★29章 山葡萄  (1999.9月) 

 ここ二週間ほど枕木による杭作りに没頭していた。昨日の土曜日で70センチの杭を64本作り終えた。床下の工作場で、大鋸屑の掃除をしていると、体の芯に疲れが残っている様な気がしたので、今日は一日床下の囲炉裏の周りでのんびりすることにした。

 傾斜地なので、床下とは言っても実は一階の部屋のようなものである。夏の床下は何故か気温も湿度もかなり低い。太陽で焼ける屋根の影響が無いせいかも知れない。北面を除く三方は、柱だけで遮るものはない。林も草も手の届くところにある。こんもりしたミズナラ、今年は豊作らしい山栗、その間から見える八ヶ岳。真っ昼間なのに何の音もしない。

 土間に折り畳み椅子を持ち出し、この間から読み差しの、池波正太郎の「剣客商売」を読み出した。半分も読んだ頃だろうか、いつの間にかうたた寝をしていた。

 ふと、目を覚ました。空気は何も変わっていない。木漏れ日は相変わらずミズナラの葉に斑模様を作っている。何処まで読んだのか、本は閉じられていた。「ウーッ」と一つ伸びをする。本を開いて、・・・「あ、ここは読んだ所だ」、と思いながら二三頁先を繰る。「ここら辺から読むか」と、又しばらく読む。 辺りはひんやりと涼しい。床下の温・湿度計は、気温22度、湿度54%を指している。9月5日の日曜日の午後である。

 読み疲れて、小屋の前から緩やかな坂を下ってみる。100メートルほど歩くと、下の道路と接する辺りに「まゆみ」の木がある。春に沢山花を付けたので、金平糖のような青い実がびっしり着いている。その隣に、比較的大きな「胡桃」の木と枝を縦横に張り出した「ズミ」の木がある。その両者を覆うように、山葡萄の蔓が大きな葉を手の様に広げて茂っている。葡萄の茂みで出来た天蓋の広さは数メートルも有ろうか、所々に蔓が垂れ下がっている。

 山葡萄はあちこちにあるが、これまで実がなっているのを見かけたことがない。村の人が採っているのも見たことがない。ただ秋になると葉が赤く染まって、綺麗な山のアクセントになるなと思っていた。

 だからいつもは実のことをあまり気にしていなかった。何となく下から覗くと、高いところに黒い房が幾つもブル下がっている。「おや、実がなっている。どんな味がするのだろう。採ってみたいな」と思う。すぐ小屋に取って返し、以前エンドウ豆の支えにした四メートルほどの竹竿を引っぱり出した。その先に大型のカッターナイフをビニールテープでしっかりと止め、長靴に履き替え、手籠を持って再び山葡萄の下に行った。

 房の根本をナイフの先で一つ一つ探り出し、刃を当てて引き切る。「ぼそっ」と急傾斜の、深い草むらに落ちる。落とす度に草むらを探って拾う。時々舗装道路に落ちると、実がバラバラになって転がる。

 山葡萄の房には、丁度熟れ始めて、艶のない紫がかった黒い実が二、三十粒ほど着いている。所々に取って付けたように青いままの実が残っていて、如何にも野生の葡萄らしく見える。
 手の届かない数房を残して、取り終えてみると、30センチの手籠に半分ほど有った。こんなに沢山採れるとは思わなかった。一粒食べてみた。甘酸っぱく、半透明のゼリーのような果肉が少々有り、普通の葡萄と同じ構造をしているが、体に不釣り合いな大きな種が二個入っていた。

 手籠の葡萄の実に加えて、何枚かの葉の着いた蔓を採って小屋に戻った。家内は早速写真を撮ってくれという。今凝っているインターネットのホーム頁に載せるのだという。葡萄の葉を採ってきたのは家内の注文であった。裏の土手のところに置いて二三枚の写真を撮った。

 こんなに採れるなら、別荘地のあちこちにある山葡萄の蔓にも葡萄がなっているかも知れないと、出かけた。蔓は確かにあちこちにあるが、あれほど大きいものはなく、実がなっている蔓は一本もなかった。きっと実がなるまでには十年以上掛かるのかも知れない。先ほどの山葡萄の蔓は、直径3センチもあった。また全ての蔓に葡萄がなるわけでもないのかも知れない。

 収穫した山葡萄は東京に持ち帰り、リカーと氷砂糖で漬けた。七年目にして得られた山の幸であるが、さてどんな味に仕上がるか。一ヶ月毎に家内に「あれはどうなった?」と聞くと、「まだ早いわよ。この間漬けたばかりじゃない」と言う。

 12月になると、漬けてから3ヶ月経つ。待ちきれなくて地下の収納庫からガラス瓶に仕込んだリカー漬けを出してきた。紫色に透き通った綺麗なリキュールが出来ていた。少し出して味わってみると、以前作ったマタタビ酒とは雲泥の差で、実に美味しく、上々の出来であった。山葡萄そのものは、性が抜けたのか余り美味しくなかった。尤も山葡萄は基々皮と種ばかりで食べるところは殆どない。
 リキュールはそれでも未だ十分熟れていないせいか、深みが足りないような気がした。もう少し置いておけば、更に美味しくなる筈だと蓋を閉めて地下に戻した。

★30章 焚き火場を作る (2000.1,2,3、4、5月)

 まだ一月なのに、外は春のように暖かい日が続いている。いつもなら固く凍ってスコップの歯が立たない土も、表面に霜が降りる程度で、中は柔らかい。三月か四月の陽気である。

 別荘地の工事仲間の池田さんは、登山仲間の小高さんと二人で、早くも、頼まれて堀越さんの庭の階段作りを始めた。例年は、土をいじる工事は早くても三月末であるが、池田さんに刺激されて、私も以前から計画していた焚き火場を作ることにした。

 焚き火場は、室内の薪ストーブと並んで山の重要な舞台装置である。戸外で火を囲んでの談笑や一人黙然と薪や粗朶が燃える様子を眺めるのは、山の醍醐味の一つである。だから焚き火場は最も良い場所に作りたい。出来れば、もう一つの舞台装置である床下の囲炉裏に近い方が便利だし、雰囲気も出る。

 建物の直ぐ南の斜面に、将来の花壇のために空けておいた一番日当りの良い場所に焚き火場を作ることにした。

 生えていた白樺などの小木を二月と三月にそれぞれ移植した。表面の5cmほどが凍っていたが、スコップだけで何とか掘り起こせた。移植に適した時期かどうか分からないが、凍っていて土が崩れないので、木のためには良かったのかなと思う(でもツツジは大丈夫であったが、白樺の小木は後で枯れてしまった)。

 土留めのため、枕木置き場から18本の枕木を引き下ろし、先ずその中の二本の枕木を縦引きして16本の杭を作った。杭作りはいつもながら、大仕事で、丸二日掛かった。また、里の砂利屋から砂利を2トン運んでもらった。更に、13枚の飛び石と60枚の耐火煉瓦を里のホームセンターから買ってきた。

 工事に先立ち、水泡の水平器とレーザー水準器を使って簡単な測量をした。

 建物から犬走り分1.4メートルほど離して、傾斜地を平らにし、東西に3.2メートル、南北に2.5メートルの平地を作った。
 四辺に枕木を3~4段積んで土留めをした。約8平方メートルの平地が出来た。山側の土を崩して谷川に入れたので外部から土を補給する必要はない。

 地形が北東から南西に傾斜しているので、東と北側には、平地から上側に土留めの枕木を四段積み、南と西側には、平地から下側に三段積む形になった。土留めに要した枕木は、全部で16本となり、杭は大小23本であった。

 出来上がった平地の中心から、少し南に寄せて、内径1メートルの、凹型の円形炉を作った。粗朶を燃すときは、がさ張るので、このくらいの大きさがどうしても必要である。
 しかし、薪による焚き火にはやや大き過ぎるので、扱いやすいように、その内側を垂直に掘り下げ、50センチ径の炉を作った。

 具体的には、下段の垂直炉は25センチ掘り下げ、底を十分固め、霜で浮かないように5センチほど砂利を入れた。内側には耐火煉瓦を、厚み方向に縦てて、放射状に29枚並べた。その煉瓦の頭のレベルに合わせて、15センチ幅で輪状に平らな面を作り、炉の内部に降りるステップとした。
 ステップ面から上には、60度の角度で、耐火煉瓦を漏斗型に26枚貼った。更に、煉瓦の頭を隠すように、直径30センチ、厚さ7センチの飛び石を11枚、周りに配置した。これは縁の補強と飾りを兼ねている。

 飛び石は美感上互いに少し離した。飛び石の下には霜よけのため、5cmほど砂利を敷いた。

 最後に平地全体に飛び石の面に合わせて約12センチほど砂利を入れて完成である。
 ここに使った砂利は、固まり易さと歩き易さから、粗さ25ミリ以下のものを、凡そ0.7立方メートル入れた。大型バケツで37杯分あった。

 この平地の西面に沿って、建物から直角に庭に下りる階段を付けた。幅70センチ、ステップの高さ20センチ、踏み込み幅45センチの枠を枕木で5段作った。枠の中に土を入れ、その上に5センチの深さで砂利を入れた。この階段は、二段目が焚き火場の平地と同じレベルになっていて、焚き火場に降りる通路を兼ねている。

 本当は、業者に頼んで、大きな自然石で炉を組みたかったが、傾斜がきつく、またユンボが入る余地がないので、やむなく、扱いやすい人工的な材料で作ることになった。
 思ったよりすっきり出来たが、全体に幾何学的過ぎるきらいがある。それでも使い込めば、もう少し味が出てくるかも知れない。

 友人の日野氏は、これを見て、「この炉のために山小屋が見違えるようにいい雰囲気になったよ」と誉めてくれた。下の佐藤夫人は、友人を連れてきて、まるでプロが作ったようだと、驚いていた。

 炉の周りの平地には、腰掛け用に、直径30センチほどの丸太を40センチの長さに切り、三つほど置いた。焚き火は、風向きで煙の方向が頻繁に変わるので、人が移動しやすいように、椅子はスツール形にした。この他、ホームセンターからアルミ製の三人掛けベンチを買ってきて北端に置いた。

 同じ別荘地の堀越さんの焚き火場には、自然木を三又に組み、真ん中に二股の木をブル下げて、鉄瓶が掛けられるようになっている。野趣豊かであるが、大量に薪や粗朶を燃やす場合には取り外す必要があるので、やや面倒である。

 そこで、一メートルほど離れた場所に、太く短い鉄パイプを打ち込み、そこに、回転可能な、腕木の着いた2メートル程の棒を挿し込む。棒と腕木は、腐らぬよう、また素朴な味が出るように枕木から切り出して作る。腕木の先端にはフックを着け、簡単な自在鍵を吊り下げる。
 棒の根には長い釘を一本貫通させ、一定の深さまでしか入らないようにして、回転し易くする。また、その釘が鉄パイプの断面の切り欠きに落ち込み、腕木の方向が定まるようにする。
 実はこの部分は構想だけで未だ出来ていない。

 火の始末には、やはり水を掛けるのが一番安心である。しかし、翌日も燃やす場合があるので、中段の炉に合わせて、取っ手の付いた八角の鉄の落とし蓋を里の鉄工所で作ってもらった。蓋には黒い耐火塗料を塗って貰った。

 焚き火場では、下段の炉を使ってバーベキューも出来る。また地下の囲炉裏でバーベキューをしながら、焚き火場で湯を沸かせる。そんな使い方をするためにも、囲炉裏と焚き火場の両方が近くにあると便利である。

 日野氏は早速そこいらに転がっていた腐りかけた杭や階段に使っていた丸太を拾って燃やした。二段構造の炉は、大きな薪でも縁に立てかけられるため、軽快に燃える。

 こんな風にして火を見ていると、「やはり焚き火は山小屋の宝石だなあ」と思う。

★31章 初秋雑感  (1999.9)

 今年の春は栗の花が異常に沢山咲いた。濡れた鼠の尻尾のような咲き殻が道端や草むらに汚らしくべたべたと張り付いて、今でも沢山残っている。どうも我々の山小屋の周りだけの事ではないらしい。夏に入ると、可愛らしい黄緑色の小さな毬が近くの栗の木にびっしりと付いた。

 山小屋建設の時に、眺望を確保するため、背の高い落葉松を随分切った。一寸切りすぎたかなと思ったが、今になると色々な雑木が鬱蒼と茂って柔らかい森になっている。よく山は雑木が最も美しいと言うが、本当に雑木は心を和ませてくれる。
 我が家の森は、落葉松、ミズナラ、カシワ、栗、山桜、白樺、ズミ、楓、モミジ等がよく育つ。変わり種としてツノハシバミ、バッコ柳、壇紅梅が混ざる。またサワフタギ、ミヤマウグイスカグラなどの潅木が間を埋める。自然に生えた白樺も沢山あり、三メートル前後に育っている。まだ幹は白くない。

 八月の末になると、秋の気配が忍び寄り、桜の葉が先ず黄色味を帯びてくる。中に数枚、既に赤く染まった葉が混じる。傍らの山吹の葉も、黄色味を帯びて、舞台を作り始める。逆にこれまで主役であった山野草の葉は痩せ枯れて、薄茶色に地面を覆う。代わって萩があちこちに咲き乱れ、ススキを初めとする何種類もの科本科植物が茂り、穂も既に沢山出ている。昼の気温も20度前後になり、夏を惜しむ蝉の声も心なしか弱々しくなっている。

 八月の末から十月の初めまでは、美しい高山植物と紅葉の端境期で、森は静寂を保っているが、注意して見ると少しづつ動いているのが分かる。

 日曜日の朝、何時も星を見る畑に出てみると、農家の人が珍しく何人も出て、白菜やレタスなどの高原野菜の収穫をしている。ふと向こうを見ると、白菜畑に続いて一面黄色い花が広がっている。今時なんだろうと、近づいてみると、五十メートル四方にも渡って月見草が咲いているのである。此処は休耕地である。月見草を鍬込んで肥料にするのか、手入れをしないのでそうなったのか分からないが、それはそれは見事なものである。一方農道を挟んで反対側の畑には紫の花を沢山付けた草藤が、これも群落を作り、数十センチの高さに繁茂している。その中に踏み行ってみると、小さな花が一つ一つ鮮やかな色を放って本当に美しく可憐である。
 家内はパソコンでホームページを作るのに、「図鑑のような花ではなく、自然の中に溶け込んだ花の写真を撮ってよ」と言う。「こんな感じかな」と数枚の写真を撮る。

 この時期、森には鳥が沢山居るが、黙って木の枝を渡り歩いているため、あまり目立たない。時々ホオジロが「ツッツッ」と鳴く。春のように木のてっぺんで「源平ツツジ、白ツツジ」などと高らかに囀ることもない。動きもやや鈍く、下枝に止まっているのを立ち止まって見ていても大慌てで逃げるでもなく、近い枝に移るだけである。
 床下で作業をしていると、ヤマガラが飛び込んできた。余り慌てるでもなく、飛び去った。続いてもう一羽がやってきた。番かも知れない。これも声も出さずに飛んでいった。毎年来ているヤマガラだろうか。今年はまだ餌をやり始めていないので、催促に来たのかも知れない。

 今年の夏は珍しく殆ど山歩きをしなかった。家内のパソコン熱と私の床下工事で明け暮れた。まだ床下工事は沢山残っているが、9月中には、まだ登り残している南八ヶ岳の横岳に登りたいと思っていたが、結局行かず終いであった。

 それとは別に、今年は居間に掘り炬燵を作ってやろうと思う。狭い山小屋なので、人が泊まりに来ると、居間にも寝るため、長椅子を置けないでいた。掘り炬燵にすれば、足を下ろせるし、蓋をすれば平らになるので、ずっと使い易くなるはずである。

 堀越さんのお兄さんが山小屋を建て増ししたとき、掘り炬燵を作ったというので、見せてもらった。やはり傾斜地なので、床下が開いていて造りが床下からよく見える。私も以前小金井の家の座敷に、自己流で掘り炬燵を作り、今でも使っている。
 私の作り方は、細い角材で枠を造り、それを根太から吊し、内側に断熱材を入れて、ベニヤを張る方法であったが、富田大工さんの方法は炬燵の内張りの板で下の枠を吊っていた。同じものでも作る人によって案外違うものである。

 それより大事なことは、反射型電気ヒーターのコードを炬燵内部から取るのではなく、室内のコンセントから取り、コードを床に這わせておくことだという。切り忘れがないようにするためである。コードの途中に小さな箱を造り、その中にランプを仕込めばなお良い。そんなコンセントも今では街で売っている。里でも火事の多くは電気炬燵の消し忘れなのだそうである。

 つい最近、小屋から里へ下りる畑の中の抜け道を走っていると、五十坪ほどの畑に蕎麦が植えられていて、丁度白い花が満開で、背後の農家と相まってなかなか風情のある景色を作っていた。私の知っている蕎麦は背が低く、ややいじけているのが普通であったが、ここの蕎麦は私の背丈ほどに伸びていた。赤味がかった茎も太く、しっかりと立っていた。もともと蕎麦は痩せた土地がよいと言われているが、この畑はどうやら普通の畑の跡地らしく、まだ肥えているのだろう。毎年作っていればそのうち痩せてくるのかも知れない。
 八千穂村では蕎麦は殆ど見ないが、南の方の金峰山の麓にある川上村では高原野菜と一緒に沢山作っている。

 十月に入ると、そろそろ新蕎麦の時期である。堀越さんの小屋を訊ねたとき、彼は松原湖で蕎麦打ちを習ってきたという。私も前からやりたいことの一つである。既にコネ棒と板は用意してあるが、木鉢は未だである。以前木曽福島に行ったとき、ほうの木の鉢を売っていた。素晴らしい出来であったが、余り高いので手控えていた。そのうち良いものを買おうと思っている。
 彼は始めての経験であったが、先生から、「あなたはもう何年蕎麦打ちをやっていますか」と聞かれたそうである。彼は「いや、初めてです」と答えると、不思議そうな顔をしていたとのことである。そこで「もう長いこと陶芸をやっています」と言うと、先生は、「道理で・・・、蕎麦をこねるのと陶芸の土をこねるのとは全く同じなのです」と言われたそうである。

 以前から、蓼科の”こぶし平”の別荘地の周りに、「そば処、深山」の看板があちこちに有るのが気になっていた。丁度十月末に絵の仲間が山小屋に来てくれることになっているので、スケッチの場所を探しながら寄ってみた。
 別荘地の深い森の中に、看板とは裏腹に、こじんまりした蕎麦屋があった。店の前には大きな山葡萄の蔓が茂り、名前の通り、深い山の雰囲気であった。生ビールと天笊を注文した。大袈裟な立て札に恥じない旨い蕎麦を食べさせてくれた。

 話が山葡萄に及び、主人に「採れた実をどうするのか」と聞くと、やはり焼酎に漬けて梅酒のようにして飲むのだという。この間我々の山小屋の近くで採れた山葡萄を知らないなりに焼酎に漬けたのは正解であった。

★32章 殿様蕎麦

 山小屋から余り遠くない臼田の街に農業用品の専門店、嶋屋がある。その店を訪れた際、ちょうど昼時であったこともあり、佐久の食べ物屋に詳しいそこの女将に「この辺で最も旨い蕎麦屋は何処ですか」と聞いた。即座に答えたのが臼田の十一屋であった。

 早速出かけて行った。変哲もない店で、たいていの蕎麦屋にある手書きの品書きの中には、田舎らしく蕎麦とご飯物の取り合わせが多かった。また此処は信州であるが甲斐の”ほうとう”もあった。その中で”殿様蕎麦”というページがあった。殿様蕎麦のためだけに一ページを割いている。値段が普通の蕎麦の二倍近い1,200円の盛り蕎麦であった。
 「これは何ですか」と店員に聞いてみると、「当店が川上村の農家に作らせている蕎麦粒の中心部分だけを使って打った蕎麦です」と言う。「どう違うの」と聞くと、店員の言葉を引き取って、たまたま来ていたこの店の経営者が説明してくれた。「歯ごたえがあり、味が深い蕎麦で、絶対旨いですよ」と言う。彼は隣の不動産屋の親父であると同時に、川上村の村会議員もやっているなかなかのやり手の男である。

 だまされたと思って注文してみた。しばらくして出てきた蕎麦は、太い竹を二つに割って伏せ、更にその上側を切り欠いて簾を敷き、その上に盛ってある。色が白く蕎麦とうどんの相の子のような色をしている。普通の蕎麦にある黒い斑点がない。一口分摘んでつゆに漬けて食べてみると、見掛けとは異なり、かなりしゃっきりしている。箸にまつわりつかない。普通の蕎麦より歯ごたえがあるが、といって粘りも適当にある。味は普通の蕎麦の泥臭さと粉っぽさが無く独特の風味がある。でも間違いなく蕎麦の味である。「これは旨い。高いだけのことはある」、以来時々来て楽しんでいる。

 臼田にはその姉が経営しているもう一軒の蕎麦屋、”千ひろ”がある。そこにも殿様蕎麦がある。そこは新しいので、もう少し垢抜けた店で一寸した料理屋の趣である。中に入ると宴会もできる普通の蕎麦屋であるが、休日は客が引きも切らない。
 蕎麦の出所は同じと思うが味は十一屋の方が少し良いような気がする。蕎麦を打ってからの時間にも依るからどちらが良いとも言えない。

 最近、同じく臼田地区の国道141号沿いに、”要次郎蕎麦”と銘打って新しいそば屋が出来た。一寸気が利いた店である。確か十一屋の蕎麦のメニューの中に、要次郎蕎麦というのがあったような気がしたので、入ってみた。やはり、十一屋の流れで、うまい蕎麦を食べさせる店であった。

 殿様蕎麦のような蕎麦は生まれて初めてである。いつ頃誰が考案したのか、詳しく聞いていないが、有名な佐久の鯉料理と並べて名物としても恥ずかしくない逸品である。でも近くには戸隠など有名な蕎麦所があるため余り宣伝しないのかも知れない。

 ある日親友の日野システックの経営者である日野夫妻を連れていった。彼は登山のプロでもあり、よく私の山小屋に来る男で、大学時代からの親友である。彼は信州伊那の出身で蕎麦にはうるさい男である。生憎品切れ寸前であったが一口食べると「これは旨い」と感激していた。v  その翌日麦草峠で遊んだ後、蕎麦続きではあったが、蓼科で隠れた有名な蕎麦屋へ入った。そこでは”盛り蕎麦”と”蕎麦がき”しか出さない。知る人ぞ知る凝った蕎麦屋なのである。値段も殿様蕎麦と同じくらいよい値段であった。しかし彼は「昨日の蕎麦の方がずっと旨いよ」と言った。
 味は人により好きずきがあるから最後に旨い不味いを決めるのは食べる人であるが、自分が旨いと思える食べ物に巡り会えることは幸せである。

★33章 岩魚の囲炉裏焼き(2000.10月)

   山小屋から下って、里に近い所に、岩魚の養魚場がある。大石川の水を取り入れて稚魚から育てている。5×10メートル程の水槽が十数個並び、生育の度合いによって分けられている。覗くと大量の岩魚が元気に泳いでいる。人が近付くと「さっと」散る。その早さは目にも止まらない。面白いのは、彼等が逃げるとき、互いに二三センチしか離れていないのに、決して頭をぶっつけ合わないことである。
 彼等は秒速2メートル以上で泳ぎながら2センチ幅をコントロールできる運動神経を持っているのである。もっと詳しく見ると、約2センチ間隔で幅2メートル、長さ3メートル以上の大群が綺麗に平行になって、しかもくねって泳ぐのである。更に上下にも立体的に並んでいる。

 山小屋に客が来ると、良く買いに行き、囲炉裏で焼いてご馳走する。
 最初、「川魚はどうも」と言う人が多い。多くの場合、生臭いと言うのが理由である。川魚は時間が経つと、直ぐに生臭くなるが、捕りたての魚を使えばこの問題は全くない。もともと、川魚の捕りたては、鼻を付けても殆ど匂いがない。

 また、焼き上がりが「くたくたして、水っぽい」等とも言う。川魚を、秋刀魚のように、焼き網を使ってガスコンロでさっと焼いて食べると、確かに水っぽく、生臭い感じがする。
 実際には、川魚は、焼き方で旨さが決まる。塩だけ、または胡椒を振って焼けば、焼き上がりは、魚の種類によって決まる味になる。

 養魚場では、泳いでいる岩魚を網で掬って電気締めしてくれる。
 小屋に帰って先ず腸を取る。腹を割いて取り出しても良いが、もっと簡単に取る方法がある。割り箸を二本用意する。ぬめりで滑らないように左手に綿の手袋をはめて岩魚の頭部を残して掴み、両側から指で押さえると口が開く。割り箸一本を口から差し込み、鰓蓋から出てきた箸の先端を一方の茶色い鰓を突き抜いて、横腹の内側に沿って肛門近くまで差し込む。その際、腸と腹の皮の間に箸を差し込むのがコツである。続いてもう一本の割り箸を、反対側の鰓から同じように差し込む。
 次に、頭と胴体を左手でしっかり掴み、口から出ている二本の箸を右手で握って一回り捻ってから引き出すと腸がスポット抜け出てくる。

 実は息子に教わって初めてやってみたのだが、初めから上手くいった。だから誰にでも出来る。腹を割くよりずっと簡単である。コツは、ヌルヌルの魚が滑らないように、左手に綿の手袋を填める事である。後は口から水道水を入れ、さっと水で洗うだけである。洗ったら全体に塩をまぶし、更に口から塩と胡椒を適量振る。

 良く熾した強い炭火を遠火にして、表面が薄く焦げる頃合いを見て何度もひっくり返し、30分ぐらい掛けてじっくりと焼く。その間に、中の脂が「じゅくじゅく」と垂れ、表皮が斑に焦げて、”そぼろ状”になる。皮と表面の肉が混ざり合って、少し固まった状態になるまで焼く。丁度薪で炊いたご飯の”お焦げ”のように焼くのである。中身は脂が抜けて、さっぱりとした白身である。

 最初に振った塩胡椒以外は、何も付けずに食べるのが一番美味しい。好みによってレモンを垂らしたり、醤油をほんの少し付けても良い。手で、頭と尻尾を持ってかぶりつくのもよい。当に絶品である。
冷えたビールや、燗をした日本酒を飲みながら食べれば、天下太平である。

 一度食べると、「これはいける。川魚ってこんなに美味しいものだったのか」と誰もが言う。そして一匹では物足りない顔をする。その頃次の岩魚が焼ける。

 八ヶ岳山麓は、岩魚は本場であるので、土地の大型スーパーにも虹鱒と並んで時には出ていることがある。虹鱒は一匹200円位であるが、岩魚は350円から400円はする。しかし、我々の買う養魚場の岩魚は、鮮度は良いし、値段も半分ぐらいである。勿論天然の岩魚なら言うことはない。

実は虹鱒と岩魚の味を区別することは難しい。そのためか、土地の人は安い虹鱒の方を買うらしく、岩魚は滅多に出ていない。しかし、虹鱒より岩魚の方が身が締まっているような気がする。身の締まりも味の中であるから、やはり岩魚に軍配が上がる。

 吹きっさらしで囲炉裏が使えない冬を除いて、一年中これをやる。さっぱりした味なので飽きない。最近では、焚き火場が出来たので、焚き火をしながら囲炉裏で岩魚を焼く。そろそろ始まった紅葉の森に囲まれて焼くと、岩魚の焼ける匂いが木々の間に漂い、何となくゆったりとした気分になる。

★34章 秋日記(2000.10月10日)

10月6日(金)
 そろそろ秋も深まり、気温も10度を割るようになってきた。
家内が歯医者に行かなければならないことから、急遽一人で来ることになった。

 最近、山小屋への途中、国道のあちこちに温度表示板が設けられていて、とても便利である。長坂ICから清里へ向かう有料道路のゲートを出たところに最初の温度表示板がある。今晩は7度を示している。ここは、昨年東沢の上に掛けられた大橋を渡る寸前の場所である。標高1300メートル程であるのに、谷から吹き上げる風が冷たいのか、此処の温度は、2000メートル以上有る野辺山より低いことがある。
 温度表示板が低い温度を示し出すと、紅葉が間近になる。
 夜、八時頃家を出た。体育の日に繋がる三連休を控えているので、中央道はいつもよりずっと交通量が多かった。夜11時頃小屋に到着した。持ってきた食料は、冷凍すき焼きご飯、トマト四個、レタスキーパーに入った少しばかりのレタスだけである。明日、作業の合間に買い出しに行く積もりである。

10月7日(土)
 ストーブ、茸、杭の仕上げ
 朝から良く晴れている。気温は9度位であるが、室内は15度ある。それでも肌寒いのでストーブを付ける。今年は先週からストーブを付け始めた。一寸早いか、例年並と言ったところである。
 今年の春は何時までも寒かったので、灯油を買い増ししたら、やはり殆ど余ってしまったので、この秋は、しばらくは買いに行かなくても間に合う。灯油は配達もしてくれるが、10分走れば里のホームセンターで半額で買える。
 朝、庭を一回りしたが、例年生える”りこぼー”(はないぐち茸)が一本もない。茸の好きな連中が朝早く取ってしまったらしい。我が家の庭は、南斜面で乾燥した土地柄であるが、木がこんもり茂っているので、茸には適しているらしい。近所の人達は我が家の庭を茸の宝庫と言っているそうである。人もよく知っていて、寝坊な我々は何時も取られてしまう。

 予定通り、11時頃から、二三週間前に製材した枕木の杭材を丸鋸盤で尖らしたり頭の面取りをしたりして、18本の杭を完成させた。
 杭が出来ていると、何時でも土留め工事が出来るので、何となく、ゆったりした気分になる。

 土の貯蔵場所
 我が家は傾斜地なので、土留めをする場所が沢山ある。土留め工事には隙間に詰める土や、平地にするための土が思ったより沢山要る。この三連休は、杭の仕上げと土の貯蔵場所を作る計画でやってきた。以前小屋の西側に作るつもりで土を入れたが、その場所は地下へ降りる通路に使ってしまったので、別な場所を考えなければならなくなった。

 今回は小屋の東側に二三トン貯蔵できる場所を作った。この場所は、駐車場の外れにあり、駐車場からダンプで土を供給できるので絶好の場所である。
 此処も傾斜地であるので、下側に枕木を三段積み、土留めを作った。2メートル四方で、深さ1メートルほどの土置き場である。
 建物の隣とは言え、ブッシュの根や朽ちた古株が何本もあり、整地するには一寸したアルバイトであった。

 ここは、屋根に降った樋の雨水を放出する場所になっていたので、土置き場の底を更に深く掘り下げて、雨樋のパイプを埋め込み、土置き場の先に放出するようにした。
 この他土留め工事には、大量の砂利が要るが、以前買った残りがあるので何とか間に合いそうである。
 土置き場が完成したので、何時も土を買う今井重機さんに電話して、来週までにダンプ一杯分の土を入れておいて貰うように頼んだ。これで、来週からの土留め工事の準備が全て整った。

 茸汁
 夕方、下のSさんの奥さんが来て、「”りこぼー”が沢山採れたので今夜は私が茸汁をごちそうするわ」と言う。「それは嬉しいですね。初めて東京の合羽橋で買った鉄鍋の出番が来ましたよ」と言って笑った。買っただけで使わずにずっと仕舞ってあった鍋である。「火を熾して、鍋と酒と味噌だけ用意しておきますから、六時に来て下さい」と言って分かれた。
 初めて使う鍋を洗い、地下の囲炉裏で、たっぷりと火を熾し、ビールでも飲んで待っていようかと思った時、丁度佐藤さんが懐中電灯で庭の小道を照らしながら材料を抱えて「はーはー」言いながら登ってきた。茄子、カボチャ、ネギ、茸等を抱え、更に東京から持ってきた混ぜご飯、きんぴら牛蒡、ザーサイなど、結構なご馳走の種を持って来てくれた。

 鉄鍋に水を入れ火に掛ける。湯が沸いたところで、煮えにくいカボチャから煮始める。順次材料を入れ、最後に味噌を溶いて入れると出来上がりである。

 早速茸汁を頂く。「旨い!」。二人だけだが、何杯もお代わりして、腹一杯になった。佐藤さんは酒を殆ど呑まないが、今日は茸汁が旨いのか、ワインをグラスに二杯ほど呑んだ。私もビールとワインを呑みながら、料理を堪能させて貰った。野天の茸鍋は我が家では初めてであった。
 外は薄ら寒くなってきたが、八時頃まで食べたり呑んだり喋ったりして秋の夜長を堪能した。

 10月8日(日)
ニュウに登る 
 昨日、Sさんが、来るなり、「ニュウへ行きましょうよ」と言う。別荘地の坂井さん率いるハイキングの会のメンバーが明日はニュウに登るのだという。ニュウは、北八ヶ岳の縦走路から少し外れた岩峰である。白駒池の駐車場に八時半に集合するが、定期バスでは間に合わない時刻である。「車がないから是非乗せて行って欲しいのよ」という。「坂井さんも車がないけど、電話で渡りを付けて誰かと行くらしいの」と言っていた。彼女の所には電話がないので、身近な私に頼んできたのである。丁度山歩きがしたかったので、一緒に行くことにした。

 今朝は晴れていた。予報では夕方になって雨の可能性があるとのことだった。雨具をしっかり持って二人で出掛けたが、一日雨らしい雨は降らなかった。

  総勢十四人であった。男性と女性は四対六ぐらいだった。年齢も三十代から六十代まで色々居た。いつもの仲間のようである。私はこの会の山登りでは初参加であるが、前回の夏山の時には、下山後に堀越さんの家で開いたパーティーだけに参加したので、大抵顔見知りであった。

 坂井さんの日程選択が適切で、白駒池の周りにある”さらさどうだんつつじ”が真っ赤に染まって、それは見事だった。みんなも「やー、綺麗だ。これは素晴らしい」と、ひとしきり写真を撮った。辺りには日曜カメラマンが沢山来ていて、立派なカメラと三脚を広げて、真っ赤に染まった景色を夢中になって撮っていた。
 紅葉の時期は短いので、なかなか紅葉に合わせて来るのは難しいものである。トドマツの原生林のあちこちに、モミジやナナカマドが真っ赤に染まっていた。また遠い山々の針葉樹林の間に、黄色く紅葉したダケカンバが点在し、斑模様を作っていた。
 ニュウまでは約二時間である。途中、植物学者の坂井さんが、樹木や山野草の解説をしてくれた。花の時期ではないが、艶のある”岩鏡”の丸い葉っぱ、赤い実を着けた”御前橘”、草履のような葉の”オサバ草”等が沢山生えていた。また黒沢女史は野鳥に詳しいそうであるが、この時期は鳥があまり鳴かないので、彼女の博識ぶりが聞けなかったのは残念であったが、それでも「星ガラスが鳴いていたわよ」と、声だけで星ガラスを聞き分けるのは、素人の我々から見ると、「流石だなあ」と感心する。
 ニュウの頂上は、高曇りであったが、空気が澄んでいたので、思いがけず、少し離れた天狗岳、硫黄岳がくっきりと出ていた。いつもならよく見える南アルプス連峰の山々は見えなかったが、富士山が雲の上に浮いていた。また、奥秩父連峰の金峰、瑞牆や、群馬の浅間、更に遠く、北アルプスの槍、穂高がはっきりと見て取れた。その他、雲の上に妙高などの北信五岳が絵のように浮かんでいた。これまでに何度も来ているが、これほど遠くの山がくっきり見えたことはなかった。
 山々を見ながら頂上で昼飯を摂った。今日はSさんがおにぎりを作り、私が海苔だけ持って行くことになっていた。食後のお茶は私がバーナーとコッフェルで沸かし、皆さんにご馳走した。

   途中、若い須賀さんが先導であったが、彼はそれなりに気を使ってゆっくり歩いてくれたが、私のいつものペースよりほんの少し速い感じであった。その時はそれほどでもなかったが、翌日、かなり疲れていた。でも、佐藤さんは、私より年上であるのに、けろりとしていた。彼女は小屋に来る時は何時も駅から七八キロ歩いているので、訓練が出来ているのである。

  帰りは、白駒池で解散した。坂井さんから、「私の家で三時から秋刀魚焼きパーティーします」と案内があった。私は家に帰ってから、作業の残りと、買い物に行く都合があるので、参加するかどうか決めていなかったが、買い物に行っている間に、坂井さんから何回も電話があったらしく、大変失礼してしまった。電話によると焚き火をしながら、みんなから楽しい歌が出ていたそうである。別荘の人達の楽しい集いが、こうして続いている。

10月9日(月)
 前日からの力仕事と昨日のハイキングで少し疲れが残っていたので、今日はのんびりしたいと思っていたが、丸鋸の平行移動板の改造をしたり、地下を片付けたり、駐車場の砂利の始末をし始めると、いつものように止まらなくなってしまった。
 少し汗をかいたので、風呂に入り、6時半頃小屋を出た。途中、野辺山の通称”びっくり市”で、叔母のお世話になっている病院と母のお世話になっている養老院へ、お土産の林檎を一箱ずつ買った。

 その後、これもいつものように、清里のビアレストラン”Rock”に寄り、地ビールで夕食を取った。三連休のため、中央道は、早い時間帯は30キロメートルの渋滞であったので、時間をずらすために、よく行くRockに寄ったのである。アフターディナーのコーヒーを飲みながらゆっくり休んでRockを出たら、道路は既に渋滞が解消していて、思ったより早く東京に着いた。

★35章 池田さんの露天風呂 (99.10)

 秋の彼岸の休みに一人で山小屋に来たので、いつものように土木工事をし、夕方風呂に入って、汗を流し、Uターン族の佐々木さんが経営する里のレストランに行くことにした。

  夕食には一寸早いので、現在、冬用の山小屋を建設中の堀越さんのところへ寄って出来具合を見せてもらってからと思い、出かけた。
 堀越さんも偶々一人で来ていた。「一寸前に友人を送ったところです」と言う。新しい山小屋は、大きく、いつもながらの富田大工さんの作で、遊び心をふんだんに盛り込んだ凝った建て方である。内部を全て見せてもらって感心しているところに、近所の池田さんの奥さんから電話が入った。

 「栗ご飯が出来たから食べに来ませんか」との誘いである。今年は山栗の当たり年で、全ての栗の木に実がたわわになり、今、収穫の時期である。
 「今、橋本さんが来ているので、一緒に行っても良いですか」と聞いてくれた。OKが出て、早速二人で出かけた。目と鼻の先である。外は薄暗くなったかなと思っているうちに、秋の夜は釣瓶落としに日が暮れた。

 池田さんの庭には、あちこちにスポットライトが取り付けられ、小屋の周りには、山小屋を演出する彼の趣味の土木、建築作品が幾つも浮び上がっている。左の広場には彼とその友人の小高さんが作った大きなテーブルと椅子が据えられている。右側には、母屋の軒先に続いて富田大工さんの作である囲炉裏小屋がある。

 その囲炉裏小屋の前には、池田さんと小高さんとの合作である露天風呂が出来ていた。去年の初めから二人で作っていたのを知っていたが、その暮れに既に完成し、一冬を越していた。ボイラーも給排水管も零下20度に耐えていた。何せ、ここは1300メートルの高地なのである。

 池田さんも小高さんも件の露天風呂に入っていた。堀越さんの「橋本さん入りましょうよ」と言う掛け声で、早速風呂場の横の露天の脱衣所で服を脱ぎ、タオルを借りて入った。二人入れる大きなプラスティックの風呂桶が地面の高さに埋められ、周りに大小の石が配置されている。囲炉裏小屋との間に、太い落葉松の丸太が高低のアクセントを付けてカーテンのように縦に並べて埋め込まれ、簡単な目隠しになっている。庭からの入り口には、太い落葉松を五角形に組んだくぐりが付いていて露天風呂をそれらしく演出している。低い庭園灯が二本、眩しくないように青い布で囲われ、淡い光を滲ませている。
 二人入ると、溢れた湯が綺麗に配置された岩の間を流れて一段下の笹藪に浸み込むようになっている。そこには荒削りな手摺りがあり、風呂場と外界とを分けている。風呂の右手には、窪地を渡って簀の子が配置され、少し高台の脱衣所に続いている。その辺りには、飛び石が上手く配置され、一部、母屋の下まで続いている。

 驚いたことに、飛び石の先の母屋の軒下に一人用のサウナがあった。最近、里の工具店で、「要らないサウナが有るんだけど、池田さん要るかね」と言われ、二つ返事で貰ってきたのだという。サウナの上の軒は今日、小高さんが一日掛けて作ったものである。皮を剥いだ細めの落葉松の丸太で柱と梁を作り、その上に樽木を並べて、2cm厚の屋根板が綺麗に貼られている。柱を押してもびくともしない。近代的なサウナが、すっかり山に溶け込み、露天サウナになっている。

 サウナと露天風呂とを、男共四人が出たり入ったりしている中に、東の梢の間に月が昇り始めた。今日は中秋の名月である。すっかり晴れ上がった秋の夜空に、林の隙間からまん丸な月が輝いている。

 突然、堀越さんが「そこの木の上に小屋があるんですよ」と言う。見上げると、風呂の左前方の太い落葉松の中腹に、幹を取り囲むように、池田さんと小高さんの作った小屋が浮き出ている。早速池田さんがタオルを腰に巻いたままで、梯子を登り、中からこちらを見下ろす。床の高さは三メートルはある。小屋は二階建てになっていて、二階に上がった池田さんは、三角屋根の一部である窓を開けて、顔を出した。とても良い恰好の小屋である。まさに”男の隠れ家”である。
 早速私も登ってみた。床面積は一坪強ほどであろうか、一階には一間の長さの作り付けの長椅子があり、寝そべって本が読める。その横から上に向かって数段の梯子があり、それを登ると二階は屋根裏部屋になっている。そこにも腰掛けがある。実に楽しくできている。トムソーヤーも顔負けの出来映えである。

 生きたままの一本の落葉松の下枝を払い、根本の周りにコンクリートの土台を回し、そこに4尺五寸ほどの間隔で四本の落葉松の柱を建て、その柱の上に生きた落葉松を囲むように小屋が造られている。落葉松は風に揺れるので、屋根に接する幹の周りには自在のゴムシートが回され、その下に、幹から少し離して屋根板が張られ、雨が漏らないようになっている。生きた落葉松には釘一本打っていないとのこと。これには全く吃驚した。若いアウトドアの本格派が二人係なので、やることが奇抜でダイナミックである。

 池田さんの小屋は、行く度に何か新しいものが出来ている。そんなに早く次の計画はないだろうと、半ば期待せずに、「今度は何が出来ますか」と水を向けると、またまた裏に大きな納屋を造っているという。これは富田大工さんに頼んでいるとのこと。納屋と言っても大きな立派な小屋が半分出来掛かっていた。

 それではと、十畳ほどの広さの囲炉裏小屋に入り、酒盛りが始まった。殆どは池田さんの奥さんが支度をしてくれてある。五人で囲炉裏を囲み、網で肉や野菜を焼き始める。池田さんと池田さんの奥さん、そして小高さんは根っからの山屋である。堀越さんも嘗ては本格的な山屋であったそうである。私も素人なりに山が好きなので、一頻り冬山の話に花が咲いた。

 堀越さんの会社の部下が作ったと言う岩魚の燻製が出され、みんなで裂いて口に入れる。飴色に仕上がった、これも本格的な燻製で、作るときに使った細紐が尻尾に巻かれて残っている。如何にも趣があり、味も絶品であった。

 しばらく囲炉裏の周りで話しに興じていると、林の上に、童謡に出てくるような”盆のような月”が上がった。囲炉裏小屋の窓越しに煌々と輝く月を眺めながら、吸い物付きの栗ご飯をご馳走になった。何ともこたえられない秋の夜長であった。

★36章 赤岳に登る (1998.12)

 八ヶ岳は山梨県から長野県に跨る南北20キロメートルの連峰である。その中ほどにある硫黄岳から南の岩山を南八ヶ岳連峰、通称「南八つ」、それより北側の森に覆われた山脈を北八ヶ岳連峰、通称「北八つ」と呼ばれている。

 ある夏の日、南八つの岸壁を近くから見てみようと思い、家内と車で麦草峠を越え、南八つ登山口である美濃戸へ行った。
 そこから2時間ほど歩くと、赤岳の西壁直下にある行者小屋に着く。天気も良く、スイスのアルプスほどではないにしろ噂の通り素晴らしい南八つ西壁を見ることが出来た。右手前に阿弥陀岳、そこから左に向かって中岳そして主峰赤岳(2899メートル)、その左側に連なる横岳がパノラマのように迫ってくる。

 土曜日であったが、我々は今日は見に来ただけなので、食事だけして次回を期して帰途についた。それから一年後の夏、今度は登るつもりで行者小屋までやってきたが、雲が垂れ込めており、視界も悪く、朝の出発が遅かったこともあって、諦めてそのまま帰った。でも赤岳の勇姿を垣間見ただけで満足であった。

 その年の10月4日、三度目である。天気は快晴であった。そろそろ山頂は冬支度であるが、鉄の階段の多い文三郎道を赤岳に向かった。余り寒さは感じなかったが、中岳との出会を過ぎて赤岳の肩に到達する頃には流石に少し疲れが出てきた。赤岳の肩からは完全な岩峰で、頂上に近づくにつれ、両手を使って這い上がるところもあり、家内は相当消耗しているようだった。でも、日頃この程度の距離はこなしているので休みの回数を余計取って登った。行者小屋から2時間の予定が大分遅れて3時間ほど掛かって頂上小屋に着いた。夕方少し遅く4時であった。

 途中で一二枚の写真を撮った。また、我々の様子を見ていた若い登山者が、上の方から何枚かの写真を撮ってくれていた。何となく老夫婦が助け合って登っているなと思ったのか、我々を目でフォローしてくれていた。頂上小屋でその登山者と話し合う機会があった。写真の送り先を教えると、後日丁寧な手紙と写真を送ってくれた。伊勢の人だった。「歳を取った夫婦が仲良く登っているのを見て微笑ましく思いました。チャンスがあったら是非私の家に泊まりに来て下さい」と記されていた。

 家内が山小屋に余り馴染みがないので、空いていたこともあって二人だけの個室を取った。小屋にはストーブが炊かれていた。登山者達は昔からの知り合いのようにビールを飲みながら山談義をしていた。我々もそれに加わり楽しい一夜を過ごした。

 翌朝は氷点下4度に下がり、薄霜が降りていた。幸い天気も良く、7時頃には出発した。今日は、地蔵尾根を下り、昨日の中継点である行者小屋に降りて美濃戸まで帰る予定である。出発して程なく霜も解け、歩きやすい尾根筋になった。
 途中、深さ何十メートルもあるクレバス状の岩の割れ目が有った。跨げばどうと言うこともない裂け目ではあるが、素人は尻がむずがゆくなる。跨がなければ先に進めない。家内の手を引いて恐る恐る渡った。その後は特に問題もなく30分後には展望小屋を経て地蔵峠の分岐に着いた。振り返ると2899メートルの赤岳は逆光の中で綺麗にシルエットを作っていた。「あそこに登ったのだ」と二人とも満足であった。

 一寸休憩してコースを左の地蔵尾根の方向に取り、急傾斜の鎖場を下る。
 地蔵尾根は尾根と言えば尾根であるが、赤岳と横岳の鋭い鞍部の山腹が少し膨らんだような尾根である。昔、若い頃、縦走路は何度も歩いたことがあったが、ここは私も初めてのコースである。鎖がなければ我々素人にはとても降りられない岩壁であるが、私が先導して家内が後ろから着いてきた。標高差の1/3は鎖場であったが家内はそれほど怖がらず、2時間ほどで何とか無事に降りてきた。途中で大同心、小同心などの南八ヶ岳独特の岩峰の写真を撮り、行者小屋に着いた。
 山小屋を建ててから5年目にしてやっと赤岳に登った。62歳で八ヶ岳主峰登頂は、やはり何やら感慨深いものがあった。

 帰ってから山屋の友人に話したら、「3000メートル級の山は10月は初心者には危険である。今後はその時期は止めた方がよい」と言われた。確かに天気さえよければなんともないが、前日に晴れていても翌日は保証されないので、「素人同士で行くときには雨が降っても大丈夫な夏に登るように」と忠告された。

 その翌年の夏、家内の姉と友人を連れて再度行者小屋に赤岳西壁を見に行った。やはり素晴らしい景色であった。その時は前回果たせなかった赤岳鉱泉回りで帰ってきた。何時か赤岳鉱泉から硫黄岳へ登り、横岳を通って赤岳に登り、行者小屋へのルートを取りたいと思っている

★37章 八千穂高原(2000.4)

 小屋から国道299号を麦草峠に向かって車で15分も登った所に、狭いが眺望の開けたところがある。周りにはそれらしい物は何もないが、一本の太い杭が立てられていて、”八千穂高原”と書いてある。どうやらこの辺り一帯が八千穂高原であるという意味らしい。

 そこから右手の山全体に、八千穂の名物白樺林がある。左手には谷川が有り、しばらく行くと、国道はこの谷川に掛かった橋を向こう側に渡る。そこから両側は見渡す限りの広大な白樺林となる。

 橋の右手の高いところに溶岩で出来た複雑な形をした大きな岩が屹立している。少し先まで行って、振り返ると、その岩は、一辺が二十メートルもある大きな肘掛け椅子のような形をしていて、まるで王座の風格がある。その周りには春になると三つ葉ツツジが咲き、白樺が芽吹き、多彩な広葉樹が独自の色を燃え上がらせる。王座のオブジェは森のアクセントになっているため、一年中アマチュアカメラマンが集まり、作品作りをする場所になっている

 その先の白樺林の中には、一寸した広場があり、村営の舞台装置が出来ていて、夏には村主催の別荘祭りが開かれる。村人がボランティアとなって、屋台を作り、ビールやおつまみを振る舞って、なにがしかの税金を納めている別荘の住人にサービスをしてくれるのである。別に神社が有るわけではなく、従って、御輿が出るわけでもない。まあ、ピクニックのようなものである。舞台では、村が呼んだ芸人が漫才をやったり、音楽を奏でたりして、村人も一緒に一日のんびりと過ごすのである。

  そこから更に二三分走ったところの右側に、フィールドアスレティックの設備があったり、小さなスノーモービルの練習場があったりする。その隣には、一部、熊笹が下草となった白樺の森があり、その手前には、レンゲツツジの群落があり、春には橙色の花が我々を迎える。
 ここから林道が北に伸びて、ハイキングコースとなり、2114メートルの八柱山に続いていている。この林道では、たらの芽やウドが沢山取れるので、春にはよく出掛ける。

 道路の反対側の低い平地の奥に食堂兼用の山小屋が一軒あり、高原を散策する拠点となっている。この辺り一帯は、秋には真っ赤に紅葉して、目も覚めるような素晴らしい景観を呈する。
小屋の裏側には、複雑な地形を利用した自然園(公園)があり、八ヶ岳特有の高山植物が豊富に自生している。その中ほどを川が縫っていて、途中にいくつもの小滝があり、大きな箱庭のような風景を作っている。その下流に川を堰き止めて作った人工湖があり、溢れた水が深い谷に吸い込まれている。秋の紅葉の時期には、我が山小屋を訪れる人を連れて行く場所になっている。

 遠く八ヶ岳連峰に目をやると、八千穂高原の広大な白樺林を取り囲むように、落葉松の森が八ヶ岳の尾根に溶け込むように続く。秋も深まると、広葉樹の紅色も消え、山は茶色味を帯びた黄色い落葉松の紅葉に変わる。風ではらはらと散る落葉松の葉は何とも幻想的で、地面はふさふさとした黄金色の葉で埋め尽くされる。

 また、国道299号の支脈を南に少し下ったところに人工湖八千穂レイクがあり、夏には釣りが楽しめるし、冬は完全に凍結し、車で走っても壊れないほど厚い氷が張りつめる。
もう少し下ると、全国でも数少ない車で乗り入れられる駒出池キャンプ場があり、夏には、小さな池の周りにテントやバンガロウの花が咲き、若者や家族連れで賑わう。

 八千穂高原は、八ヶ岳の東山麓に広がる広大な自然公園である。

★38章 富田さんの穴蔵 (1998.11)

 富田さんは八千穂村の大工の棟梁である。八千穂の別荘のかなり多くの小屋を手掛けている。前にも書いたように、堀越さんの別荘も、指宿さんの大きな三角屋根も、登山の専門家、池田さんの別荘も彼の作である。建て方の基本はオーソドックスであり、丈夫な建物を建てる所までは手堅い棟梁であるが、建物の中に「あっ」と言うような工夫を凝らして建てるのが他の棟梁と違う。「俺は”金”を考えて建てるのではない」と言うが、堀越さんが言うように、「とは言っても我々サラリーマンには予算が有るんですよ」と言うことになる。

 富田さんは里の村に豪邸を持っている。「穴蔵」は別荘地の中の材料置き場から始まった”男の隠れ家”で、今では仕事着のまま入れる書斎であり、彼のお客、詰まり施主の溜まり場でもある。彼の自宅とは全く趣が違う穴蔵は、彼の子供の頃のルーツを反映しているに違いない。
 彼は器用で創造性豊かで、仕事が好きで、どちらかと言うと寡黙の方である。仕事の合間や一日の終わりにこの穴蔵に寄って一寸一杯やるときもある。

 一言でいえば、男が野趣味で欲しがるものが全部揃った大きな”穴蔵”である。そこはゴミが散らかっているわけでもないし、汚いわけでもない。と言って整然としているわけでもない。往時は立派なものだった黒沢酒造の古い扉、川魚用の生け簀、囲炉裏、中二階のベッド、何人来ても大丈夫な椅子、座ってくつろぎたい人の炬燵などがとりとめもなく置いてある。
 外には蒸気機関車の正面を思わせるデザインを施したゴミ焼却炉がある。また隣りにこの場に似つかわしくない八畳ほどもある鉄筋コンクリートのトイレ室があり、その部屋の真ん中にウォッシュレットの付いたトイレが一個鎮座している。

 雑誌に出てくる男の隠れ家は綺麗すぎて都会的であるが、富田さんの穴蔵は、基本は土間で、必要なものが次々に加わって出来た自然の隠れ家である。
 書斎まがいの部屋、客室まがいの部屋、寝室まがいの部屋、昔の田舎風の調理場などが、傾斜地のため立体的に構成されている。”・・・まがい”というのは目的毎に何となく道具立てと配置が出来た部屋なのでそう言うのが似つかわしい。それらの部屋にはそれぞれ入り口があり、奥の方で迷路のような通路で繋がっている。

 書斎とおぼしき部屋の古いドアを開けると、土間伝いに、材木の山があり、更に進むと大きな板を並べた机がある。彼は仕事着のまま入ってきて、その間を通り抜け、自分の椅子に腰掛ける。「ふっ」と、力を抜き、煙草をくゆらす。その時の富田さんは、周りの雰囲気と溶け合って一幅の絵になっている。これぞ”男の隠れ家”である。

 外から見ると、材木が不揃いに置いて有り、タイヤの無い廃車が一台有り、古いキャンバスのシートが垂れ下がっていて、ここが”男の宴会場”とは誰にも思えない。でも入ってみると男は誰でも「こんな穴蔵が欲しかった」と思うのである。

 富田さんはつい最近、数軒先の登山家の池田さんに頼まれて東南の傾斜地に囲炉裏のある部屋を造った。その部屋は八畳ほどの半地下である。まだ若い池田さんは富田さんの”穴蔵”に魅せられて、どうしても田舎風の隠れ家が欲しくなって頼んだのである。

 ”池田さんの隠れ家”を正面から見ると、右奥に階段があり、母屋から降りてくるようになっている。
 真ん中に囲炉裏があり、何処かで仕入れた古い自在鍵が掛かっていて、鉄瓶がぶる下がっている。正面奥には酒や本を置く棚が作りつけになっている。囲炉裏の右側は板敷きで、左側と手前は一段下がった土間になっている。右の板敷きには何か分からないが大きな獣の毛皮が敷かれており、主の座を示している。天井は太い梁がむき出しになっていて隠れ家をよりそれらしく演出している。

 土間側の囲炉裏は側面が抜けていて、椅子に掛けた人の足を暖める構造になっている。これは富田さんのアイディアである。更に面白いことに囲炉裏の真ん中に鉄パイプが設えてあり、側のスイッチを入れるとそこから空気が吹きだし、電気式火吹き竹になっている。富田さんは一部屋造るにも何時もこの様なアイディアを盛り込むのである。

 富田さんも池田さんもそれぞれ自分の甲羅に似せて穴を掘っている。何と贅沢なことか。

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