★49章 スキーの思い出  (1998年)

 スキーを始めて、かれこれ45年になる。一シーズンに一度も行かなかった年は一度か二度だったように思う。1.スキーツアー

 かつてのスキー旅行では、石油ランプがブル下がった山小屋に泊まって、土間に据えられた薪ストーブを囲んで、山談義やスキー談義に花が咲いたものである。

 時代と共にスキーの楽しみ方も変わってきた。昔のツアーコースにはゴンドラが掛かったり、ゲレンデになってしまった所も多い。そのため、ツアーコースが減り、シールを着けて登山したり、山から山へ渡り歩くコースが随分少なくなった。
  それでも、若い山岳部の連中が、我々の若いときのように、大きな荷物やスキーを担いで山に登って行くのを見ると一寸安心する。

 我々も若い頃はよくスキーツアーに行った。思い出してみると、福島県岳温泉から安達太良山へのツアー、志賀高原の横手山から草津へのツアー、蔵王のどっこ沼から地蔵岳、更にお釜へのツアー、白馬八方尾根の黒菱小屋から唐松岳第一ケルンへのツアー、天神平から谷川岳へのツアー、菅平から樹氷の見られる根子岳へのツアー、赤倉から関、燕温泉へのツアーなど、装備の不十分な時代であったが、厳しくも思い出深いツアーであった。

 またこれらのツアーには、何時も良きリーダーが付いていて、夜ともなれば、ストーブを囲んで、安いウイスキーをチビリチビリやりながら、ツアーの注意、装備の話、そして数々の経験談を聞かせてくれた。彼は、初心者を連れていくので、安全のため、ツアー当日は人より3時間も早く起きて、皆の知らない中にその日のコースを全て下見して来ていた。これには吃驚した。人の面倒を見るとは、そこまでやるのだと、不言実行で教えてくれた。

2.HOMEスキー   その後大学の時の友人四人でHOHM(日野、小沢、橋本、三井の頭文字)と言う名のスキークラブを作った。親戚、知人、会社の仲間などを毎年20人位連れて正月休みには必ず白馬山麓の南小谷のスキー場に出かけた。そこは今では白馬コルチナスキー場とハイカラな名前で呼ばれている。宿は農家の座敷で、初期の頃は、建物に入っていくと馬が「ぬーっ」と顔を出した。宿の人達は素朴で、皆とても良い人達であった。行き始めた頃は、まだ小さかった宿の子供達は、小学校を経て中学に行くようになると、スキーも我々よりずっと上手くなっていた。  

 JRの千国の駅から、スキーとリュックを担いで、雪道を一時間も掛かって宿まで歩いた。更に、ゲレンデへも宿から一時間歩かなければならなかった。一晩に一メートルも雪が積もることがあった。初心者にはシールを着けさせ、スキー場まで歩かせた事もあった。ベテランはみんなの握り飯や応急修理道具をリュックに詰めて担いだ。スキー場に着くと、先輩が雪を踏み固めて初心者用のゲレンデを作った。また交代で指導する手はずを整えた。

 ゲレンデの適当なところに集合場所を作り、そこに日の丸の旗を立てて、お菓子や飲み物を置いておいた。上手い人も初心者も、そこに頻繁に立ち寄って、互いに一人にならないように配慮した。我々四人は、スキーも楽しかったが、段取りしたり、みんなの面倒を見るのが好きだったように思う。

 当時のスキーは未だ機械的に弱く、時々折る者が出た。本来ツアー用品であるが、我々はスキーの先に取り付ける金具を常に持っていて、折れたスキーの先にネジで取り付け、何とか滑れるようにした。
  そんな配慮をしていたせいか、15年続いたHOHMスキークラブの怪我はゼロであった。

3.スキーで落ちる  

 それでも、個人的に行ったスキーでは、これまでに何度も崖から落ちたり、池に落ちたりしたことがある。不思議なことに一度も大怪我はしなかった。

 最初の事故は、湯沢高原で起きた。下の布場スキー場に降りる葛折の山岳コースを滑って来て、曲がり損ない、崖から落ちた。しかし、偶然二三メートル下に有った水平二股に張り出した木の上に落ちた。しかもこれまた偶然ふんわりと立ったままの姿勢で落ちたのである。もし木がなかったら、十メートル以上下の道まで落ちただろう。木の上でスキーを外し、後から来た仲間にストックで引き上げて貰った。

 また蔵王で、霧の深い山岳コースを滑っていたとき、急に前方の大地が無くなった。気が付いたときは、五メートル下の雪原に叩き付けられていた。眼鏡、帽子は辺りに飛び散っていた。当時のスキーは外れなかったので、流れなかった。気が付くと手袋の親指の付け根が切れていた。手袋を脱いでみると、親指の付け根の皮が少し削り取られていた。傷はそれだけだった。

 更に、妙高高原だったと思う。やはり霧の中を滑っていて、気が付いたら大地がなかった。運が悪いことに、三メートル下は氷の張った浅い池であった。しかし姿勢が乱れていなかったので、空中で下が池であることに気が付き、急遽スキー前部を揚げ、体をのけぞらせ、その場で止まっても良い姿勢を作った。案の定、氷が割れてその場で立ったままの姿勢で止まった。氷の上の雪と、氷が割れてショックが吸収されたのか、無傷であった。

 まだまだある。若い頃は下手なのに、無鉄砲をしたものである。何れも運良く怪我をしなかったが、一つ間違えれば大変なことであった。

4.クロスカントリースキー

 我々の若い頃の用具に比べると、現在の用具の進歩には目を見張る物がある。特に靴の進歩は著しい。紐は全て金具に替わって、締まりが良くなった。種類が豊富だから足に合ったものを選べば、フォーミング材を足に沿って流し込む必要は殆ど無い。「すね」まで入る堅い靴によってスキー捌きも良くなった。このため後傾し過ぎて尻餅をつかないで良くなった。ストックも軽くなった。だからゲレンデで転んでいる人が極端に少なくなり、怪我も減った。

 今年は靴の進歩をそのまま感じる経験をした。
 NHKがやっている”中高年の山歩き”と言うグループがある。そのグループが募集したクロカンスキースクール(クロスカントリーをクロカンと略していう)に入り、八ヶ岳の渋温泉で、生まれて初めてクロカンスキーを経験した。

 金属エッジは無いが、スキーは軽く、歩くには全く良いのであるが、靴が編み上げの運動靴のようで、柔らかく、踝から上は頼るところがない。更に靴の先端が固定されているだけで踵は自由に上がる。
  ひとたび重心が後ろに行くと、途端に尻餅をつき、重心が前に行くと、そのままつんのめる。踵が上がったまま力が横に働くと、スキーと足が別々な方向を向き、横のバランスもとれなくなる。これがスキーの原型であったことを思い知らされた。それに比べれば、今のゲレンデスキー用具の完璧な進歩には目を見張るものがある。

 クロカンスキーの決定的な特徴は、細いことと登り易いように、スキーの裏の中心部に浅い鋸の歯形の模様が刻んであることである。前には滑るが後ろには引っかかるようになっている。スキーを雪面にぺったり付けると、その効果がより出る。
  クロカンの曲がり方は、谷足に加重し、山側の足を引いて膝を深く曲げる独特のテレマークであるが、私は慣れていないので、パラレルで曲がったが、何とかなった。しかし深雪では通用しないであろう。

 メンバーは山登りのサークルであるので、スキーなど殆どやったことのないおばさん達が多いので、家内も含めて皆七転八倒していた。

 おまえは少し見所があると、先生が山スキーを貸してくれた。靴を履き替え、シールを貼って踏み跡のないゲレンデを稲妻形に登っていく。登りだけは踵が上がるようになっているので、少し重いが、快適に登れる。

 昔はよくシールを着けてツアーに行ったものであるが、それ以来30年もシールを着けたことがない。シール自体も進歩していて昔のようにシールを紐で縛り付ける必要がない。単に複数回の接着剥離に耐える糊で貼り付けるだけである。下りはシールを剥がし、靴の踵が上がらないようにセットして、やおら新雪を快適にと言いたいが何とか転ばずに滑ってきた。勿論近代的靴のために重心の外れによる不安定さは無い。

 翌日は先生に連れられて、近くの八方台という八ヶ岳がよく見える小高い山まで1時間程度のツアーを組んでくれた。これこそクロスカントリーで、踏み跡のない林を抜けたり、山谷を渡り歩いたりして、ほんのさわりではあったが結構楽しいスキーツアーであった。

 でも、あんなに細いスキーで、新雪の野山を歩き回れば、雪の深さ分だけ潜ってしまって、とても楽しむどころではないだろう。この間は偶々良い天気で、踏み跡こそなかったが、古い雪で、固く締まっていたから歩き回ることが出来たのだ。
 だから、クロカンスキーは、もう雪が余り降らなくなった春のスキーツアーか、踏み固められたコースで、アップダウンのそれほど大きくない野山を滑る所謂競技スキー用なのであろう。

★50章 老いても進歩が(2001.1)


★老いても進歩が(2001.1)

 私も60の半ばを過ぎた。一般に65歳以上は老人と見なされている。シニアの仲間入りが早いのはスキーで、55歳からリフト券が割引される。60歳から公営美術館や公園の入場券が割引又は只になる。65歳から年金が支給され、電車やバスのシルバーシートの権利が何となく与えられる。70歳になるとバスの無料券を貰える資格が出来る。
 尤も私立大学の教授はまだ70歳定年の所が多いし、個人タクシーの運転手は75歳になってもやっている人が居るから70歳前後は老人ではあるが、必ずしも引退の年齢ではない。

 老人ホームを訪れると、75歳で既に惚けている人もいれば、102歳でしっかり話せる人もいる。実際には、”人は自分が老いたと思うときから老いる”ので、”老い”は人によって千差万別である。  

 面白いことに、歳を取っていくと、鍛えてもそれ以上に衰える要素と、鍛えればまだまだ伸びる要素とがある。記憶力や思い出す力は、ある程度努力で補えても明らかに減退していく。
 しかし、人は事に当たり、常にこれ以上出来ないところまで鍛えてきたわけではないので、何事につけても鍛えると伸びる余地が沢山残されているものである。
 

 歳を取った者にとって、そこが付け目である。そこに進歩の楽しみを見出すのである。時には道具の進歩を利用して仮想的な実力を伸ばすことがあっても良い。
 早い話が、”60の手習い”と言って歳を取ってから始める絵画、陶芸、習字、楽器などは明らかにそれなりに進歩する。歳を取って衰える要素より初心者が基礎を身につけて伸びる要素の方がずっと優勢なのである。
 

 スキーを例にとると、私のスキーは40年以上続けているが、つい最近までウェーデルンがちゃんと出来なかった。本気で上手くなろうとしなかったことに依っているが、山小屋に行くようになって、毎年少しずつ上手くなるのである。始めの頃、家内や友人は、「あなたのスキーは確かにパラレルだが、身体全体が右に左にうねる”山田うどん”だよ」と言う。どうもメリハリが無いらしい。自分でも確かにそうなっている事が分かる。

 周りで教えている指導員のスキーを見ると、安定で且つ、腰から下だけが左右にうねるだけである。「どうすれば、そうなるのだろうか」と、よく観察してみる。始めは手の位置、重心の位置など、見掛けの格好だけを真似てみるが、どうも上手く行かない。そのうち、曲がる瞬間のテールのずらしがゆっくりで且つ大きいことに気が付く。
 しかし、大きくずらすと、重心が後に残り次の回転に入れない。そこで、ずらし終わったときにエッジを立てることを覚えた(実は腰より下だけがずれると言うことは、自然にエッジが立つのである)。すると安定して次の回転に入れる。結果的に腰から下だけが左右に振れるようになった。「それで良いのよ」と素人の家内は言う。「初心者コースを滑る人の中ではかなり上手く見える」と言う。しかし、これをやや急な傾斜でやってみると、どうも上手い人とどこかが違う。自分でも時々身体よりスキーが先に行ってしまうような気がするし、エッジが不必要に流れることがある。 そこで、テールを大きくずらし、エッジを掛けた瞬間に、身体を谷に向かって投げ出すように飛び込んでみた。実際にはテールをずらし始めたときから既に身体は谷に投げ出す用意をしているのである。すると、どうだろう。スキーが先に行ってしまう感覚がなくなった。これを繰り返して見ると、家内は「上手い人と似た格好になった」と言う。これを連続して繰り返す練習をしてみた。家内は「見違えるように上手くなった」と言う。一緒に行った友人も、「凄く綺麗になった」と言ってくれた。手の動きも、いつの間にか上手い人と似てきた。こうすると、頭は殆ど動かず、腰から下だけが左右にうねり、リズミカルで安定な滑りになる。

 我々の年齢では、テールジャンプ程度でもジャンプは体力的に厳しい。スキーが終わって小屋に入るとき、飛び上がって靴同士を叩き、雪を落とすことは既に出来なくなっている。
 谷に向かって身体を投げ出す操作は、ジャンプではなく、谷に向かっての落差を利用して飛び降りるだけである。だから体力を必要としない。

 これだけのことであるが、習うのが嫌いな私は、ここまで来るのに5~6年掛かった。

 因みに最近スキー界ではウェーデルンという言葉は使われなくなった。全日本スキー連盟のバッジテストから、ウェーデルンは外されている。代わってカービングスキーによるテールをずらさないで曲がる高速滑走が取り入れられている。速度を落とすのは、スキーの趣旨に反するらしい。スキーは競技で保っていることからやむを得ないが、年寄りは年寄りらしいスキーをする必要がある。
 尤も、我々のような年寄りは、スキー場では殆ど見掛けなくなった。精々孫の子守と雪景色を楽しみに来るだけである。

 ここで大事なことは、人は若いときに全てのことに上達しているわけではないので、練習すれば必ず伸びる余地が残されていることである。また歳を取っても、理屈を考え、目標を持って繰り返し練習してみると進歩すると言うことである。

 体力に関係なく進歩するのが面白い。勿論転んだときの怪我は、歳と共に大きくなる可能性がある。そのためにも、ウェーデルンのように速度を落とす技術が必要なのである。

 また、年齢と共に疲れが早くなるので、休憩時間をたっぷり取る必要があるし、疲れ切るまでやらないことが大切である。
 我々は、午前一時間滑り、休憩を一時間以上取って、午後一時間滑るペースで楽しんでいる。そうすれば、翌日の仕事に全く影響しない。

 ”老いても進歩が”は、何もスキーだけではない。スポーツもその他の趣味も美しくやろうという意気込みがある中は進歩するものである。

★51章 猟犬に襲われる (1999.3)

★猟犬に襲われる (1999.3)

 ある寒い冬の朝、一人で別荘地内を散歩していた。一本の道のドン詰まりを折り返し、緩やかな坂道を下って来た時のことである。突然道の右下の別荘から、私の体に近い大きさの猟犬、ポインターが、道に上がってくるなり私に向かって吠え掛かってきた。一瞬、「はっ」と、身の毛がよだった。毛並みから見て明らかに飼い犬である。
 キルティングの防寒服を着てフードを被り、裏側に毛のある厚い手袋をして、ややごついチロリアンシューズを履いていたので、犬は不審に思ったのか、挑戦的な面構えをして近づいてきた。

 回りに人気はない。五メートルまで近づいてきて、今にも襲いかかる構えで吠えたてる。武器は、全く持っていない。私は咄嗟に、素手で戦う覚悟を決めた。

 正面小学校の柔道の時間に習った自然本体に構えた。戦う姿勢を示すため、一歩前に出た。犬の目を睨み据え、攻撃を待った。犬は猟犬であるから必ず飛びかかってくる。その間にも犬は怯まず腰を屈めてじわじわ近づいてくる。三メートルまで近づいてきた。飛びかかってきたらビブラムソールのチロリアンで顎を一撃しようと身構え、右足に全神経を集中した。
 その時、ふと、靴紐をそれほどきつく締めていない事に気が付いた。瞬間、もしかしたら最初の一撃目で靴が脱げるかも知れないと言う思いが横切った。絶対外せない。どっちが最初に致命的な一撃を加えるかが勝負である。もし、しくじったら、どんな形になっても喉を押さえ、目玉を潰してやるぞと心に決めた。

 その間二秒も有ったろうか、低い体勢で体をぶるぶる振るわせながら、じわじわ二メートルに近づいてきた。飛びかかってこようとする瞬間、口笛が聞こえた。飼い主が只ならぬ犬の吠え方に何かあったのかと確認しに来て、人に向かっているのを見たのか、呼び戻したのである。犬は戦意を解き、きびすを返して戻って行った。飼い主は卑怯にも出てこなかった。その瞬間、飼い主に対する言い様のない憎悪感が体を駆け抜けた。

 飼い主は、ほっかむりを決め込み、最後まで現れなかった。「このやろう」と言う思いは今でも消えていない。しかしその時、何故かその家に怒鳴り込まなかった。
 実際に犬と格闘したらどうなっていたか分からない。
大声を出していたら事態はもう少し変わっていたかも知れないが、その時は向かい合うことに全神経を集中していた。

 その後何年も経つが、未だにその家の人間に合うチャンスはない。しかし、そこを通る時は何時でも小型の鉈を持って歩いた。残念ながら似たような二軒の家のどっちだったか思い出せない。それだけ興奮していたのだろう。

 帰って何日か後、管理人にこの事を話した。管理人は何の感動もない素振りで私の話を聞いていた。地方自治体の管理人は深入りしたくないのだろう。しかし、そんな顔はしていたが、何処の家か知っているらしかった。

 これは、もう何年も前の話である。「護身用のナイフを買わなければならないな」と思いながら未だに買っていない。

★52章 ナイフ (1999.11)

★ナイフ (1999.11)
 山小屋に行くようになって、近所の山々を徘徊すると、何となく山を荒らす藤の蔓や茨を退治することが多い。また庭に生えてくる藤の芽や茨の芽を根本から切ったり、茂りすぎた灌木を整枝したりするために、選定鋏、片手鋸、鉈(三種の神器と呼んでいる)を腰に吊り提げて歩くことが多い。また小分けされて売っている各種部品の開封、袋物の開封にはポケットに何時も入っている小型カッターが便利である。
  しかし腰に吊している三種の神器は、がさばるし重い。目的もなくただ歩き回るときには大袈裟でもある。また鉈や鋸の使用頻度はそれほど多くない。やはり選定鋏とカッターの使用頻度が最も高い。しかし剪定鋏だけを持ち歩くには、鋭い先端が危険である。そのためポケットに入る先端の丸まった小型の選定鋏を買って、最近では、カッターとそれだけを持ち歩いている。 以前、放し飼いにされた猟犬に襲われたことを書いた。また最近は野犬化した捨て犬が横行していると聞く。猪や猿や蛇ぐらいは出てきても不思議ではない。 少し山を下りたところに、マムシに注意の標識が立てられている。
 都会でも烏に襲われる例もある位である。だから山では最低限の護身用の武器が必要であると感じていた。「手頃なナイフが有れば良いな」と思いながら数年が経過してしまった。日本だけでなく外国へ行ったときにも、この種の店に立ち寄って探していたが、自分の用途に合った、愛着の持てそうなものには、なかなか行き当たらなかった。   ある日、秋田に居る道具好きの息子が、「”またぎ”が使うナイフを注文するので、親父も頼まないか」と言う。一寸心が動いたが、どんなものが出来るかよく分からなかったので、遠慮していた。昨年の夏、息子の所を訪ねたとき、出来上がったナイフを見せてもらった。それは本当に”またぎ”が使うもので、荒々しい出来で、刃渡りは20cm、幅も4cm位有り、刃と柄が一体に鍛造され、柄は棒が挿せるように筒状になっている。山で、もし熊に遭遇したら、熊に向かって棒の付いたナイフを突き刺し、ナイフを熊の体に残して逃げるのだという。素朴で如何にも切れそうであるが、私の要求とは少し違っていた。  

 つい最近、渋谷の東急ハンズに寄ってみた。何百種も並んでいるナイフの中に、「おや」と思うものが有った。しばらく他のナイフや山刀などと比べながら眺めていた。大きさと形状が好み通りであり、手打ちの鋼の肌が美しい。柄と鞘がチーク材で作られ、断面が僅かに太鼓型に膨らんだ鞘が魅力的であった。   ”鈴木寛さん”という人の作品である。ナイフの造りについては、能書きがなかったので、店員に電話で聞いて貰った。1mmほどの鋼の両側からステンレス鋼で包むようにして鍛えられているとのことであった。鋼とステンレスの重ね目は不規則であるが、微かに波打って見える。刀の刃に近く、両面が曲面で研がれている。又刃の付け根の柄には、打ち跡のある鍛造のリングが填められ、柄の強度を増すと同時に、洗練され過ぎたナイフに野趣を与えている。  

 チークの鞘の要所要所には、点のようにステンレス製の小さな四角い頭の鋲が打ち込まれ、デザインにアクセントを与えている。更に鞘の周りを、ぶ厚い皮で包み、その合わせ目が1cmほど空いていて、革ひもで鞘に密着するように編み上げられている。皮の先はベルト通しになっている。仕上げも実に丁寧で、且つ機能的である。刃渡りは18cm、最大幅3.5cm、厚み5mmでバランスも良い。刀の鯉口に相当する金具も、5mm厚の真鍮の板から複雑な曲線で切り出されたもので、重厚であり、これを身に着けて崖を這い上がっても抜けない構造になっている。しかし、使うときには簡単に親指で鯉口が切れる。柄の形はやや細身で、緩やかな曲線をなし、端の握りの形状も機能的である。これを作った人は、鍛冶屋だけでなく、工芸にもかなり造詣が深いように見える。  

 先端が「ツン」と鋭く尖り、刃渡りが適当であり、重さも小型の鉈程度で、振ったときのバランスもよい。山で常時携帯すれば、簡単な調理、万が一の中規模の動物の襲来にも耐えられる。当に私の希望通りであった。

 限定二本と記されていた。倉庫から持ってきて貰ったもう一本と併せて手にとって比べて見ると、手打ちであるため、微妙な違いがある。二本の中から鯉口に信頼感のある方を選んだ。

 研ぎは中砥を掛けたままで、十分な切れ味が出ていないように見えるので山小屋でじっくり研いで見るつもりである。

 この種の作品は気に入ることが大切で、その後で買えるかどうかを決めることになる。幸い出来具合の割には頃合いの値段で35,000円であった。これが高いかどうかは、欲しいと思う心とのバランスである。
  実際には、作者のネームバリューを除いて、同じものを何本作ったか分からないが、デザインに何日掛かったのか、鉄を鍛えるのに何日掛かったのか、柄と鞘を作るのに何日掛かったのか、設備費の消却は、流通の費用は、と考えると、申し訳ないような値段だとも言える。

 家に帰ってゆっくり眺めると、ナイフ自身も鯉口も柄も鞘も見れば見るほど精巧に出来ている。芸術品とまでは行かないが、それに近い味わいがある。これを身に着けて歩いたときの充実感を考えると、「久しぶりに良い買い物をしたなあ」と思った。

 しかしその後、刀よりももっと丸みを持って研がれた刃先は、丈夫であるが、どんなに良く研いでも、片面研ぎとは違って切れ味が悪く、物を削ったり、料理をしたり、一寸した鉈代わりには向かない事が分かった。飽くまで突きを意識した護身用なのである。

 何時かナイフや鉈の代わりに使えるように両面をやや薄く鋭角に研いでみる積もりである。 

53章 スリップ事故

 
★スリップ事故 (99.12) 

 1999年12月10日金曜日、三週間ぶりに、山小屋に向かった。この頃から冬らしい冬が始まる。
 テレビ、ラジオは寒波の襲来を伝えていた。気温は下がったが、佐久地方では積雪は全く無く、乾いた天気が続いていた。
 何となく今日は関越道廻りで行くことにした。関越道回りだと、中央道回りより10分程時間が増える。でも目先を変えるため、時に関越道を利用する。

 佐久インターを降りても、周りには雪のかけらもなく、道路はパサパサに乾いていた。141号を南下し、八千穂から山小屋のある299号に入った。
 少し安心し、人気のなくなった部落沿の軽い坂道を気持ちよく登り、曲がりくねった畑の中の舗装道路に入った。冬になると雪が残っていて危険な場所にも、今回は全く雪が無く、冬枯れの景色が続いていた。後3~4キロで小屋に着く筈であった。

 軽い登り坂を右に緩やかに曲り終わった直後、突然車体全体が左に僅かに「スーッ」と流れた。慌てて左にカウンターハンドルを切る。途端に右後輪が出てきた。すぐに右にカウンターを切る。右に曲がり始める。再度左カウンター、右カウンター、を切るが、うねりはどんどん大きくなり、とうとう運転不能になって、進行方向右手のガードレールに真っ正面からぶつかってしまった。
 しかし、車の勢いは依然として登り方向にあったため、ぶつかった車の先端を軸にして、右回転をしながら、今度は左後部バンパーをガードレールにぶつけた。 ここで進行方向への速度は無くなったが、回転の勢いは止まらず、更に180度回転して、登り方向に頭を向けて、左の側溝に滑り込んで、「ガツン」と止まった。

 一瞬の出来事であったが、後で頭の中でなぞってみると、10秒ほどの足掻きであった。途中、ガードレールに向かってから直撃するまでの一秒間は、ガードレールとその背景が急拡大して迫ってくるが、どうにもならない一瞬であった。

 空身で木から落ちたり崖から落ちたりするときは、自分の体を丸めるとか、力を抜くとかするが、入れ物ごと落ちたりぶつかったりするときは、待つ以外全く為す術がないのである。それだけに、ぶつかるまでの行程がズームアップされて、そのまま見えてしまう。きっと飛行機が地面に落ちる瞬間も同じ感覚になるだろうと思った。

 幸い体には何の損傷もない。すぐ車を降りようと道路の上に足を載せると、ビブラムソールのチロリアンシューズが、まともに歩けないほど氷で滑る。車に伝い歩きしながら、車の前後の損傷具合を確認した。
 左前の車輪を溝に落とし、前面のバンパーはガードレールと接触した跡が生々しく端から端まで真っ白に染まっている。でも目立った破損はない。ナンバープレートの縁が僅かにめくれ上がり、そのすぐ横のバンバーが、5cm四方削り取られている。ライトは全て灯いている。
 後ろに回って見た。後ろのバンバーの左先端部がクシャッと握りつぶされたように潰れている。側溝は幅50cm、深さ50cm程でほんの少し水が流れている。そこに後輪が落ち、微かに擦れるような音がしている。後輪のアームが側溝の縁に乗っていて、車輪は宙に浮いてゆっくり回っている。気が付くとギヤが入りっぱなしであった。運転席に戻ってギヤをパーキングに入れると、擦れる音は止まった。

 明かりを取るため、エンジンもライトも切らなかった。何とか道路に戻す方法はないかと考えたが、一人ではどうにもならないことが分かった。

 里まで5kmを歩いて助けを求めに行くか、車の来るのを待つか思案していた。その時は、やはり動転していたのか、携帯で110番することに気が付かなかった。また道路は一面凍っているのに、寒さを全く感じなかった。もっとも、外に出るとき防寒コートを着て出ていたが。

 この道路は、冬は15キロ先で閉鎖になっているため、一般車の通行はない。僅かに別荘関係者しか通らない道である。それも夜11時である。それでも万が一、車が来たときに引き上げて貰おうと、ワイヤーを出して用意しておいた。しかし車の来る気配は無い。

 何となくどうしようかと本気で心配し始めたとき、下の方からライトが近づいてくるのが見えた。懐中電灯を振って止まって貰う。中型の四駆である。「すみません。引っ張ってくれませんか」と、唐突に頼んでいた。彼は「ワイヤーありますか」と言う。「あります」と答える。中年の夫婦であった。横を擦り抜けて前の方に出るとき、スタッドレスタイヤを着けたその四駆もスリップした。私の車の前方で止め、降りてきて様子を見てくれた。

 「心細かったでしょう」と声を掛けてくれた。「いや、今やったところでしたので」と、せっかくの心使いに水を注すような言葉が出てしまった。やはり慌てていたのである。「この氷の状態で引っ張れるかな」と言いながら、右前方の僅かに氷の無い部分に車を戻してきた。
 クレモナロープを二本にして、自分の車の右前方と相手の左後方にワイヤーを結びつけた。「エンジン掛かりますか」と聞く。「ええ」と答える。既に掛かっている。登り方向に引っ張るので、かなり重い筈である。出来るだけ右前方に引っ張れば、後輪が側溝の縁に掛かるので、せり上がる力が使える。なるべく右に引いて貰った。
 彼はゆっくり動かし始めた。四駆と言えども氷上では当然スリップする。しかし氷が薄いので、回していれば、溶けて舗装が現れるので少しずつ動く。しかしワイヤーが伸びるだけで、私の車は動かない。一瞬「切れるかな」と思った時、車体が「ぐらっ」と動き、上手く後輪が側溝の縁に掛かったらしい。私もすかさず噴かす。「ググッ」とせり上がって、路上に出られた。なお、二三メートル引いて貰う。「助かった」。

 この時始めて後ろを振り返ると、3、40メートルに渡って、道路が一面に真っ黒に凍っている。道は殆ど直線である。その上に、私の車の轍が、始め直線から左右に三回ほどうねって振幅を広げながらガードレールに直角になるまで続いていた。
 ここは、左の側溝が、上の方で塵か何かで詰まり、道路に水が溢れ、一面に流れて凍っていたのである。偶々そこは雪が降ると、解けずに、何時までも残っている最悪の場所であった。

 私の車はスタッドレスを履いていたが、ABSは付いていない。ブレーキは掛けたかどうか覚えていないが、カウンターハンドルが効いていたところを見ると、ブレーキは踏んでいなかったよに思う。速度も殆ど落ちていなかった。今考えると、砂利道を高速で走るときの横滑りを修正する感じでカウンターハンドルを切っていたように思う。氷上での経験がなかったので、カウンターを強く切りすぎて戻しが遅かったため、車が右左にうねったのである。咄嗟のこととはいえ、10秒もあったのにポンピングブレーキにも気が回らなかった。
 ガードレールに直角にぶつかったが、車の速度は道なりの方向に出ていたため、結果的に激突ではなかった。それが証拠に、バンバーには、全面が擦れたようにガードレールの塗料が着いていたが、正面のランプ類に損傷はなく、全て灯いていた。

 四駆の主は、別荘の山本さんと言う方であった。「また凍ったところがあると危ないので、前を走って下さい」と言う。その通りにさせて貰ってゆっくり走った。何となく左の後輪が擦れるような音がするが、何とか走れた。標高1200mの標識のところで、私は左折するが、山本さんはそれより少し上の方の別荘の人であった。
 「大丈夫そうなので、後で様子を見てみます。本当に有り難うございました。お陰様で助かりました」と、お礼を言って別れた。件の場所以外の道路には水気は全くなかった。

 小屋に着いて、夜も遅かったので、その夜は寝た。今日は家内がパソコン教室があり、一緒に来られなかったので、怖い思いをさせずにすんだ。
 
 翌朝、少し走らせてみた。やはり擦れる音がする。カバーが擦れている音とは違う。加速もする。ブレーキも効く。小屋の前でジャッキアップして後輪を浮かせると、車輪ががたつく。車輪の鉄のリムの縁がひどく凹んでいたが、タイヤには損傷がなかった。ホイールカバーも飛んでしまって無かった。
 タイヤを外してみると、ブレーキの内側で車輪を支えている最も重要な部品である鋳物のハブが一ヶ所折れていた。「これは駄目だ。東京まではとても帰れない」と思った。
 側溝に滑り込んだときの勢いで車輪のリムを側溝に強く打ち付けて止まったが、その時、車軸を支えているハブが折れたのである。

 何時もお世話になる里のガソリンスタンドに電話して、近くに修理屋が無いかを聞いた。幸い山を下りたすぐの所に有る修理工場を教えてくれた。それは最近新築した立派な建物で、「あれは何だろう。パチンコ屋でもないし」と言っていた建物であった。土曜日であったが、早速電話をして、「かくかくしかじかですが見てくれるでしょうか」と聞いた。「動くのですか。良いですよ、気を付けてきて下さいね」と言われ、ほっとした。

 行くと、奥さんがコーヒーを入れてくれた。主も気さくに対応してくれて、すぐ見てくれた。さて部品があるかどうかである。あちこちに電話で聞いてくれた。土曜日なので、何処も休みだったり、部品がなかったりで、やきもきしていたが、ある解体屋にチェイサーが有ると言う。マークIIと、部品が共通だから、今から取りに行ってくれると言う。しかし遠いから一度家に帰って待っていた方がよいと、別の車で小屋まで送ってくれた。

 夜八時頃になって治ったことを確認した。「遅いので明日届けます」という。翌日奥さんと二人で、二台で来てくれた。タイヤのリムの凹みも直してくれてあった。今日東京に帰るので、バンパーは東京で修理することにした。

 解体屋の車の部品を外し、付け替えるのは、相当の工数であることは、素人目にもよく分かった。費用を聞くと、思ったよりずっと安い4万なにがしかであった。正味7時間掛かっている筈である。

 お陰で無事東京に帰ってきた。スリップした件の場所は、あらかた乾いていた。
溝から溢れた水が凍ったようでもあり、前々日辺りに降った雨が凍たままになっていたようでもあったが、原因は不明のままである。ホイールキャップは側溝の中にあったが、使いものにならなかった。
 ガードレールを見ると、正面衝突をしたところは、幸いにも柱と柱の真ん中であった。ガードレールが10センチ程撓み、衝撃を吸収してくれていた。

 その後、バンパーの凹みの打ち出しと塗装を自分でやり、何とか見場を回復させた。しかし、ブレーキを掛けると「シュー、シュー」と周期的な音がする。自分でジャッキアップして回転させてみると、車軸が僅かに曲がっていて、タイヤ周辺で5mm程偏心回転になっていた。ブレーキを掛けると、ブレーキ機構のキャリパーが僅かに左右に揺れ、音を出していることが分かった。再度八千穂の修理工場に持ち込んで、車軸の交換をしてもらったが、ブレーキを掛けたときの音は取れなかった。どうやらブレーキディスクが偏芯しているらしい。東京から電話で、ディスクを取り寄せてもらい、次に行ったときに、取り替えてもらった。今度はすっかり直った。

 その後、ライトが少し下向きになっていることに気がついた。ライトはボディーに取り付けられてはいるが、一部バンパーにも止められているため、衝突でバンパーが内部に押し込まれたときに、ライトの留め金が折れ曲がってしまっていたのである。これも水準器を使って調整してもらった。

 私は自分の車には保険を掛けない主義である。だから修理費は全て自前である。しかし修理費は、非常に安く、全部で10万円程であった。何とか全て元に戻った。
 こんな大きな自損事故は初めてであった。この種の事故は、殆ど予測できないので、寒冷地では、四駆とABSは必須であると、改めて思い知らされた

★54章 山のカクテル

 

 「山小屋にカクテルは似合わないさ」、何と言っても「山小屋には猿酒だよ」と言われれば、「そりゃそうだよな」と納得せざるを得ない。しかし、山に入ったからといって、猿酒に巡り会うチャンスは滅多に無い。

 猿と言えば、東京でも五日市から奥多摩湖へ抜ける風張峠辺りにはよく野猿が現れる。人が餌をやるためか、車の通る道端に出てきて待っていることがある。

 何年か前、北アルプスの常念岳に登ったとき、麓の山道で猿の一群に出会った。今、通り過ぎたばかりの森で「がさがさ」大きな音がする。振り返ると、やや大ぶりな猿の一団が、二三メートルの高さの枝を渡り歩いている。しばらくすると、何処とも無く去っていった。

 また、ある秋の夕方、白骨温泉の森の奥で、黒い大きな動物が枝音を立てて落葉松の大木から降りてくるのが見えた。一瞬「熊かな!」と思ったが、直ぐ見えなくなった。何となく危険を感じたので、温泉街に戻って土地の人に知らせると、「近くに大きな猿が一匹住んでいて、時々出て来るんですよ」と言った。

 このように、猿には時々お目に掛かるが、猿酒を味わうチャンスに恵まれたことはない。尤も猿だけが偶然酒を造るわけではなく、窪んだ木の股に山梨などが熟れて落ち、自然に出来ることもあろうし、猿以外の動物が蓄えておいたものが醗酵して出来ることもあるだろう。だから我々にも当然猿酒ならぬ山のリキュールが造れるはずである。

 時々、これまでの経験を元に新しい混合比を試みてみるが、なかなか旨いものは作れない。長い歴史の中で、人の口に合う組み合わせは、殆ど試みられているようである。それでも毎年新しいレシピが出るところを見ると、奥の深さを感じる。
  此処八千穂で独自のリキュールを造れば、それを使った新しいカクテルが出来るかも知れないので楽しみにしている。

 私は、山小屋の囲炉裏の周りで作ることもある。火の傍で呑む冷たい酒は何とも旨い。カクテルは外気で暖まる前に二三口で呑むものだが、強いこともあって、ゆっくり呑む人も多い。夕暮れに森を見ながらチビリチビリと飲むのもまた一興である。女性は悪酔いしないように一杯程度にしておきたい。種類を楽しみたければ、一口程度を注いで貰って味わうと良い。
 マルガリータのように、グラスの縁に塩をまぶす、所謂スノースタイルは、塩をなめなめ、ゆっくり呑むのが良い。日本の升酒に似ていて面白い。

 佐久平にも、東京と同じように、酒の安売りスーパーが何軒もあり、手頃な値段でベースの蒸留酒やリキュールが何でも揃う。しかし、家内がよく飲むノンアルコールビールは売っていないので東京から持ってくる。

 ノンアルコールビールは、アルコール度が0.9%以下なので、零下10度以下になる冬は、室内でも凍って膨らみ、時に吹き出してしまうことがある。だから、寒い佐久平では、貯蔵が面倒なので売らないのかも知れない。そんな心配があるときは、少量なら冷蔵庫に入れておくと良い。

 私は、山小屋の囲炉裏の周りで作ることもある。火の傍で呑む冷たい酒は何とも旨い。カクテルは外気で暖まる前に二三口で呑むものだが、強いこともあって、ゆっくり呑む人も多い。夕暮れに森を見ながらチビリチビリと飲むのもまた一興である。女性は悪酔いしないように一杯程度にしておきたい。種類を楽しみたければ、一口程度を注いで貰って味わうと良い。
 マルガリータのように、グラスの縁に塩をまぶす、所謂スノースタイルは、塩をなめなめ、ゆっくり呑むのが良い。日本の升酒に似ていて面白い。

 佐久平にも、東京と同じように、酒の安売りスーパーが何軒もあり、手頃な値段でベースの蒸留酒やリキュールが何でも揃う。しかし、家内がよく飲むノンアルコールビールは売っていないので東京から持ってくる。

 ノンアルコールビールは、アルコール度が0.9%以下なので、零下10度以下になる冬は、室内でも凍って膨らみ、時に吹き出してしまうことがある。だから、寒い佐久平では、貯蔵が面倒なので売らないのかも知れない。そんな心配があるときは、少量なら冷蔵庫に入れておくと良い。

 

★55章 あとがき (1999.1) 2003.1.17

 都会は都会で楽しいことも多い。でも、ストレスに満ちあふれた都会を離れて山に来ると、何とも言えずほっとする。
 年に30数回も来るが、八年経った今では、もっと頻繁に来たいと思うようになっている。初めはそんなことになろうとは思いもよらなかった。だから他人から見ると、「高い交通費を払って一体何の騒ぎだろう」と思うのも無理はない。
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 つい先日も知人から「そんなに頻繁に山小屋へ行って何するんだい」と聞かれた。「色々やることがあるんだ」と言っても分からないのは当然である。毎朝長靴を履いて、山を見ながら庭を歩き回ったり、部屋に飾る野の花を摘み取ってきたり、草刈りをやったり、隣近所の森の具合を眺めたりする。
  秋には栗の実を拾ったり、茸を探したり、山葡萄や木苺の熟し具合を見たりして、つい朝食が遅くなる。

 昼は昼で下手な木工をやったり、山小屋の舞台装置を作るための土木工事に精を出す。大袈裟に言うと、山での土木工事が好きだから山小屋に来るのである。数回に一度は家内と軽登山を楽しみ、冬になれば毎週スキーに出かける。連休になると囲炉裏を囲んで隣近所の人と鍋物やバーベキューをやる。だから思ったよりやることが多い。山の舞台装置が揃って来るにつれ、私は工事の合間に、家内はパソコンの合間に、囲炉裏で食事を作ったり、お茶を飲んだりする事が多くなった。
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 一寸したきっかけから始まった山小屋暮らしだが、知らない中にはまり込んでいた。
 時々「これが毎日続いたらどうだろうか」と考えることがあるが、それはやってみなければ分からない。でも、八年も来たい気持ちが続いたのだから、一週間に一度なら当分続くだろう。いずれにしても、なるようになればよいと思っている。

 山小屋を建てたときから山のメモを書くようになった。本書はそのメモと記憶を頼りに思い起こすままを書いた130章余りの文章の中から、54章を選んで纏めたものである。  山小屋生活に関わる工作や土木工事の話がやや多くなってしまったが、細かい技術の話は出来るだけ避け、作業の楽しい雰囲気を伝えるように心がけた。 私だけでなく、男は誰でも、アウトドアへの郷愁があるように思う。本書は、そんな方々と自然を共有したり、これから山小屋を建てられる方や既に持っておられる方々が、山小屋生活をより楽しむための一助になれば幸いである。
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 「山小屋が呼んでいる」を記すに際し、大変勝手ながら、別荘の方々、村の方々、友人等のお名前を断り無しに使わせていただいた。どうかお許し戴きたい。
最後に下町生まれで都会育ちの家内が、何となく山登りをしたり、スキーをしたり、森を眺めたりする雰囲気が好きになって行く事に感謝している。それが我々の原点だからである。  

                

         

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