2-2.別荘ライフの色々
最も一般的な利用形態は避暑である。母子が何となく一週間、一ヶ月滞在し、週末毎に父親が訪れる場合を考えると、少しイメージが湧いてくる。父親と子供の接触時間も増す。
別荘ライフの特徴は前にも述べたように、何と言っても都会の家のような雑事がないことである。雑事がないので家事がそれほど億劫ではない。
涼しいところで温泉に入ったりペットと散策したり何となく怠惰に過ごすのは別荘ライフの醍醐味である。
別荘地に観光地が隣接していると、案外そこへ出かけていく。軽井沢ではアウトレットや通常の店に買い物目当てに行く人もいるくらいである。またレストランを回り歩いたり、時には友人知人を招待して過ごすのも楽しい。子供や孫の来訪も嬉しい。
しかしこのような使い方は、比較的若い人々や長期滞在になると、だんだん持て余してくる。案外長続きしないものである。現代人、特に日本人は、ただのんびりと過ごすことに慣れていない。そんなことから、別荘の利用頻度はだんだん下がっていく。
それでも、その利用バランス点が別荘ライフである。余り行かなくても良いのである。年に二、三度使えば目的の大部分は達成したと思った方がよい。
別荘の諸費用の元を取ろう等とは努々思ってはならない。別荘とは、どんな辺鄙なところを選んでも建物、電気、水道、税金などの固定費用がかかる。行く回数にも依るが、ホテルに滞在するより割高なものである。それに代えられない雑事からの開放、自然との共生による心のゆとりが得られる所であり、結果的にストレスの発散が出来るところである。これは金に替えられない効用である。
因みに我々のように安く購入し(借地権と建物、道具類など併せて2,000万円として)、二人で年30回以上(二泊三日)も行っている場合でも、20年で消却したとして、経費を除いても一人素泊まり8,000円以上に付く。 まして普通はその1.5倍以上出して購入し、年間の使用頻度も少ないので、一人一泊素泊まり2万円以上となる。更に売却は殆ど二束三文である。
それならホテルを泊まり歩いた方がよいという考え方もでてくる。しかし、それは本質的に比べる対象ではない。
前にも書いたように何時行っても良い、何時帰っても良い、途中から人が加わっても良い、滅多に使わない物でも置いておける、都会から隔離されて自然に浸れる、閑静である、雑用が殆ど無い、使い易いように土地建物などを改造できる、自然の風景の季節による移り変わりを楽しむことが出来る、趣味の創作とその設備を備え付けられる、ペットを連れて行ける、宿泊日数による滞在費を考えなくて良い・・・。これが価値である。
このような別荘ライフはマジョリティーとして今後とも続くであろう。しかしその反対に、自然に浸かり込んで歩き回ったり労働をしたりする積極的な利用法が最近徐々に増えている。それは我々のように毎週末にやってきて、景色の移ろい、季節毎の風景の変化、天候による雰囲気の変化を楽しみ、高山植物の観察、星の観察、山菜や茸の採集、野外作業、土木工事、農作業で汗を流し、山やスキーやテニスの基地として使い、更に趣味の創作をする人達である。
一般に、何年間にも渡り、毎週来る人は、必ずそこで恒常的にやる趣味を持っている。そのような人は未だ少なく、400軒もある八千穂の別荘地でも20軒程度(5%)である。因みに我々は、土木工事や木工、山歩き、山菜取り、スキー、山(庭)の手入れ、小屋の手入れ、草刈り、スケッチ、植物の世話、自然観察、写真等の作業的、或いは行動的趣味を持っている。300坪強の庭とその周りの山には無限にやることがあるものである。
また、中古の出ものの別荘があると、それは二束三文で売るわけであるから、びっくりするほど安い場合がある。つい最近('05.9)、明日から住める350万円と700万円の出物が売買された(建物は消却済み、土地の借地権のみ)。
これらの人達には、華やかな人の集まるホテルやレストランは必ずしも要らない。有名な観光地が近くに無くても良い。深い自然があればよい。それだけで毎週やってくる種族である。そのような種族は労働を厭わない。近所に畑を借りて家庭菜園を楽しむことも出来る(自分の小屋の庭は森のままにしておきたい)。新聞も電話もテレビも要らないと言う人が多い。自分で工夫することが好きである。勿論掃除、洗濯、食事の支度はみな自分たちでやる。
その目的に適した別荘地は概して安価である。別に別荘地でなくても良いが、海浜、山岳、森林地帯等で電気、水道、ゴミ処理などの基本的サービスを求めると別荘地になってしまう。
別荘地でない山中に建てる場合は、取り付け道路の設置、水道や電気の引き込みに思わぬ費用が掛かるし、ゴミ処理も大変である。また時間と労力が掛かる。凍結問題も深刻である。でもそう言うところで山荘生活を楽しんでいる人も沢山居る。