★25章 堀越さんちのパーティー (2000.8月) 

 坂井さん率いる高見石へのハイキングが八月五日に行われた。私も誘われていたので、行く積もりであったが、十日ほど前に、自宅で机に躓いて足の小指を痛めて参加できなかった。

  当日は朝から快晴であったが、山の天気は不安定で、午後になって雨に降られたそうである。その夜、ハイキング仲間が堀越さんちでバーベキューをやることになっていた。家内は、初めての人ばかりなのは苦手だと言うので、誘いに来てくれた下の山荘のSさんの奥さんと出掛けた。

  このパーティーは、自分の食べるものは自分で持っていくことになっている。冷えた缶ビール四本と腸を取った新鮮な鰺二匹、タマネギの輪切りを一個分持って出掛けた。6時半を少し回ったところであった。堀越さんの奥さんが、いつもの笑顔で迎えてくれた。「今日は別な奥さん?」と、お淑やかな奥さんが、いつになく冗談を言った。人が沢山集まっているので、今日は少し興奮気味なのであろう。
 既に10人以上集まって、池田さん夫妻を中心に甲斐甲斐しく焼き始めていた。 堀越さんちのベランダは、ベランダと言うより、建物の一部であり、可成り広い。真ん中に一本の丸太から切り出された幅広の長大なテーブルがあり、両側にこれまた長いベンチがあって、20人ぐらいは座れる。その周りにも、丸太を輪切りにしたスツールが沢山あり、3、40人は軽く収容できる。立派な屋根があるので、雨が降っても大丈夫である。

  食材も焼け始め、三々五々集まった人も二十人を越えたので、坂井さんが開会の挨拶を始めた。みんなの簡単な自己紹介があり、食べ始めた。
 集まった人の三分の二は、私も既に知っている人達である。フランス人のポール・パンソナさん夫妻は、「殆ど此処に住み着いているんです」と挨拶した。ポールさんの奥さんは日本人で、以前から何度もお会いしたり、訪れたりしている間柄である。池田さんは「殆どこの地に居ますので、何か手伝うことがあったら言って下さい。何時でも行きますよ」と自己紹介した。私は、「年に三十数回も来て、土木工事をするのが最大の趣味です。その他山に登ったり、スキーをしたりします」等と紹介した。

  ポールさんは、良く自分で料理をする。今日も、茄子やキュウリなどの野菜を煮た”ラタトーユ”を大きな鍋ごと持ってきて、「今作ったばかりです」と、みんなにご馳走した。これは私の家内もよく作る料理である。「さっぱりして、美味しい」と大評判で、最初に空になってしまった。

 私が初めて合った人は、名前は忘れたが、池田さんの隣の山荘のご夫妻と、里の黒沢酒造の親戚の方で、直ぐ下の山荘に来る美しい婦人であった。また、八千穂通信という別荘のリーフレットを発行している建築家の松田さん一家が三人の子供さんを連れてやってきていた。松田さんとは、初めて話をしたが、別荘ライフについて二冊の本を書いている人で、本の中に本人の写真が出ていたので直ぐに分かった。「松田さんですね、あなたの書いた二冊の本を買って愛読していますよ」と言って挨拶した。
 また、堀越さんから、「黒沢さんは、里の名家の黒沢酒造の親戚の方で、お父さんが木工好きで、80歳になった今でも、精密な工作をやっているのですよ」と紹介があった。私は、それを聞いて、意を強くした。「80歳まで出来るなら、私の土木工事や木工も、後十五年は楽しめますね」と言って笑った。

 池田さんの隣の山荘のご主人は、「今日のハイキングでずぶ濡れになり、換えを持ってきていないので、こんな格好で来ました」と、ショートパンツ姿で挨拶した。夏の別荘地では、これぞ正装である。彼と堀越さんの義兄と私との三人は同じ歳であった。

  パンソナさんは、お国柄で、美味しいワインを持ってきてくれた。又、堀越さんのお兄さんは、珍しい地ビールを、池田さんの隣のご夫妻は、美味しい地酒を持ってきて飲ませてくれた。みんな、人の持ってきたものを珍しがって食べたり飲んだりした。

  予定の九時を大分回ったところで、坂井さんから次回十月の山行予定が発表され、お開きとなった。山にはこんな楽しい行事が時々ある。

★26章 地ビール (1999.8)

 ピッツバーグのカーネギーメロン大学に研究者として留学していた私の部下M君が最近帰国した。米国では、大学の先生も生徒も物作りが大好きで、ワイン、地ビール、燻製作りなどが流行っているそうである。みんなで車に乗って何百キロも離れた葡萄畑に出かけて、たっぷり仕入れ、それぞれ独自の方法でワインを仕込む。出来上がると、家々を廻ってワインパーティーを開き、蘊蓄を傾け合うそうである。

 ビール作りも米国では今や当たり前の趣味であり、色々な構造の器具が売られている。ビールの素だけでなく、独特の味を出すために色々な物を混ぜる。
 制作者は、ビールパーティーを開いて仲間に賞味させる。時には本人も始めて毒味する場合がある。うっかり作り損なうと王冠を抜いた途端に天井まで吹き上がり、部屋中異様な匂いに包まれることもあるそうである。

 燻製も良く作る。簡単な仕掛けから凝ったものまで色々あるが、成果はワインパーティーやビールパーティーの肴になる。
 何が飛び出すか分からないところが自作の楽しみである。

  一年前、アメリカのM君のアパートを訪れた際、彼は、まだ残っている自作のビールを抜いて歓迎してくれると言う。集まった仲間は、彼のビールが天井まで吹き上がったことを知っているので恐る恐る遠巻きにして見ている。彼もなにやら恐ろしげに栓を抜く。シューと言う音とともに、薄黄色い泡が二三センチ吹いただけで大事には至らなかった。直ぐコップに受け、先ず彼が毒味する。「一寸普通のビールとは違うけど、大丈夫です」と言う。早速みんなで呑んで見たが、どうも旨くない。泡に黄色い色が着いているのが少し気になる。ビールの味と言うより、何か果物の発酵した匂いがする。「どんな作り方で作ったの」と聞くと、「普通のレシピ通りです」という。
 「もう一本開けてみましょう」と奥さんが別な瓶を冷蔵庫から取り出す。今度は泡を吹き出さない。呑んでみると、少しはビールに近い味がする。「このくらいなら我慢できる」などと言いながら、結局三四本開けた。一本として同じ味の物はなかった。皆同じレシビで作ったと言う。どうも雑菌が入ったようである。

  そんなこともあって、日本に帰ってから自分でビールを造ってみようと、渋谷の東急ハンズを訪れた。何種類か、米国産の地ビール作りの器具が売られていた。一度に出来る量と、出来た後の取り回しに多少違いがあるだけで、どれも原理は殆ど同じである。早速米国製の一つを買い求めた。一度に6リットル造れる一次発酵用のポリ容器、缶詰に入った三種類のビールの素と酵母が三回分、砂糖を入れて二次発酵させるときの1.5リットルのポリ瓶が4本、温度計が一本入っていた。少々高く、3万5千円であった。何回作ると売っているビールより安くつくかの計算書が入っていた。それは計算高い日本人に売るために後から付け加えた説明書であった。

 家に帰って説明書を読むと、最低限のことが書かれているだけであった。何となく心配なので、書店でビール作りの本を一冊購入した。

  説明書と本を読むと、色々書いて有るが、大事なことは三つで、温度調節と雑菌を防ぐための消毒と計量であった。ピッツバーグでの彼の作は、どうやらその三つがいい加減だったらしい。

 計量は、電子台計りを購入したので、大丈夫である。
 雑菌を押さえるには、70%アルコールを霧吹きに入れて、事前に全ての器具を消毒し、その後も手で触った部分を消毒すればよいので、億劫がらねば何の問題もない。

 問題は温度調節である。説明書には「25度プラス/マイナス3度の範囲で造れ」、と書いて有るだけであった。本を読むと、毛布にくるめとか電気毛布がよいなどと書いて有るが、そんなに上手く行くかどうか不安だった。またピッツバーグの彼のようにビールが吹いたら毛布は臭くて使い物にならなくなる。

 山小屋の楽しみ術を追求する私としては、何か上手い方法はないかと考えた末、一計を案じた。近くのホームセンターへ行って2~30リットル入る角形のビニール桶(24本入りビール運搬ケースの大きさ)と金魚の水槽の温度調節用30ワットのヒーターを買ってきた。このヒーターには0.5度刻みの温度調整機能がある。桶に適当に水を入れ、そこにヒーターを沈め、25度に温度を設定すると、正確に水の温度を調整できる。水が冷たいときには、お湯を注ぎ、25度にしてからヒーターを入れる。真夏でも日向に置かなければ、水温が25度を超えることはあまり無いし、越えても水道栓を僅かに開けてそそぎ込み、余った水を溢れさせれば、一年中使える。
 この水の中に一次発酵容器を沈めれば、一週間25度プラスマイナス0.5度を保てる。また二次発酵でも、同様に一週間25度を保てる。これで温度調節は完璧である。因みに温度調節器は3、4千円であった。
 後は、レシピに従って作ればよい。

 出来た地ビールは、最初炭酸ガスの量が少ないように思えた。どうも温度調節が上手く行き過ぎたので、もう少し高い温度が必要だったのかも知れない。
 又二次発酵の時に加える砂糖の量でアルコール度の調節が出来る。v  出来上がった地ビールを冷蔵庫で冷やすと、何時でも飲める状態になる。
 驚いたことに、地ビールは防腐剤が全く入っていないためか、幾らでも飲めるのである。私は家では350ミリリットルの缶ビール一本が普通で、よほど暑いときでも500ミリリットルもあれば十分であったのに、自分で作った地ビールは、軽く1.5リットル飲み干せるのである。これには吃驚した。
 そのため6リットルのビールでは直ぐ無くなってしまい、作るのが忙しくなってしまった。v  この味が忘れられなくて、今でも時々作っている。地ビールが流行りで、最近はあちこちで売っているが、異常に値段が高いのが欠点である。やり方が分かったので、今度は一度に大量に作る方法に挑戦するつもりである。

 話は変わるが、長野、山梨地方には、よく地ビールを呑ませる店がある。
 蓼科のペンションで呑ませて貰った信州の地ビール”銀河”も旨かった。でもそれは信州の何処かで大量に作り、このペンションに瓶詰めで配送された物であった。

 清里の国道141号沿いに有るレストラン「ロック」は、その場所でプロが本格的な地ビールを造って呑ませる大きなログハウスのビヤホールである。八千穂からの帰りに此処に立ち寄るのが楽しみである。家内が運転するので安心して飲める。
 ドイツ風味の、実に旨いビールを呑ませてくれる。種類は三種類で、その中の一種類は季節限定である。客は清里の別荘の住人が少しと、あとは殆ど若者で、たっぷりした店内で静かに語らっている。人の集まる夏場の日曜日には、時々スイス音楽やロックのコンサートが開かれる。
 先日、夏休み最後の日曜日の夜、久しぶりに地ビールを、と思って立ち寄ると、店は元気な若者で溢れ、入り口に待ち行列が出来ていた。大音響の音楽がログハウスの店を打ち破らんばかりに響きわたっていた。「あ、これは駄目だ」と退散した。こんな事もあるが、常日頃は、客はまばらで落ち着いた良い店である。

★27章 シクラメン屋の親父さん


 佐久平の中心である臼田の町に農家の人がよく行く大きな農業用品専門店がある。嶋屋と言い、肥料、農機具だけでなく季節の草花、野菜の種や苗も売っている。我々は良くここで買物をする。   

 家内が東京から夏を過ごさせるために、シクラメンの小鉢を二つ持ってきて小屋の木陰に鉢ごと植えていた。一つは元気だがもう一つはどうも元気がないので嶋屋で理由を聞いてみた。しかし嶋屋では詳しいことが分からなかった。そこの店員が「シクラメンを専門に栽培している業者が居るから教えて上げますよ」と渡辺農園を紹介してくれた。

 渡辺農園は我々の山小屋から余り遠くないところにあった。早速出かけて行くと、かなり大規模なシクラメン専門の農園であった。そこの親父さんに相談してみた。親父さんは、初め「素人がつまらぬ物を持ち込んできたな」と言うそぶりで無愛想だった。しかし元々面倒見のよい人だったらしく、黙って二つの小鉢をもって作業場の方に行き、再び持って帰ってきた。そして肥料業者がサンプルとして置いていったと言うタブレットの肥料を一方の鉢に一粒指で押し込んでくれた。
  「これで良い」と言う。何だか狐に摘ままれたような気がしたが、良く聞いてみると、「売っている鉢には雑菌が居てそれが苗を駄目にするのだ」と教えてくれた。「だから土を全部入れ替えて消毒して置いたから大丈夫だ」と言う。また一方の鉢にはタブレットを入れず、「比べてごらん」と言った。

 その後二つの鉢のシクラメンは元気を取り戻したが、明らかにタブレットを入れた方がより元気になっていた。
 親父さんは、「ま、お茶でも飲んで行きな」とストーブのある小さな土間の休憩所に案内してくれた。入り口付近にぶる下がっている葡萄をもいでご馳走してくれた。親父さんの歳は60代の後半で、数年前までは遠洋航海の船乗りであったと言う。世界中を航海し、歳を取ったので国に帰ってこの商売を始めたのである。

  私も「土木工事が趣味で山小屋で色々なことをやっている」などと話す中に打ち解けて「また来な」と言うことで分かれた。

  その後何回も出かけている中に、東京の私の近所に住んでいる弁護士にシクラメンを届けてくれないかと言われ、素晴らしく咲いた二鉢を届けることになった。その弁護士は昔この親父さんの家にしばらく居て世話になって居たそうである。

  また親父さんは、現在、東南アジアの農業研修生を一人預かって面倒を見ている。その指導も結構厳しくやっている。更に親父さんは顔が広く、ここから二三キロ離れたウソの口という部落に、もう何年も掛けて自分で別荘を建てている写真家を知っていた。その人の撮った写真集を見せてくれた。その写真はなかなか素晴らしい土臭いドキュメントであった。彼は中東を中心に撮っている国際的な写真家で、進藤さんという。

  進藤さんについてはウソの口の最も奥の別荘に居る水沢さんの書いた本を読んでよく知っていた。水沢さんは新聞記者出身で「山小屋物語」と言う本を出版している。その中に進藤さんのことが詳しく紹介されている。私もこの手の本が大好きで何回も読んでいるので進藤さんのことは直ぐに分かった。

  ともかく渡辺農園の親父さんは、面倒見が良く八千穂には珍しくなかなか幅のある人である。一度私の駐車場の土止めの工法を見てくれることになっている。その時はバーベキュウ場も見てもらい、酒盛りをしたり遠洋航海の話を聞いたりしたいものでる。

★28章 マタタビ酒  (1999.3) 

 八千穂の山小屋が出来て一年後ぐらいだったろうか、未だ周りの景色が珍しいので里を含めて野山を歩き廻ることが多かった。小屋を出て、谷筋を里に向かって下ると、余り広くない段々畑が続いている。その北側の山裾に簡易舗装をした農道があり、南側には小川が流れている。小川の向こう側の土手は10メートル程の高さがあり、そこには桜、柳、あかしや等の木々が鬱蒼と茂っている。
 六月の終わり頃になると、木々の間に白と緑の二色に塗り分けられたマタタビの葉が、土手のあちこちを埋める。側に近寄ると蔓から出た葉の根本毎に可憐な白い花を沢山付けて微かに匂いを放っている。

 九月のある日、そこを通り掛かると、二センチぐらいの黄色味を帯びた緑色のマタタビの実が沢山なっているのを見つけた。マタタビ酒を作ってみようと言うことになり、早速蔓を引っ張って、家内と二人で両手一杯の実を摘み取った。
 その実はどれも以前から知っているスマートなマタタビの実とは違って、ごろんとしたいびつな恰好をしていた。でも蔓も葉も明らかにマタタビである。家に帰って図鑑を見ると、それは珍しい”虫えい”と呼ばれるマタタビであった。虫えいとは普通のマタタビの実の中にある種の虫が入ったものである。
 虫えいのマタタビの実はマタタビ酒を作るときに、特に体に良いと言うことで珍重されていることが分かった。

 喜んで早速三合の焼酎と氷砂糖を適度に入れ、マタタビ酒を仕込んだ。 
何ヶ月かして取り出して見ると、黄金色をしたマタタビ酒が美味しそうに出来ていた。
 一口飲んでみると、少し土臭く、独特の匂いがあり、梅酒のように飲みやすくはなかった。とりわけ不味いわけではなかったが、あまり呑まずに戸棚の奥に仕舞い忘れていた。

 ある日、何かのついでに取り出してみると、濁りはないが、黄金色から濃い紅茶色に変わっていた。もう一度飲んでみた。熟れてはいたが、やっぱり土臭さが残る。健康によいと信じて飲む人にはよいが、普通の人にはピッタリ来ない味であった。

 その時であった。連れて来た猫がたまたま床にほんの一滴跳ねたマタタビ酒を見つけて一口舐めた。すると体を床に擦りつけて二三回ひっくり返った。更に冗談半分にマタタビ酒の入ったカップを見せると、寄ってきてカップの縁に着いていた酒をぺろりと一舐めした。すると、まるで酔っぱらったように床に転がり回り、しばらくゴロゴロ転がっていた。生のマタタビではこれ程の反応はなかったが、マタタビ酒では異常な反応を示した。猫にマタタビと言われるが、これ程の反応を示すとは思わなかった。

 よく町で猫の爪研ぎを売っている。柱や障子の桟に爪を立てて傷を付けられるのがいやなので、時々買う。その説明書にマタタビ入りと書いてある。段ボールを縦に束ねたものを薄切りにして台に貼り付けたものであるが、その段ボールにマタタビのエキスを浸してあるらしい。しばらく匂いをかいでいるが、やおら爪を研ぎ始める。確かに初めのうちは、その板で研いでいるが、いつの間にか障子の桟に向かっている。マタタビとはその程度の効果しかないのかなと思っていた。 しかしマタタビ酒への異常な反応から、これはただごとではないと、「猫にマタタビ」の諺を見直すことになった。

★29章 山葡萄  (1999.9月) 

 ここ二週間ほど枕木による杭作りに没頭していた。昨日の土曜日で70センチの杭を64本作り終えた。床下の工作場で、大鋸屑の掃除をしていると、体の芯に疲れが残っている様な気がしたので、今日は一日床下の囲炉裏の周りでのんびりすることにした。

 傾斜地なので、床下とは言っても実は一階の部屋のようなものである。夏の床下は何故か気温も湿度もかなり低い。太陽で焼ける屋根の影響が無いせいかも知れない。北面を除く三方は、柱だけで遮るものはない。林も草も手の届くところにある。こんもりしたミズナラ、今年は豊作らしい山栗、その間から見える八ヶ岳。真っ昼間なのに何の音もしない。

 土間に折り畳み椅子を持ち出し、この間から読み差しの、池波正太郎の「剣客商売」を読み出した。半分も読んだ頃だろうか、いつの間にかうたた寝をしていた。

 ふと、目を覚ました。空気は何も変わっていない。木漏れ日は相変わらずミズナラの葉に斑模様を作っている。何処まで読んだのか、本は閉じられていた。「ウーッ」と一つ伸びをする。本を開いて、・・・「あ、ここは読んだ所だ」、と思いながら二三頁先を繰る。「ここら辺から読むか」と、又しばらく読む。 辺りはひんやりと涼しい。床下の温・湿度計は、気温22度、湿度54%を指している。9月5日の日曜日の午後である。

 読み疲れて、小屋の前から緩やかな坂を下ってみる。100メートルほど歩くと、下の道路と接する辺りに「まゆみ」の木がある。春に沢山花を付けたので、金平糖のような青い実がびっしり着いている。その隣に、比較的大きな「胡桃」の木と枝を縦横に張り出した「ズミ」の木がある。その両者を覆うように、山葡萄の蔓が大きな葉を手の様に広げて茂っている。葡萄の茂みで出来た天蓋の広さは数メートルも有ろうか、所々に蔓が垂れ下がっている。

 山葡萄はあちこちにあるが、これまで実がなっているのを見かけたことがない。村の人が採っているのも見たことがない。ただ秋になると葉が赤く染まって、綺麗な山のアクセントになるなと思っていた。

 だからいつもは実のことをあまり気にしていなかった。何となく下から覗くと、高いところに黒い房が幾つもブル下がっている。「おや、実がなっている。どんな味がするのだろう。採ってみたいな」と思う。すぐ小屋に取って返し、以前エンドウ豆の支えにした四メートルほどの竹竿を引っぱり出した。その先に大型のカッターナイフをビニールテープでしっかりと止め、長靴に履き替え、手籠を持って再び山葡萄の下に行った。

 房の根本をナイフの先で一つ一つ探り出し、刃を当てて引き切る。「ぼそっ」と急傾斜の、深い草むらに落ちる。落とす度に草むらを探って拾う。時々舗装道路に落ちると、実がバラバラになって転がる。

 山葡萄の房には、丁度熟れ始めて、艶のない紫がかった黒い実が二、三十粒ほど着いている。所々に取って付けたように青いままの実が残っていて、如何にも野生の葡萄らしく見える。
 手の届かない数房を残して、取り終えてみると、30センチの手籠に半分ほど有った。こんなに沢山採れるとは思わなかった。一粒食べてみた。甘酸っぱく、半透明のゼリーのような果肉が少々有り、普通の葡萄と同じ構造をしているが、体に不釣り合いな大きな種が二個入っていた。

 手籠の葡萄の実に加えて、何枚かの葉の着いた蔓を採って小屋に戻った。家内は早速写真を撮ってくれという。今凝っているインターネットのホーム頁に載せるのだという。葡萄の葉を採ってきたのは家内の注文であった。裏の土手のところに置いて二三枚の写真を撮った。

 こんなに採れるなら、別荘地のあちこちにある山葡萄の蔓にも葡萄がなっているかも知れないと、出かけた。蔓は確かにあちこちにあるが、あれほど大きいものはなく、実がなっている蔓は一本もなかった。きっと実がなるまでには十年以上掛かるのかも知れない。先ほどの山葡萄の蔓は、直径3センチもあった。また全ての蔓に葡萄がなるわけでもないのかも知れない。

 収穫した山葡萄は東京に持ち帰り、リカーと氷砂糖で漬けた。七年目にして得られた山の幸であるが、さてどんな味に仕上がるか。一ヶ月毎に家内に「あれはどうなった?」と聞くと、「まだ早いわよ。この間漬けたばかりじゃない」と言う。

 12月になると、漬けてから3ヶ月経つ。待ちきれなくて地下の収納庫からガラス瓶に仕込んだリカー漬けを出してきた。紫色に透き通った綺麗なリキュールが出来ていた。少し出して味わってみると、以前作ったマタタビ酒とは雲泥の差で、実に美味しく、上々の出来であった。山葡萄そのものは、性が抜けたのか余り美味しくなかった。尤も山葡萄は基々皮と種ばかりで食べるところは殆どない。
 リキュールはそれでも未だ十分熟れていないせいか、深みが足りないような気がした。もう少し置いておけば、更に美味しくなる筈だと蓋を閉めて地下に戻した。

★30章 焚き火場を作る (2000.1,2,3、4、5月)

 まだ一月なのに、外は春のように暖かい日が続いている。いつもなら固く凍ってスコップの歯が立たない土も、表面に霜が降りる程度で、中は柔らかい。三月か四月の陽気である。

 別荘地の工事仲間の池田さんは、登山仲間の小高さんと二人で、早くも、頼まれて堀越さんの庭の階段作りを始めた。例年は、土をいじる工事は早くても三月末であるが、池田さんに刺激されて、私も以前から計画していた焚き火場を作ることにした。

 焚き火場は、室内の薪ストーブと並んで山の重要な舞台装置である。戸外で火を囲んでの談笑や一人黙然と薪や粗朶が燃える様子を眺めるのは、山の醍醐味の一つである。だから焚き火場は最も良い場所に作りたい。出来れば、もう一つの舞台装置である床下の囲炉裏に近い方が便利だし、雰囲気も出る。

 建物の直ぐ南の斜面に、将来の花壇のために空けておいた一番日当りの良い場所に焚き火場を作ることにした。

 生えていた白樺などの小木を二月と三月にそれぞれ移植した。表面の5cmほどが凍っていたが、スコップだけで何とか掘り起こせた。移植に適した時期かどうか分からないが、凍っていて土が崩れないので、木のためには良かったのかなと思う(でもツツジは大丈夫であったが、白樺の小木は後で枯れてしまった)。

 土留めのため、枕木置き場から18本の枕木を引き下ろし、先ずその中の二本の枕木を縦引きして16本の杭を作った。杭作りはいつもながら、大仕事で、丸二日掛かった。また、里の砂利屋から砂利を2トン運んでもらった。更に、13枚の飛び石と60枚の耐火煉瓦を里のホームセンターから買ってきた。

 工事に先立ち、水泡の水平器とレーザー水準器を使って簡単な測量をした。

 建物から犬走り分1.4メートルほど離して、傾斜地を平らにし、東西に3.2メートル、南北に2.5メートルの平地を作った。
 四辺に枕木を3~4段積んで土留めをした。約8平方メートルの平地が出来た。山側の土を崩して谷川に入れたので外部から土を補給する必要はない。

 地形が北東から南西に傾斜しているので、東と北側には、平地から上側に土留めの枕木を四段積み、南と西側には、平地から下側に三段積む形になった。土留めに要した枕木は、全部で16本となり、杭は大小23本であった。

 出来上がった平地の中心から、少し南に寄せて、内径1メートルの、凹型の円形炉を作った。粗朶を燃すときは、がさ張るので、このくらいの大きさがどうしても必要である。
 しかし、薪による焚き火にはやや大き過ぎるので、扱いやすいように、その内側を垂直に掘り下げ、50センチ径の炉を作った。

 具体的には、下段の垂直炉は25センチ掘り下げ、底を十分固め、霜で浮かないように5センチほど砂利を入れた。内側には耐火煉瓦を、厚み方向に縦てて、放射状に29枚並べた。その煉瓦の頭のレベルに合わせて、15センチ幅で輪状に平らな面を作り、炉の内部に降りるステップとした。
 ステップ面から上には、60度の角度で、耐火煉瓦を漏斗型に26枚貼った。更に、煉瓦の頭を隠すように、直径30センチ、厚さ7センチの飛び石を11枚、周りに配置した。これは縁の補強と飾りを兼ねている。

 飛び石は美感上互いに少し離した。飛び石の下には霜よけのため、5cmほど砂利を敷いた。

 最後に平地全体に飛び石の面に合わせて約12センチほど砂利を入れて完成である。
 ここに使った砂利は、固まり易さと歩き易さから、粗さ25ミリ以下のものを、凡そ0.7立方メートル入れた。大型バケツで37杯分あった。

 この平地の西面に沿って、建物から直角に庭に下りる階段を付けた。幅70センチ、ステップの高さ20センチ、踏み込み幅45センチの枠を枕木で5段作った。枠の中に土を入れ、その上に5センチの深さで砂利を入れた。この階段は、二段目が焚き火場の平地と同じレベルになっていて、焚き火場に降りる通路を兼ねている。

 本当は、業者に頼んで、大きな自然石で炉を組みたかったが、傾斜がきつく、またユンボが入る余地がないので、やむなく、扱いやすい人工的な材料で作ることになった。
 思ったよりすっきり出来たが、全体に幾何学的過ぎるきらいがある。それでも使い込めば、もう少し味が出てくるかも知れない。

 友人の日野氏は、これを見て、「この炉のために山小屋が見違えるようにいい雰囲気になったよ」と誉めてくれた。下の佐藤夫人は、友人を連れてきて、まるでプロが作ったようだと、驚いていた。

 炉の周りの平地には、腰掛け用に、直径30センチほどの丸太を40センチの長さに切り、三つほど置いた。焚き火は、風向きで煙の方向が頻繁に変わるので、人が移動しやすいように、椅子はスツール形にした。この他、ホームセンターからアルミ製の三人掛けベンチを買ってきて北端に置いた。

 同じ別荘地の堀越さんの焚き火場には、自然木を三又に組み、真ん中に二股の木をブル下げて、鉄瓶が掛けられるようになっている。野趣豊かであるが、大量に薪や粗朶を燃やす場合には取り外す必要があるので、やや面倒である。

 そこで、一メートルほど離れた場所に、太く短い鉄パイプを打ち込み、そこに、回転可能な、腕木の着いた2メートル程の棒を挿し込む。棒と腕木は、腐らぬよう、また素朴な味が出るように枕木から切り出して作る。腕木の先端にはフックを着け、簡単な自在鍵を吊り下げる。
 棒の根には長い釘を一本貫通させ、一定の深さまでしか入らないようにして、回転し易くする。また、その釘が鉄パイプの断面の切り欠きに落ち込み、腕木の方向が定まるようにする。
 実はこの部分は構想だけで未だ出来ていない。

 火の始末には、やはり水を掛けるのが一番安心である。しかし、翌日も燃やす場合があるので、中段の炉に合わせて、取っ手の付いた八角の鉄の落とし蓋を里の鉄工所で作ってもらった。蓋には黒い耐火塗料を塗って貰った。

 焚き火場では、下段の炉を使ってバーベキューも出来る。また地下の囲炉裏でバーベキューをしながら、焚き火場で湯を沸かせる。そんな使い方をするためにも、囲炉裏と焚き火場の両方が近くにあると便利である。

 日野氏は早速そこいらに転がっていた腐りかけた杭や階段に使っていた丸太を拾って燃やした。二段構造の炉は、大きな薪でも縁に立てかけられるため、軽快に燃える。

 こんな風にして火を見ていると、「やはり焚き火は山小屋の宝石だなあ」と思う。

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