八千穂の山小屋が出来て一年後ぐらいだったろうか、未だ周りの景色が珍しいので里を含めて野山を歩き廻ることが多かった。小屋を出て、谷筋を里に向かって下ると、余り広くない段々畑が続いている。その北側の山裾に簡易舗装をした農道があり、南側には小川が流れている。小川の向こう側の土手は10メートル程の高さがあり、そこには桜、柳、あかしや等の木々が鬱蒼と茂っている。
六月の終わり頃になると、木々の間に白と緑の二色に塗り分けられたマタタビの葉が、土手のあちこちを埋める。側に近寄ると蔓から出た葉の根本毎に可憐な白い花を沢山付けて微かに匂いを放っている。
九月のある日、そこを通り掛かると、二センチぐらいの黄色味を帯びた緑色のマタタビの実が沢山なっているのを見つけた。マタタビ酒を作ってみようと言うことになり、早速蔓を引っ張って、家内と二人で両手一杯の実を摘み取った。
その実はどれも以前から知っているスマートなマタタビの実とは違って、ごろんとしたいびつな恰好をしていた。でも蔓も葉も明らかにマタタビである。家に帰って図鑑を見ると、それは珍しい”虫えい”と呼ばれるマタタビであった。虫えいとは普通のマタタビの実の中にある種の虫が入ったものである。
虫えいのマタタビの実はマタタビ酒を作るときに、特に体に良いと言うことで珍重されていることが分かった。
喜んで早速三合の焼酎と氷砂糖を適度に入れ、マタタビ酒を仕込んだ。
何ヶ月かして取り出して見ると、黄金色をしたマタタビ酒が美味しそうに出来ていた。
一口飲んでみると、少し土臭く、独特の匂いがあり、梅酒のように飲みやすくはなかった。とりわけ不味いわけではなかったが、あまり呑まずに戸棚の奥に仕舞い忘れていた。
ある日、何かのついでに取り出してみると、濁りはないが、黄金色から濃い紅茶色に変わっていた。もう一度飲んでみた。熟れてはいたが、やっぱり土臭さが残る。健康によいと信じて飲む人にはよいが、普通の人にはピッタリ来ない味であった。
その時であった。連れて来た猫がたまたま床にほんの一滴跳ねたマタタビ酒を見つけて一口舐めた。すると体を床に擦りつけて二三回ひっくり返った。更に冗談半分にマタタビ酒の入ったカップを見せると、寄ってきてカップの縁に着いていた酒をぺろりと一舐めした。すると、まるで酔っぱらったように床に転がり回り、しばらくゴロゴロ転がっていた。生のマタタビではこれ程の反応はなかったが、マタタビ酒では異常な反応を示した。猫にマタタビと言われるが、これ程の反応を示すとは思わなかった。
よく町で猫の爪研ぎを売っている。柱や障子の桟に爪を立てて傷を付けられるのがいやなので、時々買う。その説明書にマタタビ入りと書いてある。段ボールを縦に束ねたものを薄切りにして台に貼り付けたものであるが、その段ボールにマタタビのエキスを浸してあるらしい。しばらく匂いをかいでいるが、やおら爪を研ぎ始める。確かに初めのうちは、その板で研いでいるが、いつの間にか障子の桟に向かっている。マタタビとはその程度の効果しかないのかなと思っていた。 しかしマタタビ酒への異常な反応から、これはただごとではないと、「猫にマタタビ」の諺を見直すことになった。