2001年春
橋本 新一郎
1992年、ふとしたことから山小屋を建てることになった。そこに行くようになって10年が過ぎた。日々何となく溜まって行く都会のストレスが週末にフッと解放される。これがいつの間にか身体のリズムになっている。周りを見渡すと、八ヶ岳は終始微動だにせず、季節もこれまで通り巡っている。此処には人知では推し量れない大きな自然がある。この掴み所のない自然が麻薬のように我々を何度でも山小屋に呼び寄せるのである。
2001年春
橋本 新一郎
1992年、ふとしたことから山小屋を建てることになった。そこに行くようになって10年が過ぎた。日々何となく溜まって行く都会のストレスが週末にフッと解放される。これがいつの間にか身体のリズムになっている。周りを見渡すと、八ヶ岳は終始微動だにせず、季節もこれまで通り巡っている。此処には人知では推し量れない大きな自然がある。この掴み所のない自然が麻薬のように我々を何度でも山小屋に呼び寄せるのである。
建ててみると、何とも小さく、都会的で、趣のない山小屋になった。しかしここで週末を過ごすことを繰り返す中に、「我々は山小屋に来るのではなく、山小屋の在る場所に来るのだ」と言うことが分かってきた。
我が山小屋は、八ヶ岳山麓、千曲川沿いの長野県南佐久郡八千穂村の里から、国道299号を麦草峠に向かって8キロほど登ったところに有る。標高1220メートルの村営別荘地である。
そこは一部なだらかな部分もあるが、概して凹凸の激しい急な斜面の山林で、30年程前に、村興しの一貫として、山を切り開いて作った別荘地である。
レストランの類は一軒もない。管理棟一軒とゴミ集積所がいくつかあるだけである。昔はレストランや喫茶店が一つずつあったが、いつのまにか辞めてしまった。
我が家は310坪程の土地であるが、南に長い25度の急斜面の林なので、道を一つ隔てて数十メートル下の方にある二、三軒の家は、夏には木が茂って全く見えない。また、その先に白樺林の尾根があり、その手前の谷間にある小川で別荘地は終わっている。
そのため両隣に建つ山荘の庭と、前方の八ヶ岳連峰に通ずる広大な起伏を借景にすると、何千万坪の森の中にポツンと一軒存在しているような錯覚にとらわれる。
ここは日常性から離れ、季節の変化、天気による変化、一週間毎の風景の移ろいを楽しめる所であり、登山、スキー、山遊びの拠点にもなる。
春になると、山菜が採れ、一年中鳥がやってくる。絵画のモチーフにも事欠かず、気兼ねなく土木作業、焚き火、バーベキュー等を楽しめる場所である。小屋を取り巻く森は、遠く子供の頃の思い出や遊びを蘇らせてくれる。
男は何時になっても子供である。女はそれを呆れながらも微笑んで眺めている。人は何時でも自然の中に故郷を思い起こすのかも知れない。
こうやって七回の春を過ごしている中に、ゴルフにもすっかり疎くなった。年に30数回もやって来る。それでも、週末を待ちわびる気持は変わらない。こんな事は山小屋を建てる前には想像すら出来なかった。都会、しかも海しか知らない下町育ちの家内が文句を言わずについて来て、山に馴染んで行くのも予想外であった。
たまに家内が都合で来られなくなり、私だけが来ると、家内はしきりに文句を言う。「東京の仕事ができないから、たまにはこっちに居れば」とか、「交通費がもったいないわよ」などと言う。実は一緒に来たいのである。
何時か仕事を離れれば、この「男の隠れ家」ならぬ「夫婦の隠れ家」に来る頻度や滞在期間はもっと増えるだろう。道具に囲まれた作業場で、手ぐすねを引いて待っている木工が始まることだろう。
つい最近まで続けていた薔薇作りもここで再開するつもりである。大好きな土木工事の予定も進むことだろう。これまで時間的にままならなかった趣味が本格的に開花する筈である。
八ヶ岳の山も、もっともっと身近になり、これまで歩かなかったどんな細い山道にも足跡が付くことだろう。本当に山小屋が呼んでいるような気がする。 そんなことで、以下の文は、趣味の土木工事の記事が多すぎる感もあるが、細かい技術に興味のない方は読み飛ばしていただきたい。
誰でも50歳の半ばを過ぎると、定年が少しづつ射程に入ってくる。将来どんな生活をしたら良いのか考え始める歳でもある。
「山小屋が呼んでいる」は、そんな方々が、小さくとも山小屋 を建てると、そこにどんな楽しみや可能性が待っているのかを、限られた経験の中から述べてみたものである。又既に山小屋をお持ちの方には、遊びのレパートリーを増やすために、お役に立てれば幸いである。
なお、山小屋に纏わる作業については、興味のある方が再現できるように、段取り、イラスト、写真、寸法等を入れておいた。その分、少ししつこくなってしまったが、興味のない方は読み飛ばしていただきたい。
親しい友人が箱根にマンション別荘を持っているので、時々泊まりに行く。
また女房が早稲田の成人学校で知り合いになった永野さんという方も長野県八千穂に別荘を持っているという。
女房が茶飲み話の中で「一体どんなところなの?」等と聞いているうちに、「まだ空いているところがあるかどうか聞いてあげましょうか?」と言う話になった。「別に買える訳でもないし、欲しい訳でもないけれど、別荘とは一体どんなものかを知るために、何か解ったら教えて」で始まった話が、ひょんな事になった。
前記の友人が、新たに蓼科の別荘地を買ったので、見に行くという。八ヶ岳周辺は若い頃からよく歩いた場所で、私も大好きな所だから、「景色見がてら一緒に行こう」と言うことになった。
蓼科の別荘地は如何にも別荘地らしく雰囲気も垢抜けしていて、素晴らしかった。
値段を参考までに聞くと、やはり我々には到底手が届かない途方もないものであった。「別荘とはそう言うものなのか」と、改めて納得した。
帰り道に、「永野さんが居る八千穂の別荘地にも寄って見よう」と言うことになった。蓼科から国道299号を登り、麦草峠で八ヶ岳を跨ぎ、反対側の八千穂村に出る8キロメートル程手前にある別荘地である。道路地図を見ると小さく別荘地と記されている。
そこは国道299号を挟んで両側に展開する比較的大きな別荘地であった。区画は500~600程有り、300~400軒は建っている様に見える。
別荘地と言っても、いわゆる造成した土地ではなく、自然の山林を区画しただけで、簡易舗装道路と、電気、水道があるだけの凹凸の激しい山であった。
八千穂村の事業として30年ほど前に開発したもので、鬱蒼とした森は、自然そのものであるが、我々が持っている別荘地の概念とは少し違っていた。それでも区画はどれも300坪から500坪とゆったりしている。村営であるので、売り地ではなく借地であった。
借地期間は25年で、蓼科の買い取りと比べると価格は七、八分の一程度であった。財産ではなく、自分たちが生きている間だけ楽しめば良いと考えると、借地の方が効率的である。
値段もさることながら、山や林が自然のままなのが気に入った。丁度25年の書き換えで、家の建っていない土地が沢山余っていた。
その中に南北の二つの道路に挟まれた、南斜面で景色の良いところがあった。公称310坪ほどであるが、傾斜地であることと、下端の矩が十分取ってあるため、表面積は350坪は悠にある。
道路を挟んで北の背後は少し緩い傾斜地であるが、未だ売れていない。その上は尾根の頂上になっている。
この土地の斜度は20度から25度で、下の道路の向こう側に一軒、更にその下に一軒の家が建っているが、夏は鬱蒼とした森に遮られて全く見えない。
その先はぐっと下って小さな渓流があり、其処までが別荘地である。その向こうには八ヶ岳から延びた白樺尾根が左に流れ、遠景を成している。更にその先には幾重にも尾根が並び、正面に2,742mの硫黄岳が爆裂口を見せて「どん」と座っている。
もう一つの候補地は、背後の尾根の頂に有り、ほぼ平地で500坪ほどあった。土地柄は非常によいが、自分の敷地の木を切っただけでは眺望が得られない。南隣りがどれだけ切ってくれるかで景色が決まる土地であった。
今七年程住んでみて、やはり傾斜地が正解であったと思っている。
此処なら値段も手の届くところにあり、東京からの時間も2.5時間程度で来られる距離である。好きな八ヶ岳にも登れるし、車で15分も行けばスキー場もある。山菜も楽しめるし、好きな土木工事もできる。買い物は村まで車で8分程度で降りられ、その先には大きなスーパーがいくつもある。急に現実感が出てきた。
1992年の夏、二回目に訪れたときには、既に決めていた。その山一帯の別荘を手がけていた大工さんは、バブル崩壊後にも関わらず既に二年分の仕事を抱えていた。
やむなく帰り掛けに見つけた清里のログ工務店で話し込んでいると、「うちでやりましょう。甲府で息子が建築事務所をやっているから」と言う。彼は警察署長さん上がりで信頼が置けること、甲府の息子さんも山梨大学出身のしっかりした青年であったことから、早速決めてしまった。
しかし、近くの棟梁の方が気候に通じていて、職人の手配もし易いことから、甲府の建築事務所が請け負い、清里の警察署長上がりの知り合いの棟梁が建てることになった。
既に300軒以上の家を建てたと豪語する、近在の川上村に住む変わった棟梁であった。
予定外のことを、思いつきでやるわけであるから、他の生活に影響を与えないよう、費用を極力押さえた。
建物は夫婦二人が生活できればよいだけの大きさにした。平屋17坪である。平屋と言っても斜面であるので、南面は床まで四メートル近く有る。東から西へ、順に8畳(和室)、10畳(居間)、6畳(キチン)がぶっ通しの間取りである。和室のみ和洋風引き戸で仕切れるようになっている。風呂、トイレ、洗面所は合わせて二坪である。北玄関は一坪で、風除室を兼ねている。これで全てである。
押入は天袋付き四間分と浅い半間の食器戸棚で、十分とった。これだけあると家具を置かなくても済むので広く使える。
ベランダは建物とは別に二坪とった。これも建築費用と将来の塗装の観点から最低限の大きさにした。
外壁は維持費の削減を考慮して、白の焼き付けアルミのサイディングとし、塗装をしなくても良いようにした。また屋根は20年以上はそのまま保つと言われる黒の鉄板とした。それでもベランダ、屋根の庇の内側、地下の柱などは三年毎にペンキを塗っている。
棟梁は、間取りの図面を見せると、それ以後図面について何の打ち合わせも持たない。一目で全てを頭の中に入れてしまっているらしい。心配なので、各壁面の鳥瞰図を書いて意志を伝えたが、清里の警察署長上がりの大将回りであるので全く反応がない。
7月頃始まった話であったが、小さな小屋であったので、その年1992年12月26日には引き渡しとなった。
曲がりなりであったが、ほぼ希望通りになっていた。屋根は始め東西に分流する大屋根の予定であったが、二階がないので南北に分かれる普通の屋根で、両端と玄関先を近代的な面取りとしてあった。
外見も中身も都会的な小屋が出来上がった。取り立てて言うほどの特徴もない。玄関を入って風除室を通ると、家の中全てが見えてしまう構造である。
敢えて都会の家との違いを言えば、窓が全て二重になっていることと水道管にヒーターが巻いてあることぐらいである。
しかし5年以上使ってみると案外使い易かった。でも人が訪ねてくるともう一部屋欲しいと思うことがある。
山に建てるのだから山小屋風を想像していたが、山小屋のイメージを実現しようとすると、意外に大きなものになってしまうようである。小さな小屋で最低限必要な間取りとすると、山小屋風からはかけ離れた都会のマンションと似た造りになってしまうのである。
燃料購入の問題もあり、薪ストーブの計画は、9000kcalの石油ストーブに変わった。もう一台5000kcalの小型のものを用意したが全館暖房しても一台で間に合うので外してしまった。
昼間は南斜面であるため天気が良ければ、真冬でもストーブは要らない。通常金曜の夜来て、日曜の夕方帰るパターンで、年間30数回来るが、年間の石油使用量は100リットル位(自分で買いに行くので約三千円)で思ったよりずっと少なかった。
家の広さは、女房の掃除好き、料理好き、布団干し好き等を考えると、動線が短いので、案外これでよいのかも知れない。殆ど毎週来るので、生活し易いこともかなり重要な要素である。
それより、どの部屋からも硫黄岳の爆裂口を中心にした八ヶ岳と付近の山々の景色が見えるのが嬉しい。また天気が良ければ奥秩父が遠望できる。更に庭を含む周りの森林の季節毎或いは毎週の風景の移ろいの機微を考えると、家の作りは些細な事のようにも思える。
更に、「鳥やリスがやってくる窓辺があるのだから、あとは何も要らない」などと負け惜しみを言っている。それしかできないのであるなら、それを享受することである。
女房は、もう一部屋欲しかった、山小屋風が欲しかった、対面キッチンにして欲しかった、・・・等と今でも言っているが、いずれもどうしてもと言う程ではない。私も心の中では少しケチりすぎたかなと思わないではないが、一度建ててしまうと、いじるのは面倒である。どうしてもと言うことになれば建て増しすればよいのである
そうこうしている中に、ばっこ柳、壇香梅の花に始まり、蕗のトウが顔を出し、カラ松が芽吹き、梅と桃と桜が同時に満開になり、始めての八千穂の春を迎えた。
建物がどうのこうのと言う話は、素晴らしい山の春が全て吹き飛ばしてくれた。山の春はそんなに新鮮であり刺激的であった。
今年は雪が多かったが、暖冬の影響か、タラの芽がもう出てきた。そろそろ本格的な山菜の時期を迎える。こうして週末の山小屋生活が始まった。
八ヶ岳は、北アルプスや南アルプスに比べて比較的アプローチが簡単であるが、3000メートルに近い山である。東西に長い尾根を持ち、その山麓には蓼科を始めとする沢山の別荘地がある。南はごつごつした岩山であり、北は森と苔に覆われたしっとりとした山である。
山岳部のリーダーであった友人が、隊員と行動する合間の息抜きに、我々素人をよく八ヶ岳に連れてきてくれた。
そんなことで学生時代には、二回来た。
一度は夏だった。小海線の松原湖駅から歩いて稲子湯経由で白駒池に行った。稲子湯の小屋が未だ改築される前である。一泊して温泉に浸かった。
ほっ建て小屋の中に板戸で囲まれた温泉があり、隙間から星が見えていた。現在の湯の色は鉄分を含んだ赤色であるが、当時はうろ覚えであるが、粘度を溶かしたような濃いネズミ色をしていたように思う。
翌日、白駒池へ向かった。途中、始めて見る白樺林が余り綺麗だったので、一休みするはずが、皆で枯れ草の上に仰向けになって昼寝をしてしまった。青空の中に無数の白樺の葉がぶら下がり、そよ風に鈴のように揺れていたのが印象的であった。
始めて見る静寂な白駒池は、若い我々をハッとさせるそれは神秘な池であった。この世にこんな美しい池があるのだろうかと、目を疑ったものである。
今では何時行っても沢山の人が来ているが、当時は我々以外誰も居なかった。
四十年以上前の事である。
二度目は春だった。やはり稲子湯から登り、ミドリ池を抜け、中山峠で八ヶ岳を越えて渋ノ湯に降りた。未だ残雪が多く、雪道を山靴でショートスキーのように滑りながら降りたのを覚えている。
大学を卒業して、同じ友人と彼の女友達二人と、八ヶ岳山麓の清里までドライブし、美しの森をハイキングした。朝早く出てきたこともあってスズランの咲く原っぱで、昼食の後、四人とも昼寝をした。その後友人とその女性の一人が結婚した。
その夫婦と我々夫婦は家族ぐるみで今でも一緒に山に行ったりスキーに行ったりしている。
会社に入ると、仲間も沢山でき、一緒に山に行くことも増えた。5月の連休だったと思う。新装成った稲子湯で立派な温泉に浸かり、白駒池へのルートを登った。
学生時代に来たことがあるルートだったが、林道が出来たこともあって景色は殆ど覚えていなかった。白駒池付近は人の足跡が少なく、残雪に膝まで潜りながら歩いたのを覚えている。
またある夏、職場の旅行で蓼科に泊まり、翌日有志で渋ノ湯から北八の尾根に取り付き、硫黄岳の小屋で泊まり、赤岳まで縦走して清里に降りた。
別の年にも蓼科に行った。翌日やはり渋ノ湯から尾根に上がり、南八ヶ岳を縦走した。その時は赤岳を越えて権現岳まで足を延ばし、小淵沢に降りた。
途中、一泊したが、行程が長く、みんな相当疲れていた。
偶々通りがかった工事用トラックに乗せて貰って、長い裾野を歩かずに済んでホットした。
前記大学時代の友人と私の家族には、どちらも三人の子供が生まれ、一緒に登山、スキー、ハイキング、ドライブ等を楽しんで来た。
八ヶ岳にも何度か来た。 あるとき麦草峠のヒュッテに泊まったが、久しぶりだったせいか全員高山病になった。頭痛に悩まされたが、子供達は、それにもめげず雪合戦でびしょびしょになって遊んだのを覚えている。
家の子供達は我々夫婦と共に皆スキーをやる。末っ子の娘は競技スキーをやっていたので一番速く滑る。次男は一級の腕前であるので綺麗に滑る。長男もそこそこ滑るが、どちらかというとアウトドア派である。友人の子供達も皆スキーをやる。
そして皆結婚した。我が家でも長男、次男が結婚した。成長したため再び夫婦だけの付き合いになった。
このように若いときから何回も八ヶ岳にやって来ているので八ヶ岳には深い愛着がある。山小屋の場所を、他に何処も調べずに、簡単に八ヶ岳山麓と決めたのもそんな経緯が有ったからである。
30年ぶりの大雪も案外早く解け、3月半ばになると僅かに北側の陰に小さな汚れた雪の山を残すのみとなった。スキーシーズンも終わり、何となく暖かい日が覗くようになるが、ここしばらくは山には目に見える変化はない。しかし4月の半ばになり、壇紅梅が黄色い花を付けると、後は一気に進む。
我が家の壇紅梅は、花付きが悪く、小屋から離れているので、近所の壇紅梅が咲くのを見てから慌てて確認しに行く。比較的大きい木なのに日当たりが悪いせいか何時も細々と咲いている。
その奥に、かなり太いバッコ柳の木がある。ここは日当たりが良く、春には壇紅梅より二三日早く咲く花であるが、壇紅梅を確認しに行って初めて気が付くのが常である。 初めは、なんだか淡い若草色の木が高いところにあるなと言う程度の存在であった。ある日ベランダから望遠鏡で覗くと可愛らしい猫じゃらしのような花を沢山付けたバッコ柳であった。
壇紅梅とバッコ柳が咲くと、間髪を入れず、山桜が霞を配したように淡く山を彩る。直径7,8センチぐらいの我が家の山桜も今年初めて10個程度の白い花を付けた。何とも初々しく心が和む。思わず花の数を数えてしまった。
この頃からほんの少し青みがかった落葉松の芽が日一日と膨らみ始め、5月になると八千穂の山一帯は一斉に若草色の新芽で覆われる。何と美しい光景か。もう何度もこの春の息吹を目にしてきたが、落葉松の新芽は言葉に尽くせないくらい新鮮で美しい。そして地面では春を告げる”スミレ”、黄色い”キジムシロ”の花が庭の日当たりの良いところを埋め尽くして春爛漫である。
我が山小屋の地形は凡そ東西に26メートル、南北に45メートルで、南へ25度傾斜している。傾斜がきついため、若干使いにくいが、景色はその分すこぶる良い。
正面に八ヶ岳の中でも特異な爆裂口を見せる硫黄岳(2,742メートル)が未だ真っ白い雪を被り胡座をかいたように座っている。爆裂口の中には雪を熊手で横に引っ掻いたように黒い縞が走っていて複雑な岩肌を呈している。その左後方に小さく、横岳が見えている。また硫黄岳の右側には夏沢峠の大きな凹みを隔てて、小高い双瘤のニュウの岩峰が見えている。50倍の望遠鏡を使うとニュウは勿論、硫黄岳や横岳の登山者までがカゲロウのようにゆらゆら揺れて、蟻のように動くのが分かる。五月の連休は春山登山の時期である。
6月になると、初夏である。木々の緑もすっかり濃くなり、春蝉が五月蠅く鳴き始める。庭のあちこちに小さな抜け殻が落ちている。晴れた日は合唱が凄い。一時期花が途切れるが、6月半ばを過ぎるとアヤメがあちこちに咲き始める。緑の中に咲く濃い紫の花は清々しい。日当たりの良い土手や道ばたには桃色のツメクサが咲き乱れる。近所の佐藤さんは、ツメクサを天ぷらにする。「別にそれほど美味しいわけではないけれど、一寸綺麗なのよね」と言う。
庭の中程まで降りて林の中から空を見上げると、広げた枝で殆ど隙間がなく、互いに空を埋めている。そのため夏は地面に木漏れ日程度しか陽が射さないので草はあまり生えない。斑に「ぽよぽよ」と生えた雑草は案外趣がある。
林の中を歩くと足が落ち葉の中に深く沈む。同じ所を歩くと土床が固まり、そこには茸も山野草もあまり生えなくなってしまうので、散策用の小道をジグザグに沢山付けてある。
その道には落ち葉と細い枯れ枝が堆積したり、風に吹かれてなくなったりして何となく土が出ていて森の小道を演出している。付けた道は二三年経つと昔からあった山道のようになる。森や林の植生は一年として止まっていない。
7月になると、鳥の糞から生えるのか去年まで見られなかったリンドウやナデシコが所々に生えたり、大事にしていた河原ナデシコが急に減ったりする。山菜の王様”タラの木”もどんどん増えていると思ったら、周りの木が茂りだし、ここ二三年で大きな木が枯れて本数も減ってきた。
短い夏が終わると、落葉松林に生える茸の”はないぐち”(この辺りでは通称”リコボウ”と言う)があちこちに顔を出す。今年は直径17、8センチ、高さが20センチもある”唐傘茸”が初めて出た。傘の表面は揚げ煎餅の様に凸凹している。草むらに単独に生えるので遠くからでもよく分かる。
また茸の女王と呼ばれる”絹傘茸”も庭の真ん中に一本生えた。早速女房を呼んで始めて見るこの珍しい茸を眺め、写真に収めた。いずれも食べらられる茸で中華料理に合うそうである。絹傘茸は白いレースのスカートを広げた独特の格好をした茸で、見ては興味深いが、食べるには一寸不気味な風情である。
食堂の窓の前に茂る”柏”と”ミズ楢”は食事をしながら「山に居るなあ」と実感させてくれる木で、家内は”憩いの木”と呼んでいる。これまで殆ど実が着かなかったが、小屋を建てて環境が変わったせいか、去年から急に沢山のドングリがなるようになった。葉と幹はいずれもよく似ていて、ミズ楢の葉は心持ち小さいだけである。しかし、ドングリの形は全く違っていて、柏の実は丸くて殆ど太い毛で覆われているが、ミズ楢の実は普通の帽子を被った細長いドングリである。ベランダから手の届きそうなところになっている。
秋も深まってくると、ドングリの皮が緑から茶色に変わって行く。
我が家の庭や近所には太い山栗の木が沢山ある。庭の栗はやはり一昨年からなり始めて小さいが甘い実を落とす。しかし9割は虫食いで収穫にはならない。でも自分の庭の栗だと思うとつい一生懸命拾ってしまう。
10月も終わりになると、西側にある大きな楓が黄色く紅葉する。二三本有るイロハモミジは未だ小さいが、葉を真っ赤に染めて美しい。
広葉樹の紅葉が終わる頃になると、落葉松が徐々に黄色くなり、やがて金色になり、全山が黄金色に染まる。それは絵のように美しい幻想的な風景である。
11月半ばになると、冷たい風に細い葉がさらさらと雨のように舞い落ちる。道はふかふかした茶色い針葉で覆われる。
落葉松の葉が落ちると、庭は見通しが利くようになる。早いときは、十月末には八ヶ岳は雪で薄化粧する。
ある日、家内と窓から庭を見ていたら、痩せた野良猫が北の山から小屋の庭を通って下の方にスタスタと降りて行くのが目にとまった。遠回りなのに人と同じように我々の作った山道をジグザグにトコトコと歩いて行った。何となくおかしくて家内と顔を見合わせてくすくす笑った。そろそろ冬である。
大工の棟梁から引き渡された山小屋は殺風景で、如何にも即物的であった。
やはり建物は、人が住んでいる痕跡が無いと何となく寒々しいものである。 山小屋の土木工事は、小屋に人気を与え、山小屋生活を温もり有るものに変えて行く作業でもある。この作業が不思議なことに何とも楽しいのである。今ではこれが山小屋に来る一つの目的になってしまっている。
作業は自分の趣味だから全て一人でやる。効率よくやるためにも、安全にやるためにも、工事の段取りを工夫しなければならない。
犬走りを作る
小屋を建てたばかりの頃、建物が盛り上がった赤土の上に置いてあるようで、いかにも今作ったばかりという雰囲気で周りの風景になじんでいなかった。建物の土台の布コンクリートは、あまり深く埋まっていないように見えるし、その周りがふかふかしていて歩き難く、直ぐ崩れそうだった。そこでここに枠を作り、砂利を盛って”犬走り”を作ることにした。
先ず土台の外側70cmの所に、4メートルのカラ松の丸太を縦に二本積んで杭を打って枠を作り、細かい砂利をたっぷり入れた。急な傾斜地なので、更に70cm離して下の枠を作った。結果的に二段の犬走りになった。この犬走りの長さは12メートル有る。
このような工事は、本当は下の段から作るものであるが、慣れないこともあって、何となく上の段から作ってしまった。数年後に果たして丸太の下から土がぼろぼろこぼれ出して空洞が出来始めた。そのため丸太が沈んで杭が出っ張ってきた。更に最近では丸太も杭も腐ってぼろぼろになってしまった。
これまでに、大分経験も積んだし技術も高まったので、こういう失敗はもうしない。新しい技術と枕木を使って近々やり直す予定である。
駐車場の土留め
北側の、建物と道路の間に作った駐車場は、道路との段差が数十センチから最大1メートル強あり、長さが約12メートル有る。放っておくと道路の土が崩れて駐車場が狭くなるだけでなく、道路自体が崩れてくる心配がある。
棟梁に、「土留めをするにはどのくらい掛かりますかね」と聞くと、「100万は掛かるね」と軽く言う。どう考えても100万円の仕事量ではない。大した作業ではないので面倒くさいらしい。「自分で何とかやるからいいよ」と断った。
そうは言っても、駐車場の土留めは、幅を確保するため、道路からの傾斜を出来るだけ急に取らねばならない。素人には難しい工事である。
コンクリートの土留めは、素人の作業としては大袈裟すぎるし、仕上がりに趣がない。大石を積んで貰うと場所を喰って駐車場の幅が取れなくなる。
そこで、枕木に絞って、色々図面を引いてみた。その結果編み出した方法は、案外当たり前の方法であった。
先ず、古い枕木二本を下から積み、その手前を直径8センチ、長さ140センチの長い杭二本を1メートル打ち込んで止める。次に二本の枕木の背後に同じく140センチの杭二本を、1メートル打ち込み、その奥に、新しく枕木を2本積む。これで80センチの高さの土留めが出来る。これを基本とし、段差の大小によって下側の枕木を三本にしたり、更に上側の枕木を三本にしたりして高さを調節する。
この方法は、簡単な割りに急斜面の土留めとして堅固なので、後の全ての土木工事に応用している。しかし、その後5年でカラ松の杭が腐り始めた。一部を枕木の杭で打ち直したが、9年経った現在、どうやら全面的にやり直す時期が来ているようである。
杭について
杭は、近くの森林組合から数十本ずつ買ってきては土留めや階段作りなどに使っている。また近所の山の間伐材が野ざらしになっていると、出かけて行って杭になりそうなものを切り出してくる。この間数えてみたら既に350本も杭を打っていることが分かった。
杭打ちは、たまにやると手と肩の筋肉が凝り、一週間以上も直らない。
土留めにはよく古い枕木を使う。木による造作は、コンクリートより柔らかい感じが出て山小屋にはよく似合う。寿命も建物以上に長い。
普通の木を使うと、早く腐るので、直ぐに工事をやり直さなければならなくなる。その度に掛かる経費を考えると、枕木の方が安くつく。但し、杭も枕木から作ったものを使わなければ意味がない。
しかし古い枕木では、内部に金属が埋まっていたり、ひびが入っていたりして使えない。杭を作るにはやはり新しい枕木でないと駄目である。
新しい枕木による杭
最近友人の手づるで新しい枕木を100本ほど仕入れる事が出来た。これを土止めに使うだけでなく、縦に鋸で挽いて杭を作り、駐車場の土留め全体を作り直そうと思っている。
しかし言うは易しで、堅くてなかなか縦に挽けない。チェーンソウでも歯が立たない。
小型の丸鋸を使って挽いてみたが、歯の経が小さいことと、力がないことから簡単に煙を吐いて動かなくなってしまった。
そこで直径19cmの中型丸鋸を買ってきた。また丸鋸の歯を上に向けて固定する台を作り、町の製材所がやるように枕木を滑らせて縦に挽いていくようにした。それで幾分上手く行くようになった。しかし歯の径が小さいので、両面から挽かなければならない。更に、残った部分を鍛冶屋の一方を叩き込んで割らなければならない。
しばらくは、このようにして杭を作っていたが、素人が一人でやるには、労力が掛かりすぎてどうにもならない。別の方法を考えるまで中止することにした。
そうこうしている中に三年が過ぎてしまった。ところが、ある日以前から欲しいと思っていたバンドソーが、店舗改装のDIY店で、半額の11万円で出ていた。「これだ!」と決めて迷わず購入した。これを床下に備え付けて本格的な杭作りの装置を拵えた。材料を滑らかに送るために、これも半額のローラー台をテーブルの前後に取り付けた。
そのお陰で、枕木から杭の製作が急に楽になった。半日作業をすれば、枕木二本分、つまり16本の杭が出来る。しかも以前の傷だらけの杭と違って綺麗に製材された杭が得られるようになったのである。
出来上がった杭を積み上げて見ると、何とも言えぬ満足感が湧いてくる。よく言われるように、薪を一年分割って軒下に積み上げたときの気分である。
四月も中頃である。一週間ぶりに山小屋に戻ると、先週抜いた水道の水をもとに戻した。最高、最低寒暖計を見ると、この頃でも、過去一週間の間でマイナス5度の記録が残っていた。五月の連休までは油断できない。車のタイヤも11月始めから5月始めまではスタッドレスを履いたままだ。
今日は珍しく五時起きで東京の家を出た。家内が「桃の花の季節だから昼間行きましょうよ」と言う。私は山小屋の朝が好きだから前の晩に行く習慣にしているが、「桃の花もたまには良いか」と、中央道を朝一で走って来た。目当ては甲府盆地の桃である。高速道路からの花見ではあったが、見渡す限りの桃の花は見事だった。霞が棚引くように地面から少し浮き上がった薄桃色がずーっと続く。一瞬の景色とはいえ、勝沼辺りの桃畑を過ぎるには数分かかる。
いつもは高速道路を須玉で降りるが、今日は朝の山の景色を眺めようと、一つ先の長坂インターで降りた。大泉の別荘地を抜けて八ヶ岳の鉢巻き道路を通り、清里をバイパスして野辺山に出た。付近のスキー場にはまだ雪が沢山付いているが、既に閉鎖されている。
小海の手前、松原湖で山に上がり、久しぶりに稲子湯に寄ってみた。先週稲子湯から山に入って”みどり池”に行こうと思ったが、今年の雪の多さに、”かんじき”無しでは歩けないだろうと諦めていた。でも本当はどうかと気になっていたので寄ってみたのである。稲子湯の女主は、「通年人が通っているから大丈夫ですよ」と、こともなげに言う。「何だ、取り越し苦労だったのか。近い中に是非行ってみたいものだ」と呟きながら車に戻った。
道すがら、”蕗のとう”を採りながら国道299号へ出て、10キロほど下り、山小屋に着く。今夜は蕗のとうの天ぷらで一杯が楽しみである。
山小屋の駐車場には、まだ屋根から落ちた雪がたっぷりと有り、山になっていた。二月頃は、これが2メートル以上にもなり、今年は何時融けるのかと案じていたが、やはり季節に忠実で、大分融けて、二つの小山に別れて残っていた。早く融けるように、一抱えほどの小さな山の方を崩し、辺りに広げた。
小屋に入り、早速窓辺の餌台に、ヒマワリの種をたっぷり入れてやる。そろそろ餌やりの季節も終わる。でも、すかさず、コガラ、シジュウカラ、ゴジュウカラがやってきてついばむ。
コガラが最も人なつこく、目の前で小さな嘴でしきりにヒマワリの種を割っている。
左の翼が小さく毛羽立っているコガラの”チーコ”がよく来る。また背中に小さな毛が立っているヤマガラの”ジーコ”も何時もやって来る。ヤマガラも人なつこく、餌台に止まると必ずジージー鳴いて、「来たよ」と知らせる。
去年は、丸鋸を買い、その切れ味を試すために、シジュウカラ用の巣箱を四個量産した。十メートルほど離して木にくくりつけてやったら、ゴジュウカラが来て、しきりに穴を広げる作業をしている。入り口の直径をシジュウカラ用に28ミリにしてやったが、ゴジュウカラは少し大きいため、出入りは十分出来るのに、穴を広げる工事をやっている。また巣箱の穴の有る面に泥を塗ってカモフラージュをしている。なかなか捗らない。来週はどうなっているか今から気掛りである。上手く営巣してくれればよいが。
四年ほど前、やはり巣を掛けてやったら、シジュウカラが入った。何週間か経って来たとき、偶然巣立ちにぶつかった。朝七時に一羽が飛び立ち、全部で12羽が飛び立つのに夕方の五時まで掛かった。一日中窓から眺めていた。元気の良い順に出て来るらしく、最後に出てきたのは、やはり育ちが悪く、なかなか飛び出せなかった。親の誘導でやっとの思いで飛び出したが、巣の真下に落ちてしまった。
驚かしてはいけないと思ったが、心配なので出ていって少し遠くから見ていると、身の危険を感じたのか、この小さな体で人間を威嚇した。しばらく経って行ってみると、もう居なかった。きっと上手く飛べたのだろう。少し安心した。それにしても12羽とは、あの小さな巣箱にどの様にして入っていたのだろう。親鳥の給餌はさぞ大変だったろう。我が家の三人の子育てを思い出して、しばし女房と感慨に耽った。
もう此処に来てから八年以上経つが、この様な光景はその後出会していない。
ある日、町へ買い物に出ての帰り道、国道299号の山道にさしかかったところ、大きな雉のような鳥が舗装道路をゆっくり歩いて渡ろうとしていた。よく見ると夕日の中で金色に輝いている。尾が長く、全長一メートル近くある。うろ覚えだが、”山鳥”に違いない。数メートル手前で車を止めて見ていると、別に慌てる風もなく、向きを変え、山の中にとことこと戻っていった。しばらく目で追っていたが、程なく見えなくなった。
ここは小屋から直線距離で二百メートル程度しか離れていない。早速小屋に帰り、図鑑を調べたら間違いなく”山鳥”の雄であった。何か宝物を発見したような気がした。
”山鳥”は日本にしか居ない鳥で、鳥好きの外国人から見ると垂涎の的だそうである。
こんな事で、山に来ると街では見られない”小さな発見”がある。
山小屋から里に降り、千曲川を渡った山奥に曽原(ソバラ)と言う村がある。そのどん詰まりに温泉宿が一軒ある。そこから林道を2、3キロ登り、更に山道を少し行くとカタクリの群生地がある。毎年四月の中頃になると家内と見に行く。「まだ少し早いが、行ってみよう」と言うことになった。
カタクリの群生地は、疎林の中にあり、約千坪程である。満開までには後一、二週間かかるが、既に沢山咲いていた。いつものように下を向いて濃いピンクの花びらを上にピンと反り返らせ、小ウサギを思わせるように瑞々しく可憐に咲いていた。
花の形は一見百合のようで、芯に向かって、桃色から濃い紫に変わり、奥に網の目状の模様がある。中心には黒紫の雄蕊が小さな金槌のように何本か着いている。赤ずんだ緑の中に白い符を撒いたような葉は独特で、少し厚みを持っている。
カタクリがあるところに必ず咲く”吾妻イチゲ”も、所々、小さな白い花を見せている。単独で見ても本当に清楚で美しい。高さは10センチ強で、茎の太さも一ミリ程度であり、地面からひょろりと立って、数枚の小さな葉を笠のように一重に広げて、そのすぐ上に一輪、体に似合わない大きな白い花を着ける。カタクリに比べれば小さくて、うっかりすると見過ごす。
林の入り口付近に戻ってくると、自然保護指導員の腕章を付けた人が所在なげに地面に腰を下ろしていた。時期が早いので、見に来る人はまだ殆ど居ない。声を掛けると、指導員は、山野草だけでなく、樹木、岩石などにも詳しく、親切に色々教えてくれた。
「この辺りの地質は、古生層で弱アルカリ性なのです。それがカタクリの生育に適しているのです」と話してくれた。山小屋から余り遠くないところに、「地球創生期の地核が露出している場所がある」、と聞くだけで何ともロマンティックな気分になる。
カタクリの群生地のすぐ右側には、切り立った古成層が100メートルほど隆起して出来た痩せ尾根がある。「この頂上付近には此処からは見えませんが、”日陰ツツジ”の群生地があり、6月には見事な黄色い花を咲かせるんですよ。でも、人はカタクリだけを見に来るので、案外知られていないんです」と言う。我々も今まで知らなかった。
「案内してあげましょう」と我々夫婦を伴ってカタクリの群落を通り抜け、少し先から右に折れ、膝元まで深く堆積した落ち葉を踏み分けるようにして涸れ沢を詰める。そこから右へ取って、木の根につかまりながら古成層で出来た岩だらけの断崖をしばらくよじ登る。頂上手前の左手が急に開け、日陰ツツジの群落が広がっているのが見えた。
痩せ尾根を左回りに渡っていくと、群落は予想外に大きかった。「これが咲いたら、さぞすばらしいでしょうね」と話している中に、頭の中の群落は一面黄色い花で覆われた。
景色も地形の複雑さを反映して、美しく、しばし見とれてしまった。「6月には絶対来るぞ」と言いながら、尾根の途中から道とも崖ともつかない急斜面を、藪漕ぎしながら降りて来た。そこは元のカタクリの群生地であった。
1998年の春は例年になく雪が多かったので、みどり池への登山は大変だろうなと思っていた。しかし先週稲子湯の女主にみどり池への道の状態を聞いてみたら、「何時も人が通っているから大丈夫ですよ」と教えてくれていた。
山小屋で朝起きてみると、薄日が射していて高曇りであった。女房に「今からみどり池へ行こうよ」と言うと、「そうね、行きましょう」と、意見が一致した。山の用意は常に出来ているので、食事をして、9時過ぎに家を出た。車で、みどり池への起点の唐沢橋に着いたのは9時半頃であった。山屋の常識からすると、五時起き、六時起きが普通だが、我々の行動は何時も時間的に愚図でだらしないが、なかなか直らない。大体に思いつきで行動するところがある。
八ヶ岳はもう随分歩いているが、何となく行ってみたい池であるみどり池にはまだ行ったことがなかった。その気になった時に行かないと、永久に行かないような気がして、件のやり取りになった。
行程は往路2時間、帰路1時間半である。前半の一時間は、雪解けの沢の音をバックに、ホオジロの鳴き声を聞きながら、のんびりと歩いた。
後半は標高2000メートル近くあり、道には腐った雪がたっぷりあり、うっかりすると踏み抜く。それでも概してのんびりした山歩きであった。
残雪を予想して、スキーのストックを一本づつ持ってきたのは正解であった。残雪の山道は、何故か人の歩くところが高くなっている。その細い雪道をストックでバランスを取りながら歩いた。
人の足跡から、今日は我々より先に誰か一人歩いていた。
みどり池に着いてみると、その畔にあるしらびそ小屋の女主が、「今朝土地の人が一人天狗岳に行きましたよ」と言った。春山のこの季節に、このコースを登る人は少ない。天狗岳までは、夏でも四時間は掛かる。
小屋からは池越しに雪をかぶった天狗岳の雄姿がそびえている。対面している山が静かな池に写って美しい。左に根石岳、箕冠山、硫黄岳、右に中山峠への連なりが望める絶景である。周りの樹木は殆どシラビソなどの針葉樹で、時に枯れ木がオブジェのようにやせ細り、白い肌を出して風景にアクセントを沿えている。厳しい寒さと雪に耐えて世代交代の時期を迎えた姿である。
北八ヶ岳は、”しらびそ”、”とど松”などの針葉樹林帯で、ドイツの針葉樹林帯をシュバルツバルト(黒い森)と呼ぶことから、よく黒い森と形容される。確かに森は暗く黒っぽい。
しらびそ小屋は、池の畔から3~4メートルの所にあり、池の縁の枯れ木の上に、鳥やリスの餌台が作られていて、リスが何匹も出入りしている。小屋の壁に積んだ薪の上や隙間をちょろちょろ走り回る姿はまるで自分の庭で遊んでいるように見える。鳥もひっきりなしに来ている。静寂の中に一寸した賑わいを見せている。
少し寒かったが、バーナーを出して湯を沸かし、ラーメンを作った。女主が「寒いから中に入って休んで下さい」としきりに言ってくれるので、お言葉に甘えてストーブのある小屋でラーメンをすすった。気温は三~五度ぐらいであろうか。景色を楽しむため、外に出て茶を湧かし、一時女主と話をした。
「私は東京で生まれ、東京で育ったんです。山が好きで、いつの間にか此処に住んでいました。子供が小さいときはこの小屋から毎日里の学校に通ったんです。・・・長野の人は家に金を掛け、最近は暖房は大抵床暖なんですよ」等と話をしてくれた。
小屋は水面と余り違わない高さに建っている。その隣の少し高いところに、もう一軒小屋が建っている。何年か前、池が増水して浸水したので、建てたのだと言う。
後に、ある女流登山家が編纂した本を見たら、彼女自身が、生い立ちやシラビソ小屋の話を書いていた。その道では有名な人なのである。
帰りには女房にだけアイゼンを着けさせた。下りは私の方が速いので速度を調整するためと安全のためである。
着るものも一枚増やし、途中で休憩しないで済むようにした。結果的に、地図の時間表示より10分ほど早く着いた。こんな事はあまり無い。
余裕を持って歩いたためか、鳥のさえずる声がいつもより澄んで聞こえる。ふと、前方から鋭くさえずる小鳥の声が聞こえてきた。その声の方向を目で辿ると、直ぐ左の二メートル余りの木の枝に”瑠璃ビタキ”が一羽止まって鳴いていた。濃いコバルト色の羽根は、自然の中に居ながら、何か人工物を感じさせる程鮮やかであった。
下に着いたとき、全体の行程が3時間半程度で余裕があったので、また蕗のトウを探しながら帰った。もう殆ど花が咲き、惚けていた。
でもスキーシーズンが終わり、二人で山へ出掛けるのも久しぶりだったので一日満ち足りた気分であった。
帰ると女房は早速蕗味噌を作り始めた。伸びきった蕗のトウは天ぷらにして食べる予定である。
小屋を建てて二年目の五月の連休のことである。大学時代の友人夫妻と春の北八を歩こうと言うことになった。麦草峠までの国道299号は雪も溶け、既に開通していて車で簡単に行ける。しかし山道には未だ沢山の雪が残り、夏山とは趣が全く違う。
この日は麦草峠から南へ尾根伝いに歩き、丸山を越え、中山峠の右側にある黒百合平に行き、帰りはニューへ回って白駒池に降りる予定である。
ニュウは一寸した岩峰で、稲の束を盛り上げて堆くなったところを昔ニュウと言った所から付けられた名前だという。とても見晴らしの良い所である。
途中丸山では、沢山の若者が新人トレーニングであろうか、アイゼンを着け、スパッツで足を固め、元気良く追い抜いて行った。頂上付近は広く、なだらかで、何処でも歩けるので、足跡で出来た道が何本もある。辺りは4、50センチの雪に覆われ、木が少ないため、小さいスキー場のような雰囲気であった。
丸山の雪原以外は、春山の雪道は、歩くところが4,50センチ幅で、狭く平になっていて、両端が大きく凹んでいる。どうしてそうなるのか分からない。平らな部分は人が踏むせいかやや固くなっている。この狭い雪道を歩くには多少のコツが要る。路の真ん中を歩くことと足を平らに置くことである。さもないと、力が一点に集中して、ズボッと潜る。家内は慣れないため、足を潜らす回数が極端に多い。それを気使う友人の奥さんも一緒になって潜り、娘時代に戻ったかのように「キャッキャ」と騒いで和気藹々のハイキングであった。
黒百合平は、キャンプ場でもあり、沢山の若者が色とりどりのテントを張っており、折しも食事時であるため、忙しく出入りしていた。我々も少し離れた壊れそうなベンチで湯を沸かし、蕎麦を造ったりコーヒーを湧かしたりして一休みした。此処に来ると何時も気になる”すり鉢池”の方を見やると、まだまだ沢山の雪があり、とても見えそうもない。諦めて帰途につく。
帰りは、途中の尾根筋を右に折れ、目的地ニュウへ向かう。
この道は、やや深い雪に覆われているが、登山者の足で固められ、歩きやすい道である。しかし、相変わらず家内は雪に足を落としながらの歩行であった。
ニュウへは昨年の夏にも来ているので、雰囲気は分かっていたが、重なり合った大きな岩の上に、ニョキニョキと飛び出した岩峰は小さいながら威厳がある。岩峰には殆ど雪が無く、手を使いながら30メートル程度登れば頂上で、見渡す限り北八の森林地帯が眼下に広がっている。その中に、白駒池が静かに横たわっているのが見える。真ん中は、既に氷が溶けているのか平に抜けているが、周囲は未だ真っ白い雪で覆われている。
眼を遠くの山に移すと、森のある西の方角を除いて北アルプス、北信五岳、浅間山、富士山、天狗岳がぐるりと見える。
写真を数枚撮り、白駒池を目指して降り始めた。
下りでも時々柔らかい雪の部分で足を落とし、踝から入る雪で、皆足が濡れていた。白駒池の近傍になると、平地が多く、道がはっきりせず、適当に歩いた跡が雪の上に広がっている。その辺りには小さな川があった筈である。夏道ならそれを避けて歩くのだが、雪のため川の流れがはっきりせず、音も聞こえない。突然家内が「キャーッ」と声を上げた。見ると踏み抜いた雪の下から足が覗いていて、川に足先を突っ込んでいた。手を指し述べて引き上げようとした私も雪の下の川に足を突っ込んだ。四人とも川の真上を歩いていた。
川をやり過ごすまでに全員、靴がビショビショになってしまった。大笑いをしながらやっとの思いでそこを抜け出し、池の畔にある山荘にたどり着いた。
暖かい日であったのと、後10分も歩けば、駐車場なので、緊張感もすっかり抜けていた。皆靴をグチャグチャ言わせながら歩いていた。落とした足の話しに花を咲かせながら駐車場に着いた。冬山だったら遭難ものだが、今日ばかりは冗談の種であった