佐久平の中心である臼田の町に農家の人がよく行く大きな農業用品専門店がある。嶋屋と言い、肥料、農機具だけでなく季節の草花、野菜の種や苗も売っている。我々は良くここで買物をする。
家内が東京から夏を過ごさせるために、シクラメンの小鉢を二つ持ってきて小屋の木陰に鉢ごと植えていた。一つは元気だがもう一つはどうも元気がないので嶋屋で理由を聞いてみた。しかし嶋屋では詳しいことが分からなかった。そこの店員が「シクラメンを専門に栽培している業者が居るから教えて上げますよ」と渡辺農園を紹介してくれた。
渡辺農園は我々の山小屋から余り遠くないところにあった。早速出かけて行くと、かなり大規模なシクラメン専門の農園であった。そこの親父さんに相談してみた。親父さんは、初め「素人がつまらぬ物を持ち込んできたな」と言うそぶりで無愛想だった。しかし元々面倒見のよい人だったらしく、黙って二つの小鉢をもって作業場の方に行き、再び持って帰ってきた。そして肥料業者がサンプルとして置いていったと言うタブレットの肥料を一方の鉢に一粒指で押し込んでくれた。
「これで良い」と言う。何だか狐に摘ままれたような気がしたが、良く聞いてみると、「売っている鉢には雑菌が居てそれが苗を駄目にするのだ」と教えてくれた。「だから土を全部入れ替えて消毒して置いたから大丈夫だ」と言う。また一方の鉢にはタブレットを入れず、「比べてごらん」と言った。
その後二つの鉢のシクラメンは元気を取り戻したが、明らかにタブレットを入れた方がより元気になっていた。
親父さんは、「ま、お茶でも飲んで行きな」とストーブのある小さな土間の休憩所に案内してくれた。入り口付近にぶる下がっている葡萄をもいでご馳走してくれた。親父さんの歳は60代の後半で、数年前までは遠洋航海の船乗りであったと言う。世界中を航海し、歳を取ったので国に帰ってこの商売を始めたのである。
私も「土木工事が趣味で山小屋で色々なことをやっている」などと話す中に打ち解けて「また来な」と言うことで分かれた。
その後何回も出かけている中に、東京の私の近所に住んでいる弁護士にシクラメンを届けてくれないかと言われ、素晴らしく咲いた二鉢を届けることになった。その弁護士は昔この親父さんの家にしばらく居て世話になって居たそうである。
また親父さんは、現在、東南アジアの農業研修生を一人預かって面倒を見ている。その指導も結構厳しくやっている。更に親父さんは顔が広く、ここから二三キロ離れたウソの口という部落に、もう何年も掛けて自分で別荘を建てている写真家を知っていた。その人の撮った写真集を見せてくれた。その写真はなかなか素晴らしい土臭いドキュメントであった。彼は中東を中心に撮っている国際的な写真家で、進藤さんという。
進藤さんについてはウソの口の最も奥の別荘に居る水沢さんの書いた本を読んでよく知っていた。水沢さんは新聞記者出身で「山小屋物語」と言う本を出版している。その中に進藤さんのことが詳しく紹介されている。私もこの手の本が大好きで何回も読んでいるので進藤さんのことは直ぐに分かった。
ともかく渡辺農園の親父さんは、面倒見が良く八千穂には珍しくなかなか幅のある人である。一度私の駐車場の土止めの工法を見てくれることになっている。その時はバーベキュウ場も見てもらい、酒盛りをしたり遠洋航海の話を聞いたりしたいものでる。