八ヶ岳は山梨県から長野県に跨る南北20キロメートルの連峰である。その中ほどにある硫黄岳から南の岩山を南八ヶ岳連峰、通称「南八つ」、それより北側の森に覆われた山脈を北八ヶ岳連峰、通称「北八つ」と呼ばれている。

 ある夏の日、南八つの岸壁を近くから見てみようと思い、家内と車で麦草峠を越え、南八つ登山口である美濃戸へ行った。
 そこから2時間ほど歩くと、赤岳の西壁直下にある行者小屋に着く。天気も良く、スイスのアルプスほどではないにしろ噂の通り素晴らしい南八つ西壁を見ることが出来た。右手前に阿弥陀岳、そこから左に向かって中岳そして主峰赤岳(2899メートル)、その左側に連なる横岳がパノラマのように迫ってくる。

 土曜日であったが、我々は今日は見に来ただけなので、食事だけして次回を期して帰途についた。それから一年後の夏、今度は登るつもりで行者小屋までやってきたが、雲が垂れ込めており、視界も悪く、朝の出発が遅かったこともあって、諦めてそのまま帰った。でも赤岳の勇姿を垣間見ただけで満足であった。

 その年の10月4日、三度目である。天気は快晴であった。そろそろ山頂は冬支度であるが、鉄の階段の多い文三郎道を赤岳に向かった。余り寒さは感じなかったが、中岳との出会を過ぎて赤岳の肩に到達する頃には流石に少し疲れが出てきた。赤岳の肩からは完全な岩峰で、頂上に近づくにつれ、両手を使って這い上がるところもあり、家内は相当消耗しているようだった。でも、日頃この程度の距離はこなしているので休みの回数を余計取って登った。行者小屋から2時間の予定が大分遅れて3時間ほど掛かって頂上小屋に着いた。夕方少し遅く4時であった。

 途中で一二枚の写真を撮った。また、我々の様子を見ていた若い登山者が、上の方から何枚かの写真を撮ってくれていた。何となく老夫婦が助け合って登っているなと思ったのか、我々を目でフォローしてくれていた。頂上小屋でその登山者と話し合う機会があった。写真の送り先を教えると、後日丁寧な手紙と写真を送ってくれた。伊勢の人だった。「歳を取った夫婦が仲良く登っているのを見て微笑ましく思いました。チャンスがあったら是非私の家に泊まりに来て下さい」と記されていた。

 家内が山小屋に余り馴染みがないので、空いていたこともあって二人だけの個室を取った。小屋にはストーブが炊かれていた。登山者達は昔からの知り合いのようにビールを飲みながら山談義をしていた。我々もそれに加わり楽しい一夜を過ごした。

 翌朝は氷点下4度に下がり、薄霜が降りていた。幸い天気も良く、7時頃には出発した。今日は、地蔵尾根を下り、昨日の中継点である行者小屋に降りて美濃戸まで帰る予定である。出発して程なく霜も解け、歩きやすい尾根筋になった。
 途中、深さ何十メートルもあるクレバス状の岩の割れ目が有った。跨げばどうと言うこともない裂け目ではあるが、素人は尻がむずがゆくなる。跨がなければ先に進めない。家内の手を引いて恐る恐る渡った。その後は特に問題もなく30分後には展望小屋を経て地蔵峠の分岐に着いた。振り返ると2899メートルの赤岳は逆光の中で綺麗にシルエットを作っていた。「あそこに登ったのだ」と二人とも満足であった。

 一寸休憩してコースを左の地蔵尾根の方向に取り、急傾斜の鎖場を下る。
 地蔵尾根は尾根と言えば尾根であるが、赤岳と横岳の鋭い鞍部の山腹が少し膨らんだような尾根である。昔、若い頃、縦走路は何度も歩いたことがあったが、ここは私も初めてのコースである。鎖がなければ我々素人にはとても降りられない岩壁であるが、私が先導して家内が後ろから着いてきた。標高差の1/3は鎖場であったが家内はそれほど怖がらず、2時間ほどで何とか無事に降りてきた。途中で大同心、小同心などの南八ヶ岳独特の岩峰の写真を撮り、行者小屋に着いた。
 山小屋を建ててから5年目にしてやっと赤岳に登った。62歳で八ヶ岳主峰登頂は、やはり何やら感慨深いものがあった。

 帰ってから山屋の友人に話したら、「3000メートル級の山は10月は初心者には危険である。今後はその時期は止めた方がよい」と言われた。確かに天気さえよければなんともないが、前日に晴れていても翌日は保証されないので、「素人同士で行くときには雨が降っても大丈夫な夏に登るように」と忠告された。

 その翌年の夏、家内の姉と友人を連れて再度行者小屋に赤岳西壁を見に行った。やはり素晴らしい景色であった。その時は前回果たせなかった赤岳鉱泉回りで帰ってきた。何時か赤岳鉱泉から硫黄岳へ登り、横岳を通って赤岳に登り、行者小屋へのルートを取りたいと思っている