向こうを向いて、とことこと離れていき、しばらくすると、立ち止まってこちらを振り返る。そして、「もっと近づいてくるのかな」と言う顔をする。更に近づいて行くと、再び、とことこと走っていき、また立ち止まる。今度は、少し間をおいてじっと見ていると、「何だ付いて来ないのか」という顔をして、餌を拾い始める。数十メートルに亘って、こんな事を繰り返す。まるで水先案内をやっているようである。それでも最後には藪の中に飛び込んで、近くの木の枝に止まり、知らん顔して彼方を見ている。
 こんな行動をするのは、セキレイに多い。ヒガラやアカハラも同じような行動をする。

 また、登山の途中で、周りが木で覆われた山道の真ん中に小さな水たまりがあって、シジュウカラが水浴びをしていた。二、三メートルほど先である。家内を後手に制し、そっと歩みを止めて眺めていると、しばらく水浴びをした後、ひょいと水を跳ね飛ばし、道に沿って”ちょん、ちょん”と跳ね歩いていく。見失わないように付いていくと、やはり時々後ろを振り返っては先に進む。家内と顔を見合わせ、目で笑う。
三十メートルも行くと、右の藪に入って見えなくなった。

 鳥は非常に目が良く、我々が鳥を見つけるより早く、我々を知っているはずである。意図的に脅かさない限り、山の鳥は人を怖がらない。彼らから見れば人の動きなどは、鈍重なもので、むしろ、猛禽類などの方が怖いのかも知れない。

 ある日、まだ入ったことがない街道の脇道に車を乗り入れてみた。そこは舗装もなく、昔入れた砂利が殆ど土に隠れた田舎道である。林を通して射し込む木漏れ日が、砂利や落ち葉に当たり、斑模様を作っている。ふと、前方に小鳥が遊んでいるのを発見し、慌てて車を止めた。でも、小鳥の方は別に驚くでもなく、今まで通り餌をついばんでいる。じっと見ていると、何時までもそこいらを歩き回って何かを拾って食べている。しびれを切らして、少し車を進めると、向こうを向いて、”とことこ”と走り出す。あまり近づきすぎてもいけないと車を止めると、その先で再び餌を探し始める。また車を少し進める。鳥は走って先へ行く。まるで、「平気だよ。一緒に遊ぼうよ」と、言っているみたいに、落ち着いて餌を拾っている。こんな事を繰り返す中に、曲がりくねった道を50メートルも来てしまった。
 鳥は案外好奇心が強く、遊び心があるのかも知れない。

 先日、夜遅く山小屋に向った。小屋の近くに差し掛かった時のことである。国道から分かれて小屋に通ずる曲がりくねった道は、森に囲まれ、両脇が草で覆われている。ヘッドライトで照らされる部分だけがはっきりと映し出されていて、周りは漆黒の闇である。
 ふと、前方に、ライトに照らし出されて、なにやら見たことのない小動物が居る。慌ててブレーキを掛けて止まると、その動物は、可愛らしい仕草でこちらを振り向く。
 子猫ぐらいで、胴が長く、足が短く、細長い尻尾が真っ直ぐに後に伸びている。色はよく分からないが、ライトの中で焦げ茶色に見える。テンやイタチの類らしい。
 じっと見ていると、やおら向こうを向いて、すたすたと歩き出した。ゆっくり車を動かして付いて行くと、くねった曲がり道毎に立ち止まり、振り向く。こちらが近づくと、再び、ちょろちょろと先に立って歩いていく。ほんの三、四メートル先である。こんな事を繰り返している中に右の土手の陰にこそこそと入り込んで見えなくなった。
かれこれ40メートルも、水先案内をしてくれた。何とも可愛らしく不思議な行動である。

 

★24章 山小屋日記 (2000.7.16)

 このところ、百歳近い叔母の面倒を見たり、90歳を過ぎた母親の面倒を見たり、息子の結婚式などで、山小屋とご無沙汰していたが、三週間ぶりに、家内とやってきた。

火熾し
 朝から床下の囲炉裏で湯を沸かしたり、ガーリックトーストを焼いたり、焼きそばを作ったりして、二日間ともアウトドアクッキングとなった。
 良く本に出てくるワイルドな料理は出来ないが、素人なりに、あり合わせの食材で手料理を作って食べる。こんもり茂った林に囲まれて、一日が、何となく過ぎて行く。合間に、本を読んだり、やりかけの土木工事を続けたりする。
 人が見ると、「なーんだ」と言うような過ごし方をしている。 雹(ひょう) 久しぶりに来たら、ウドの葉が全面虫が食ったように筋と茎だけになっていた。
緑の葉は跡形もない。よく見ると、ウドの茎の表面に約一センチ間隔で白い斑点模様が出来ている。玄関前の駐車場と林の小道が一面、生の落葉松の葉で薄緑色に覆われている。桜、水楢、白樺、紅葉などの葉もかなり破れて落ちていた。まだ沢山萎れて枝先にぶら下がっている。ベランダの手摺りにも点々と塗料がはげた所があり、引っ掻き傷もついている。

坂井さんらの企画
 昨日は、焚き火の炉を一部作り替えたり、東側の庭に降りる腐った階段を作り替えたりした。今朝は、疲れたので作業を休み、10時頃池田さんの山荘に遊びに出掛けた。丁度そこに、堀越さんと坂井さんが来ていた。坂井さんは、「八千穂村の塵処理場の計画を村役場に説明して貰いましょう」と言う件で、以前一度ご夫婦で我が家に見えたことがある人である。30年も前から別荘に来ている人で、別荘地と八千穂のことについては何でも知っている。

池田さんの怪我
 
皆が熱心に話していたので、しばらく気が付かなかったが、びっくりしたことに、池田さんは、先週、余所で工事の手伝いをしていたとき、丸鋸で左膝に大怪我をし、救急車で佐久病院に運ばれ、16針も縫ったとのこと。幸い骨には異常がなかったが、彼は足を曲げられないので囲炉裏小屋の階段に座って雑談していた。見ると左膝に大きな包帯を巻いて固めていた。彼は山男で、気丈なため、入院は嫌だと帰ってきていた。今でもずきずき痛むという。山や田舎では、チェーンソウや丸鋸で怪我をする人が後を絶たない。山小屋生活をしている人の書き物には、よくチェーンソウによる怪我の話がでてくる。身近な人の怪我で、「これは人ごとでない」と、気が引き締まった。

ニュウが見えるか
 話は変わるが、池田さんの囲炉裏小屋から見える山の話になり、正面に見える二瘤の山が東天狗の岩峰か、ニュウの岩峰かで意見が分かれた。坂井さんと堀越さんは東天狗の右肩の岩峰だと言うが、池田さんと私はニュウだと主張してどちらも譲らない。
 池田さんは土地の人に聞いたから確かだという。坂井さんは山脈の連なりから東天狗であり、ニュウはもっと右で、ここからは見えないと言う。

 私は、山のプロではないが、自分の小屋から見える山については、以前に相当詳しく調べていた。小屋を起点として地図上に、有名な山に向かって線を引き、その線上の仰角から最初に見える尾根の位置を調べてあった。この地図を厚紙に貼って、60倍の望遠鏡の下に敷き、我が家の位置を中心にして、望遠鏡を回転させながら、各山を確認してあった。
 特にニュウの岩峰は、実際に見てきた岩峰と同じで、休日には蟻のような人影がよく現れる。もし東天狗の岩峰なら、登山ルートから外れているので、人影は無いはずである。また、先ほどの仰角の数値から、ニュウの頂上は見えるが、東天狗の岩峰は稲子岳の陰に隠れて見えないはずである。

 皆さんの主張があまりにも確信に満ちていたので、その積もりでもう一度確認してみようと思い、池田さんの小屋からの帰りに、一人で、天狗とニュウの両方がよく見える畑に出て確認してみたが、私の考えに間違いはなかった。更に、しつこく、天狗の岩峰とニュウの岩峰が同時に見え、その連なりまで分かる里の道まで足を伸ばして、再度確認した。
 その結果、ニュウは天狗の尾根より一つ手前に見える尾根(実際には尾根続きだが、回り込んでいるため、別の尾根に見える)であり、天狗の尾根の岩峰より少し手前に存在することを確かめた。また、別荘地まで登ってくると、天狗の岩峰は、尾根の後側に入り込み見えなくなることを確認した。

  納得しながら小屋に戻ろうとすると、偶然、国道を件の坂井さんがポスターを貼りに行くために歩いていた。側に寄って、その話をすると、彼は自分の小屋に寄り、二万五千分の一の地図と二つの双眼鏡を持って私の車に乗った。天狗とニュウの両方がよく見える所まで再び下って確認した。彼は改めて納得したようであった。
 彼は、もうこの別荘地に30年も来ていて、山の景色は知悉している人だが、「先入観で、ずっとそう思い込んでいました」と、話していた。

 彼は、帰りがけに、例の畑の所から谷川岳が見えることを教えてくれた。冬の天気の良い日に是非見てみたいものである。

雉の親子
 
坂井さんが、自分の小屋に地図と双眼鏡を取りに行く間、国道299号の横に車を止めて何気なく前方を見ていると、右の森から雉の雌が数羽の子供を連れてゆっくり国道を渡っているのが見えた。反対側は畑である。後から更に子供が一羽、遅れて足早に渡って行った。親鳥をそのまま小さくしたような子供は、親の前後を小さな歩幅でちょろちょろと歩いて渡って行った。森や草をバックに田舎の舗装道路を渡る雉の親子は微笑ましく、一幅の絵になる。  

皆既月食
 
その日の夕刻、私は庭の散歩道の補修が長引き、家内はパソコンに夢中になって、帰りが少し遅くなった。今日は皆既月食が見られる日である。何時に欠け始めるのか聞き忘れたが、天気が良ければ、途中で見られるかも知れないと半分期待して帰途についた。
 いつものように清里のビアレストラン、ロックに寄り夕食を取った。そろそろ避暑の季節であるため、ロックはかなり混んでいた。八月の始めには、八時頃から庭園で野外バレーがあるそうである。その前に夕食を取る人が多いため、相当の混雑が予想されるとのことであった。どうやら、これからしばらくは、ロックに近づけないかも知れない。旨い地ビールはしばらくお預けである。

 八時頃家内の運転で、ロックを出て帰途についた。中央高速は久しぶりに混んでいた。所々で渋滞に遭い、のろのろ運転になった。そのお陰で、大月を過ぎる頃、月の左下が少し欠けるのに気が付いた。「や、始まった!」と、久しぶりに見る月食に、家内と興奮しながら車の中から観察を始めた。我々が経験してきた、これまでの天体ショウに比べると、かなりゆっくりとした変化である。半分になるのに一時間近く掛かった。欠け方は何となくぼんやりしていて、くっきりした三日月にはなっていない。欠けて見えない筈の部分も、うっすらと透けたように見える。全部隠れたときも、薄い丸い月がぼんやりと見えていた。

 何年か後、NHKの子供電話相談室の放送を聞いていたら、皆既月食でもぼんやりと月の輪郭が見えるのは、地球の縁で回折散乱した僅かな太陽光が月に当たり反射するからだそうである。

 その直後、右からカーブを曲がって上がってきた車が、勢い良く通り過ぎていった。一番後から渡って行った雉の子が、驚いて畑の中で飛び上がった。
 この辺りでは、よく雉を見掛ける。つい一ヶ月ほど前にも、つがいで畑を歩いているのを見たばかりであった。

 彼は、堀越さんと池田さんとで、ハイキングの会やアウトドアクッキングの会をやっている。八月五日に白駒池から高見石にハイキングに行き、その夜、堀越さんの山荘でバーベキュウをやるそうである。次回は池田山荘と言う案も出ている。ポスターを作り、何処に貼ろうかと相談していた。
 この会は三年目を迎えて、少しずつ趣向を変えてやっていくのだと、張り切っていた。別荘の人の横の繋がりを増したり、八千穂、松原湖などで行われる行事を伝え、みんなで楽しく遊ぼうというのである。
 八月五日に山小屋に行ったら、是非参加したいと思っている。

 最近では、火熾しに割り箸大の焚き付けを沢山作っておいて、炭火を熾すので、大分手際がよくなった。新聞紙の一頁分を軽く丸めて火を付け、1/3ぐらい燃えたところで、一握りの焚き付けを束のまま乗せる。それに火が移ったところを見計らって、マングローブの炭の屑を一握り乗せる。火吹き竹で数個の炭の小片に火が移るまで吹く。後は、大きな炭を傍に立てかけて、吹く。十分熾きたところで、備長炭を添えれば、長持ちする火が得られる。
 備長炭は、十分熾した後、灰をかぶせておくと、半日以上持つので、三度三度熾す必要がない。

 「こりゃ何だ」と不思議に思っていたら、下の佐藤さんから「二週間ほど前の7月4日に、大量の雹が降ったのよ」と知らされた。台風3号の少し前のことである。後で土地の中年の人に聞いたら、この地方では初めて経験する猛烈な雹だったそうである。近所の農作物は全滅だったに違いない。
 特にウドの茎の斑点は、その強烈さを物語っていた。当日山に居た別荘地の池田さんは、「ヘルメットを被らなければ外に出られなかったんですよ」と言っていた。また、地面に何センチもの白い氷が積もったそうである。
 昔、生家の武蔵野にも1センチ大の雹が降ったことがある。瓦屋根に「キン、コン」と音を出して跳ね返り、地面に氷のビー玉が散らかった事を思い出した。

★25章 堀越さんちのパーティー (2000.8月) 

 坂井さん率いる高見石へのハイキングが八月五日に行われた。私も誘われていたので、行く積もりであったが、十日ほど前に、自宅で机に躓いて足の小指を痛めて参加できなかった。

  当日は朝から快晴であったが、山の天気は不安定で、午後になって雨に降られたそうである。その夜、ハイキング仲間が堀越さんちでバーベキューをやることになっていた。家内は、初めての人ばかりなのは苦手だと言うので、誘いに来てくれた下の山荘のSさんの奥さんと出掛けた。

  このパーティーは、自分の食べるものは自分で持っていくことになっている。冷えた缶ビール四本と腸を取った新鮮な鰺二匹、タマネギの輪切りを一個分持って出掛けた。6時半を少し回ったところであった。堀越さんの奥さんが、いつもの笑顔で迎えてくれた。「今日は別な奥さん?」と、お淑やかな奥さんが、いつになく冗談を言った。人が沢山集まっているので、今日は少し興奮気味なのであろう。
 既に10人以上集まって、池田さん夫妻を中心に甲斐甲斐しく焼き始めていた。 堀越さんちのベランダは、ベランダと言うより、建物の一部であり、可成り広い。真ん中に一本の丸太から切り出された幅広の長大なテーブルがあり、両側にこれまた長いベンチがあって、20人ぐらいは座れる。その周りにも、丸太を輪切りにしたスツールが沢山あり、3、40人は軽く収容できる。立派な屋根があるので、雨が降っても大丈夫である。

  食材も焼け始め、三々五々集まった人も二十人を越えたので、坂井さんが開会の挨拶を始めた。みんなの簡単な自己紹介があり、食べ始めた。
 集まった人の三分の二は、私も既に知っている人達である。フランス人のポール・パンソナさん夫妻は、「殆ど此処に住み着いているんです」と挨拶した。ポールさんの奥さんは日本人で、以前から何度もお会いしたり、訪れたりしている間柄である。池田さんは「殆どこの地に居ますので、何か手伝うことがあったら言って下さい。何時でも行きますよ」と自己紹介した。私は、「年に三十数回も来て、土木工事をするのが最大の趣味です。その他山に登ったり、スキーをしたりします」等と紹介した。

  ポールさんは、良く自分で料理をする。今日も、茄子やキュウリなどの野菜を煮た”ラタトーユ”を大きな鍋ごと持ってきて、「今作ったばかりです」と、みんなにご馳走した。これは私の家内もよく作る料理である。「さっぱりして、美味しい」と大評判で、最初に空になってしまった。

 私が初めて合った人は、名前は忘れたが、池田さんの隣の山荘のご夫妻と、里の黒沢酒造の親戚の方で、直ぐ下の山荘に来る美しい婦人であった。また、八千穂通信という別荘のリーフレットを発行している建築家の松田さん一家が三人の子供さんを連れてやってきていた。松田さんとは、初めて話をしたが、別荘ライフについて二冊の本を書いている人で、本の中に本人の写真が出ていたので直ぐに分かった。「松田さんですね、あなたの書いた二冊の本を買って愛読していますよ」と言って挨拶した。
 また、堀越さんから、「黒沢さんは、里の名家の黒沢酒造の親戚の方で、お父さんが木工好きで、80歳になった今でも、精密な工作をやっているのですよ」と紹介があった。私は、それを聞いて、意を強くした。「80歳まで出来るなら、私の土木工事や木工も、後十五年は楽しめますね」と言って笑った。

 池田さんの隣の山荘のご主人は、「今日のハイキングでずぶ濡れになり、換えを持ってきていないので、こんな格好で来ました」と、ショートパンツ姿で挨拶した。夏の別荘地では、これぞ正装である。彼と堀越さんの義兄と私との三人は同じ歳であった。

  パンソナさんは、お国柄で、美味しいワインを持ってきてくれた。又、堀越さんのお兄さんは、珍しい地ビールを、池田さんの隣のご夫妻は、美味しい地酒を持ってきて飲ませてくれた。みんな、人の持ってきたものを珍しがって食べたり飲んだりした。

  予定の九時を大分回ったところで、坂井さんから次回十月の山行予定が発表され、お開きとなった。山にはこんな楽しい行事が時々ある。

★26章 地ビール (1999.8)

 ピッツバーグのカーネギーメロン大学に研究者として留学していた私の部下M君が最近帰国した。米国では、大学の先生も生徒も物作りが大好きで、ワイン、地ビール、燻製作りなどが流行っているそうである。みんなで車に乗って何百キロも離れた葡萄畑に出かけて、たっぷり仕入れ、それぞれ独自の方法でワインを仕込む。出来上がると、家々を廻ってワインパーティーを開き、蘊蓄を傾け合うそうである。

 ビール作りも米国では今や当たり前の趣味であり、色々な構造の器具が売られている。ビールの素だけでなく、独特の味を出すために色々な物を混ぜる。
 制作者は、ビールパーティーを開いて仲間に賞味させる。時には本人も始めて毒味する場合がある。うっかり作り損なうと王冠を抜いた途端に天井まで吹き上がり、部屋中異様な匂いに包まれることもあるそうである。

 燻製も良く作る。簡単な仕掛けから凝ったものまで色々あるが、成果はワインパーティーやビールパーティーの肴になる。
 何が飛び出すか分からないところが自作の楽しみである。

  一年前、アメリカのM君のアパートを訪れた際、彼は、まだ残っている自作のビールを抜いて歓迎してくれると言う。集まった仲間は、彼のビールが天井まで吹き上がったことを知っているので恐る恐る遠巻きにして見ている。彼もなにやら恐ろしげに栓を抜く。シューと言う音とともに、薄黄色い泡が二三センチ吹いただけで大事には至らなかった。直ぐコップに受け、先ず彼が毒味する。「一寸普通のビールとは違うけど、大丈夫です」と言う。早速みんなで呑んで見たが、どうも旨くない。泡に黄色い色が着いているのが少し気になる。ビールの味と言うより、何か果物の発酵した匂いがする。「どんな作り方で作ったの」と聞くと、「普通のレシピ通りです」という。
 「もう一本開けてみましょう」と奥さんが別な瓶を冷蔵庫から取り出す。今度は泡を吹き出さない。呑んでみると、少しはビールに近い味がする。「このくらいなら我慢できる」などと言いながら、結局三四本開けた。一本として同じ味の物はなかった。皆同じレシビで作ったと言う。どうも雑菌が入ったようである。

  そんなこともあって、日本に帰ってから自分でビールを造ってみようと、渋谷の東急ハンズを訪れた。何種類か、米国産の地ビール作りの器具が売られていた。一度に出来る量と、出来た後の取り回しに多少違いがあるだけで、どれも原理は殆ど同じである。早速米国製の一つを買い求めた。一度に6リットル造れる一次発酵用のポリ容器、缶詰に入った三種類のビールの素と酵母が三回分、砂糖を入れて二次発酵させるときの1.5リットルのポリ瓶が4本、温度計が一本入っていた。少々高く、3万5千円であった。何回作ると売っているビールより安くつくかの計算書が入っていた。それは計算高い日本人に売るために後から付け加えた説明書であった。

 家に帰って説明書を読むと、最低限のことが書かれているだけであった。何となく心配なので、書店でビール作りの本を一冊購入した。

  説明書と本を読むと、色々書いて有るが、大事なことは三つで、温度調節と雑菌を防ぐための消毒と計量であった。ピッツバーグでの彼の作は、どうやらその三つがいい加減だったらしい。

 計量は、電子台計りを購入したので、大丈夫である。
 雑菌を押さえるには、70%アルコールを霧吹きに入れて、事前に全ての器具を消毒し、その後も手で触った部分を消毒すればよいので、億劫がらねば何の問題もない。

 問題は温度調節である。説明書には「25度プラス/マイナス3度の範囲で造れ」、と書いて有るだけであった。本を読むと、毛布にくるめとか電気毛布がよいなどと書いて有るが、そんなに上手く行くかどうか不安だった。またピッツバーグの彼のようにビールが吹いたら毛布は臭くて使い物にならなくなる。

 山小屋の楽しみ術を追求する私としては、何か上手い方法はないかと考えた末、一計を案じた。近くのホームセンターへ行って2~30リットル入る角形のビニール桶(24本入りビール運搬ケースの大きさ)と金魚の水槽の温度調節用30ワットのヒーターを買ってきた。このヒーターには0.5度刻みの温度調整機能がある。桶に適当に水を入れ、そこにヒーターを沈め、25度に温度を設定すると、正確に水の温度を調整できる。水が冷たいときには、お湯を注ぎ、25度にしてからヒーターを入れる。真夏でも日向に置かなければ、水温が25度を超えることはあまり無いし、越えても水道栓を僅かに開けてそそぎ込み、余った水を溢れさせれば、一年中使える。
 この水の中に一次発酵容器を沈めれば、一週間25度プラスマイナス0.5度を保てる。また二次発酵でも、同様に一週間25度を保てる。これで温度調節は完璧である。因みに温度調節器は3、4千円であった。
 後は、レシピに従って作ればよい。

 出来た地ビールは、最初炭酸ガスの量が少ないように思えた。どうも温度調節が上手く行き過ぎたので、もう少し高い温度が必要だったのかも知れない。
 又二次発酵の時に加える砂糖の量でアルコール度の調節が出来る。v  出来上がった地ビールを冷蔵庫で冷やすと、何時でも飲める状態になる。
 驚いたことに、地ビールは防腐剤が全く入っていないためか、幾らでも飲めるのである。私は家では350ミリリットルの缶ビール一本が普通で、よほど暑いときでも500ミリリットルもあれば十分であったのに、自分で作った地ビールは、軽く1.5リットル飲み干せるのである。これには吃驚した。
 そのため6リットルのビールでは直ぐ無くなってしまい、作るのが忙しくなってしまった。v  この味が忘れられなくて、今でも時々作っている。地ビールが流行りで、最近はあちこちで売っているが、異常に値段が高いのが欠点である。やり方が分かったので、今度は一度に大量に作る方法に挑戦するつもりである。

 話は変わるが、長野、山梨地方には、よく地ビールを呑ませる店がある。
 蓼科のペンションで呑ませて貰った信州の地ビール”銀河”も旨かった。でもそれは信州の何処かで大量に作り、このペンションに瓶詰めで配送された物であった。

 清里の国道141号沿いに有るレストラン「ロック」は、その場所でプロが本格的な地ビールを造って呑ませる大きなログハウスのビヤホールである。八千穂からの帰りに此処に立ち寄るのが楽しみである。家内が運転するので安心して飲める。
 ドイツ風味の、実に旨いビールを呑ませてくれる。種類は三種類で、その中の一種類は季節限定である。客は清里の別荘の住人が少しと、あとは殆ど若者で、たっぷりした店内で静かに語らっている。人の集まる夏場の日曜日には、時々スイス音楽やロックのコンサートが開かれる。
 先日、夏休み最後の日曜日の夜、久しぶりに地ビールを、と思って立ち寄ると、店は元気な若者で溢れ、入り口に待ち行列が出来ていた。大音響の音楽がログハウスの店を打ち破らんばかりに響きわたっていた。「あ、これは駄目だ」と退散した。こんな事もあるが、常日頃は、客はまばらで落ち着いた良い店である。

★27章 シクラメン屋の親父さん


 佐久平の中心である臼田の町に農家の人がよく行く大きな農業用品専門店がある。嶋屋と言い、肥料、農機具だけでなく季節の草花、野菜の種や苗も売っている。我々は良くここで買物をする。   

 家内が東京から夏を過ごさせるために、シクラメンの小鉢を二つ持ってきて小屋の木陰に鉢ごと植えていた。一つは元気だがもう一つはどうも元気がないので嶋屋で理由を聞いてみた。しかし嶋屋では詳しいことが分からなかった。そこの店員が「シクラメンを専門に栽培している業者が居るから教えて上げますよ」と渡辺農園を紹介してくれた。

 渡辺農園は我々の山小屋から余り遠くないところにあった。早速出かけて行くと、かなり大規模なシクラメン専門の農園であった。そこの親父さんに相談してみた。親父さんは、初め「素人がつまらぬ物を持ち込んできたな」と言うそぶりで無愛想だった。しかし元々面倒見のよい人だったらしく、黙って二つの小鉢をもって作業場の方に行き、再び持って帰ってきた。そして肥料業者がサンプルとして置いていったと言うタブレットの肥料を一方の鉢に一粒指で押し込んでくれた。
  「これで良い」と言う。何だか狐に摘ままれたような気がしたが、良く聞いてみると、「売っている鉢には雑菌が居てそれが苗を駄目にするのだ」と教えてくれた。「だから土を全部入れ替えて消毒して置いたから大丈夫だ」と言う。また一方の鉢にはタブレットを入れず、「比べてごらん」と言った。

 その後二つの鉢のシクラメンは元気を取り戻したが、明らかにタブレットを入れた方がより元気になっていた。
 親父さんは、「ま、お茶でも飲んで行きな」とストーブのある小さな土間の休憩所に案内してくれた。入り口付近にぶる下がっている葡萄をもいでご馳走してくれた。親父さんの歳は60代の後半で、数年前までは遠洋航海の船乗りであったと言う。世界中を航海し、歳を取ったので国に帰ってこの商売を始めたのである。

  私も「土木工事が趣味で山小屋で色々なことをやっている」などと話す中に打ち解けて「また来な」と言うことで分かれた。

  その後何回も出かけている中に、東京の私の近所に住んでいる弁護士にシクラメンを届けてくれないかと言われ、素晴らしく咲いた二鉢を届けることになった。その弁護士は昔この親父さんの家にしばらく居て世話になって居たそうである。

  また親父さんは、現在、東南アジアの農業研修生を一人預かって面倒を見ている。その指導も結構厳しくやっている。更に親父さんは顔が広く、ここから二三キロ離れたウソの口という部落に、もう何年も掛けて自分で別荘を建てている写真家を知っていた。その人の撮った写真集を見せてくれた。その写真はなかなか素晴らしい土臭いドキュメントであった。彼は中東を中心に撮っている国際的な写真家で、進藤さんという。

  進藤さんについてはウソの口の最も奥の別荘に居る水沢さんの書いた本を読んでよく知っていた。水沢さんは新聞記者出身で「山小屋物語」と言う本を出版している。その中に進藤さんのことが詳しく紹介されている。私もこの手の本が大好きで何回も読んでいるので進藤さんのことは直ぐに分かった。

  ともかく渡辺農園の親父さんは、面倒見が良く八千穂には珍しくなかなか幅のある人である。一度私の駐車場の土止めの工法を見てくれることになっている。その時はバーベキュウ場も見てもらい、酒盛りをしたり遠洋航海の話を聞いたりしたいものでる。

★28章 マタタビ酒  (1999.3) 

 八千穂の山小屋が出来て一年後ぐらいだったろうか、未だ周りの景色が珍しいので里を含めて野山を歩き廻ることが多かった。小屋を出て、谷筋を里に向かって下ると、余り広くない段々畑が続いている。その北側の山裾に簡易舗装をした農道があり、南側には小川が流れている。小川の向こう側の土手は10メートル程の高さがあり、そこには桜、柳、あかしや等の木々が鬱蒼と茂っている。
 六月の終わり頃になると、木々の間に白と緑の二色に塗り分けられたマタタビの葉が、土手のあちこちを埋める。側に近寄ると蔓から出た葉の根本毎に可憐な白い花を沢山付けて微かに匂いを放っている。

 九月のある日、そこを通り掛かると、二センチぐらいの黄色味を帯びた緑色のマタタビの実が沢山なっているのを見つけた。マタタビ酒を作ってみようと言うことになり、早速蔓を引っ張って、家内と二人で両手一杯の実を摘み取った。
 その実はどれも以前から知っているスマートなマタタビの実とは違って、ごろんとしたいびつな恰好をしていた。でも蔓も葉も明らかにマタタビである。家に帰って図鑑を見ると、それは珍しい”虫えい”と呼ばれるマタタビであった。虫えいとは普通のマタタビの実の中にある種の虫が入ったものである。
 虫えいのマタタビの実はマタタビ酒を作るときに、特に体に良いと言うことで珍重されていることが分かった。

 喜んで早速三合の焼酎と氷砂糖を適度に入れ、マタタビ酒を仕込んだ。 
何ヶ月かして取り出して見ると、黄金色をしたマタタビ酒が美味しそうに出来ていた。
 一口飲んでみると、少し土臭く、独特の匂いがあり、梅酒のように飲みやすくはなかった。とりわけ不味いわけではなかったが、あまり呑まずに戸棚の奥に仕舞い忘れていた。

 ある日、何かのついでに取り出してみると、濁りはないが、黄金色から濃い紅茶色に変わっていた。もう一度飲んでみた。熟れてはいたが、やっぱり土臭さが残る。健康によいと信じて飲む人にはよいが、普通の人にはピッタリ来ない味であった。

 その時であった。連れて来た猫がたまたま床にほんの一滴跳ねたマタタビ酒を見つけて一口舐めた。すると体を床に擦りつけて二三回ひっくり返った。更に冗談半分にマタタビ酒の入ったカップを見せると、寄ってきてカップの縁に着いていた酒をぺろりと一舐めした。すると、まるで酔っぱらったように床に転がり回り、しばらくゴロゴロ転がっていた。生のマタタビではこれ程の反応はなかったが、マタタビ酒では異常な反応を示した。猫にマタタビと言われるが、これ程の反応を示すとは思わなかった。

 よく町で猫の爪研ぎを売っている。柱や障子の桟に爪を立てて傷を付けられるのがいやなので、時々買う。その説明書にマタタビ入りと書いてある。段ボールを縦に束ねたものを薄切りにして台に貼り付けたものであるが、その段ボールにマタタビのエキスを浸してあるらしい。しばらく匂いをかいでいるが、やおら爪を研ぎ始める。確かに初めのうちは、その板で研いでいるが、いつの間にか障子の桟に向かっている。マタタビとはその程度の効果しかないのかなと思っていた。 しかしマタタビ酒への異常な反応から、これはただごとではないと、「猫にマタタビ」の諺を見直すことになった。

★29章 山葡萄  (1999.9月) 

 ここ二週間ほど枕木による杭作りに没頭していた。昨日の土曜日で70センチの杭を64本作り終えた。床下の工作場で、大鋸屑の掃除をしていると、体の芯に疲れが残っている様な気がしたので、今日は一日床下の囲炉裏の周りでのんびりすることにした。

 傾斜地なので、床下とは言っても実は一階の部屋のようなものである。夏の床下は何故か気温も湿度もかなり低い。太陽で焼ける屋根の影響が無いせいかも知れない。北面を除く三方は、柱だけで遮るものはない。林も草も手の届くところにある。こんもりしたミズナラ、今年は豊作らしい山栗、その間から見える八ヶ岳。真っ昼間なのに何の音もしない。

 土間に折り畳み椅子を持ち出し、この間から読み差しの、池波正太郎の「剣客商売」を読み出した。半分も読んだ頃だろうか、いつの間にかうたた寝をしていた。

 ふと、目を覚ました。空気は何も変わっていない。木漏れ日は相変わらずミズナラの葉に斑模様を作っている。何処まで読んだのか、本は閉じられていた。「ウーッ」と一つ伸びをする。本を開いて、・・・「あ、ここは読んだ所だ」、と思いながら二三頁先を繰る。「ここら辺から読むか」と、又しばらく読む。 辺りはひんやりと涼しい。床下の温・湿度計は、気温22度、湿度54%を指している。9月5日の日曜日の午後である。

 読み疲れて、小屋の前から緩やかな坂を下ってみる。100メートルほど歩くと、下の道路と接する辺りに「まゆみ」の木がある。春に沢山花を付けたので、金平糖のような青い実がびっしり着いている。その隣に、比較的大きな「胡桃」の木と枝を縦横に張り出した「ズミ」の木がある。その両者を覆うように、山葡萄の蔓が大きな葉を手の様に広げて茂っている。葡萄の茂みで出来た天蓋の広さは数メートルも有ろうか、所々に蔓が垂れ下がっている。

 山葡萄はあちこちにあるが、これまで実がなっているのを見かけたことがない。村の人が採っているのも見たことがない。ただ秋になると葉が赤く染まって、綺麗な山のアクセントになるなと思っていた。

 だからいつもは実のことをあまり気にしていなかった。何となく下から覗くと、高いところに黒い房が幾つもブル下がっている。「おや、実がなっている。どんな味がするのだろう。採ってみたいな」と思う。すぐ小屋に取って返し、以前エンドウ豆の支えにした四メートルほどの竹竿を引っぱり出した。その先に大型のカッターナイフをビニールテープでしっかりと止め、長靴に履き替え、手籠を持って再び山葡萄の下に行った。

 房の根本をナイフの先で一つ一つ探り出し、刃を当てて引き切る。「ぼそっ」と急傾斜の、深い草むらに落ちる。落とす度に草むらを探って拾う。時々舗装道路に落ちると、実がバラバラになって転がる。

 山葡萄の房には、丁度熟れ始めて、艶のない紫がかった黒い実が二、三十粒ほど着いている。所々に取って付けたように青いままの実が残っていて、如何にも野生の葡萄らしく見える。
 手の届かない数房を残して、取り終えてみると、30センチの手籠に半分ほど有った。こんなに沢山採れるとは思わなかった。一粒食べてみた。甘酸っぱく、半透明のゼリーのような果肉が少々有り、普通の葡萄と同じ構造をしているが、体に不釣り合いな大きな種が二個入っていた。

 手籠の葡萄の実に加えて、何枚かの葉の着いた蔓を採って小屋に戻った。家内は早速写真を撮ってくれという。今凝っているインターネットのホーム頁に載せるのだという。葡萄の葉を採ってきたのは家内の注文であった。裏の土手のところに置いて二三枚の写真を撮った。

 こんなに採れるなら、別荘地のあちこちにある山葡萄の蔓にも葡萄がなっているかも知れないと、出かけた。蔓は確かにあちこちにあるが、あれほど大きいものはなく、実がなっている蔓は一本もなかった。きっと実がなるまでには十年以上掛かるのかも知れない。先ほどの山葡萄の蔓は、直径3センチもあった。また全ての蔓に葡萄がなるわけでもないのかも知れない。

 収穫した山葡萄は東京に持ち帰り、リカーと氷砂糖で漬けた。七年目にして得られた山の幸であるが、さてどんな味に仕上がるか。一ヶ月毎に家内に「あれはどうなった?」と聞くと、「まだ早いわよ。この間漬けたばかりじゃない」と言う。

 12月になると、漬けてから3ヶ月経つ。待ちきれなくて地下の収納庫からガラス瓶に仕込んだリカー漬けを出してきた。紫色に透き通った綺麗なリキュールが出来ていた。少し出して味わってみると、以前作ったマタタビ酒とは雲泥の差で、実に美味しく、上々の出来であった。山葡萄そのものは、性が抜けたのか余り美味しくなかった。尤も山葡萄は基々皮と種ばかりで食べるところは殆どない。
 リキュールはそれでも未だ十分熟れていないせいか、深みが足りないような気がした。もう少し置いておけば、更に美味しくなる筈だと蓋を閉めて地下に戻した。

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